学習通信090619
◎死の瞬間を確定すること……
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余録 「死」
ウサギとカメのレースはどこの人も考える物語らしいが、中には人間の運命を決めた勝負もあった。南部アフリカのサン人の神話では、月の神が「人間も月のように一度死んでも生き返る」との人への宣告をカメに託す
▲だがあまりにのろいカメにいら立った月の神はウサギを改めて派遣した。ウサギはすぐにカメを追い越すが、走りに夢中で肝心の伝言を誤る。「一度死んだら生き返らない」。おかげで人間は「死」を受け入れるはめになる。死の起源神話だ
▲神により死を与えられた人間が同時に文化を手に入れるというのは、各地の死の起源神話の定型という。しかし今日、手にした文化を先端医療にまで進化させた人間は、神に与えられたはずの死を自らで改めて定義し直さねばならなくなった
▲子供の臓器移植に道を開くかどうかが問われた臓器移植法改正4案の衆院本会議での採決で「脳死は一般に人の死」と位置づけた法案が可決された。この案では本人の生前の拒否がなければ家族の同意で臓器提供が可能になり、15歳未満の臓器提供を禁じた年齢制限も撤廃される
▲子供の移植医療を海外に頼る現状が厳しく問い直される中で進んだ今国会の法改正の審議だ。しかし一方で、脳死判定の難しさなどから子供の臓器移植に道を開く法改正には慎重論も根強い。共産党を除く各党は党議拘束を避け、議員個々の死生観に判断を委ねての投票となった
▲本紙世論調査では「脳死を人の死と認めるべきだ」との意見はなお28%にとどまる。参院審議では改めて国民に論点を示し、できるだけ幅広い合意の形成を図りたい。何しろ新たな「死」を受け入れるか否かの瀬戸際だ。
(「毎日」20090619)
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春秋
多からず少なからず。「三」という数字は重宝である。三羽がらすだの三英傑だの三美人だの、よく使われるのもそのためだろう。重宝さのゆえか、面倒な法律を作る時にしばしばもぐり込ませるのが「三年後に見直す」という規定だ。
▼最近では裁判員法がそうだった。1997年に施行された臓器移植法も「施行後三年をめどに全般について検討が加えられ、必要な措置が講ぜられるべきものとする」とうたっていたのだ。法律にあれば約束だろうが、ずるずると先延ばしになって施行から12年。やっときのう、衆院本会議で改正案が可決された。
▼この間、必要な措置を講ずるための検討が続いてきたとはとても言えない。きのうの採決には与野党とも党議拘束をはずしてのぞんだ。それほど個人の考え方がからむ難しい問題だ。いくらでも議論しなければならぬのに、たなざらしにしてきて国際的な批判が出ると重い腰を上げる。そんな構図が透けてみえる。
▼親友を人質に3日の猶予をもらい、自分は殺されるため死にもの狂いで戻る。100年前のきょう生まれた太宰治の「走れメロス」に約束の尊さを学んだ人は多かろう。政治も約束は果たしてもらいたい。人の死とは。あるべき移植医療とは。こうした難題に答えるのが政治の務め。道はようやく半ば。先は長い。
(「日経」20090619)
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臓器移植法改正4案採決 日本共産党の見解
国民的議論と合意形成必要
日本共産党の、こくた恵二国対委員長が18日、臓器移植法改正法案4案採決に先立って発表した見解は次のとおりです。
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一、拙速な採決には反対だ、ということをあらためて表明したい。
臓器移植法は、人の生死にかかわる極めて重大な法律である。脳死臓器移植によってしか救命が困難な疾患をかかえる患者を救う道をひらくことは重要な課題であるが、人の命にかかわるだけに慎重さと厳格さが不可欠である。従って、その改正には、正確な医学的知見を共通認識にし、国民的な議論をおこない、十分な審議をつくして、合意を形成する努力が必要である。
ところが、4法案の厚労委員会での審議は8時間にすぎない。しかも専門の委員会が議論の集約もできないまま、「中間報告」をおこない、本会議でいきなり多数決で決めてしまうようなやり方は乱暴きわまりない。審議をつくさず採決だけを優先することは、脳死臓器移植についての国民的理解と合意形成の障害ともなりかねない。こうしたやり方はとるべきでないということを改めて強調したい。
一、4法案の評価について、わが党として検討してきた結果をのべたい。
そもそも、現状では、脳死を「人の死」とすることには、国民的な合意はない。また、子どもの脳死判定基準については、医学的にも結論がでていない。さらに、臓器提供者本人の意思表示がおこなわれていない場合に、家族の同意で脳死判定や臓器の摘出をおこなうことの是非についても国民的な合意はない。
こうした点に照らして、子どもに対する脳死判定、臓器移植に道をひらくA案、B案、D案にはそれぞれ問題がある。
A案は、一律に「脳死を人の死」とし、年齢制限なくすべて家族の同意で臓器提供を可能とするものである。またD案は、15歳未満の子どもについては家族の同意のみで脳死判定と臓器提供を可能にするものである。またB案は、意思表示の可能年齢を12歳以上に引き下げるものだが、その根拠を合理的に説明できていない。
これに対してC案は、脳死判定を厳格化するというものだが、現行の脳死判定基準を厳格化する必要性について、医学界での合意は得られていない。
4案のどの案についてもその根幹で国民的合意が得られていない問題をかかえている。従って、わが党は、どの案についても賛成することはできない。
しかし、これらの問題点については、十分な国民的議論によって、今後、合意が形成されていくこともありうるので反対はせず、「保留」の態度をとることとした。
一、以上の立場で、本日の本会議にのぞみ、採決にあたっては、記名投票に加わらず、棄権する。
(「赤旗」20090619)
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形而上学者にとっては、事物とその思想上の模写である概念とは、個々ばらばらで・一つずつ順番に他のものなしに考察されなければならない・固定した・動かない・いったん与えられたらそれっきり変わらない研究対象である。
彼は、まったく仲だちのない対立のなかでものを考える。すなわち、彼のことばは、〈然り、然り、否、否、それ以上のことは、悪から出るのである〉〔『新約聖書』「マタイによる福音書」、五の三七〕、である。
彼にとっては、一つの物は存在するかしないかのどちらかである。
同様に、一つの物は、自分自身であると同時に他の物であることはできない。
肯定と否定とは、互いに絶対に排除しあう。原因と結果とも、同様に、互いに動きのとれない対立のうちにある。
この考えかたは、一見したところ、いわゆる常識の考えかたであるゆえに、この上なくもっともであるように見える。
が、この常識というやつは、自分の家のなかのありふれた領分ではひとかどの代物ではあっても、研究という広い世界に乗り出したとたんに、まったく不可思議な冒険を体験するのである。
そして、形而上学的な〈ものの見かた〉は、対象の性質に応じてそれぞれに広い領域で正当でありそれどころか必要でさえあるとしても、やはり毎回遅かれ早かれ或る限界に突きあたるのであって、この限界から先では、一面的で狭くて抽象的なものになり、もろもろの解けない矛盾に迷い込んでしまうのである。
それは、個々の物にとらわれてその連関を忘れ、それの存在にとらわれてその生成と消滅とを忘れ、それの静止にとらわれてその運動を忘れるためであり、木ばかりを見て森を見ないためである。
日常の場合には、われわれは、たとえば或る動物が生きているかいないかを知っているし、これをはっきり言うことができる。
しかし、もっとも綿密に研究してみると、これはときには複雑な事柄なのである。
それは、これから先は胎児の殺害が〔刑法に言う〕殺人になるという、そういう合理的な境界を見つけ出そうとしてさんざんむだ骨折りをしてきた法律家たちが、非常によく知っているとおりである。
また、同様に、死の瞬間を確定することも、不可能である。
と言うのも、生理学が立証しているとおり、死が、一度にかたづく瞬間的な出来事ではなくて、非常に長びく過程だからである。
同様に、どの生物も、各瞬間に同一のものであって同一のものではない。各瞬間に、外部から供給された物質を消化して、他の物質を排泄する。
各瞬間に、そのからだの細胞が死んでいき、新しい細胞がつくられる。
遅かれ早かれ或る時間ののちには、このからだの物質は完全に更新されて、他の物質原子に置き換えられてしまう。
その結果、どの生物も、つねに同一のものでありながらしかも別のものなのである。
また、いっそう綿密に考察してみるとわかるように、或る対立の両極たとえば正と負とは、対立しているとまったく同様に切り離せないものであり、どれほど対立していようと互いに浸透しあっているのである。
同様に、原因と結果とも、個々のケースに適用されるときにだけそのままあてはまる観念であって、個々のケースを全世界との全般的連関のなかで考察すれば、すぐに両者は結びあい、普遍的な交互作用という見かたに解消してしまう。
この交互作用では、原因と結果とが絶えずその位置を換え、いま・あるいはここで結果であるものが、あそこで・あるいはつぎに原因になり、また、その逆も行なわれるのである。
(エンゲルス著「反デューリング論 -上-」新日本出版社 p35-37)
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◎「脳死臓器移植によってしか救命が困難な疾患をかかえる患者を救う道をひらくことは重要な課題であるが、人の命にかかわるだけに慎重さと厳格さが不可欠」と。