学習通信090618
◎「餓死する人がいてもしかたがない」と思うか……

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《潮流》

貧困の影響が子どもにどんな心の傷をもたらしているのか。現場からのリポートをいくつか目にしました

▼福島県の小学校教師。担任した5年生のクラスには問題を抱えた子どもが何人もいました(『生活指導』6月号)。母親がギャンブルでお金を使ってしまい、食事がとれない子。すぐパニックを起こし、机を倒し、いすを投げ、大声で泣き叫ぶ子。気にいらないことがあると保健室にいって隠れる子

▼学習内容がきちんと身についていない子どもたちに、楽しみながら漢字を覚える授業をやり、算数も低学年の内容までさかのぼって教えました。子どもたちは自信をつけていきます。学校に不信を持っていた親たちとも、親子キャンプの機会に夜遅くまで話しこみました

▼全日本教職員組合編集の『クレスコ』6月号には、小学校の養護教諭が保健室にくる子どものことをつづっています。複雑な家庭環境、親の離婚、虐待…おとなへの不信感を抱えた子どもたちが多くやってきます

▼養護教諭にすがって泣いたり、抱っこやおんぶをして甘えたり。暴れ、奇声を発する子が、自分の好きな絵を何枚もかいて、落ち着くと教室へ戻っていきます。養護教諭は子どもの「心の声を聞く」ことを大事にしています

▼学校だけではありません。児童相談所、養護施設、保育所など福祉の場でも子どもたちの成長を保障しようという必死の努力が続いています。「貧困の連鎖を断ち切ろう」と。そのために今、なにより問われているのは政治の責任です。
(「赤旗」20090609)

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はじめに

 日本人の多くがもつ「子どもが育つ理想の家庭」のイメージは、決してお金持ちの家庭ではない。貧しくても、家族の結びつきが強く、温かい、幸せな家庭。私たちが連想しやすいのはそういう家庭である。『サザエさん』の磯野家や『ちびまる子ちゃん』のさくら家、近年では吉永小百合が温かいおかあさん役を演じて話題となった映画『母べえ』(山田洋次監督、二〇〇八年)。どれも、決して、裕福な家庭ではない。テレビドラマや小説では、むしろ、お金持ちの家庭のほうが冷たく、不幸な育ち方をしているイメージが作られている。『ちびまる子ちゃん』に登場する花輪クンの家は、じいやがリムジンで小学校の送り迎えをするような家庭だが、花輪家よりも、三世代の家族がちゃぶ台を囲んでテレビを見ながらみかんを食べるさくら家のほうが幸せそうである。磯野家もさくら家も「普通の家」であり、「普通の家」で育つ限り、現代日本の子どもは通常は幸せであると考えられていた。

 子どもに関する社会問題といえば、厳しい受験戦争からくるストレスや、次から次へと開発されるゲームヘの没頭やインターネットからの悪影響など、子どもが属する家庭の経済問題とは別のところで論じられてきた。むしろ、このような問題は、裕福な家庭で育つ子のほうが多いと考えられている風潮さえある。

 このような傾向の中で、長い間、日本の子どもが直面している経済状況を社会問題とすることはタブーとされてきた。根底にあったのは、日本が「総中流」社会であるという考えである。たしかに、児童養護施設で育つ子や、生活保護を受ける世帯に育つ子もいるであろうが、そのような子どもはごく少数の特殊な例であり、日本の大多数の子どもは「貧困」などからは遠い位置にあると多くの人が信じてきたのではないか。そして、多少の差はあるものの、すべての子どもがそれ相応の教育を受け、能力と意欲さえあれば、世の中で成功することができるのだ。

 しかし、一九九〇年代に入ってからは、日本が「格差社会」であることが、多くの人に意識されるようになり、「一億総中流説」は神話と化した。そんな中、二〇〇六年七月には、経済協力開発機構(OECD)が「対日経済審査報告書」にて、日本の相対的貧困率がOECD諸国の中でアメリカに次いで第二位であると報告し、これは、大きな衝撃をもって受け止められ、マスメディアにおいても多く報じられた。いわば、日本の貧困が「お墨付き」となったわけである。「格差」という言葉を日本社会にあてはめることには慣れてきていた一般の人々も、「貧困」という言葉を日本にあてはめて用いられたのはショックであった。

 大人の社会で「格差」が存在するのであれば、大人の所得に依存している子どもの間にも、当然のことながら「格差」が生じる。前述のOECDの報告書では、子どもの貧困率についても警告を鳴らしており、@日本の子どもの貧困率が徐々に上昇しつつあり、二〇〇〇年には一四%となったこと、Aこの数値が、OECD諸国の平均に比べても高いこと、B母子世帯の貧困率が突出して高く、とくに母親が働いている母子世帯の貧困率が高いこと、が指摘された。

これらの指摘については、多くの研究者が紹介し、二〇〇七年初めには、野党が国会質問で取り上げ、同年末には「子ども手当法案」を提案するなど、政治的な動きも徐々に高まっている。一般の人々に対しては、二〇〇八年五月に『週刊東洋経済』が、「子ども格差」と題する特集を組んだ(東洋経済新報社、二〇〇八年五月一七日号)。とうとう、「子ども」と「格差」が同じ土俵でマスメディアにて語られることになったのである。このことは、われわれ、長く貧困研究に従事している研究者の中でも、一つのエポックと受け止められた。そして、八月には『週刊ダイヤモンド』においても「格差世襲」という特集が組まれた(ダイヤモンド社、二〇〇八年八月三〇日号)。

 しかし、それでも、子どもの経済問題は、依然、「格差」という言葉で語られ、「貧困」は語られているようで語られていない。『週刊東洋経済』の「子ども格差」特集の一部は、「「子どもの貧困」最前線」を掲げているものの、中身は虐待問題、生活保護の問題、妊婦健診の公費助成の地域差などを取り上げており、今ひとつ、「子ども」と「貧困」を結びつけていない。その理由は、おそらく、どの程度の生活水準が「貧困」であり、どの程度までが「貧困」でないのか、その境界線がいまひとつピンとこないからであろう。

 OECDの報告書の指摘する「子どもの貧困率一四%」は確かに高く感じられるが、ここでいう「貧困」とはいったいどのようなレベルのことを指すのか、はっきりとわからない、というのが、日本のほとんどの人々の感想ではないであろうか。言葉を換えて言うと、資本主義の社会で生きている以上、ある程度の「格差」が生じるのはいたしかたがない。花輪クンの家の生活水準と、ちびまる子ちゃんの家の生活水準に格差があることは社会問題なのであろうか。たしかに、花輪クンとちびまる子ちゃんが、受験戦争で競争するのであれば、たぶん、幼児教育や家庭教師などの恩恵を受けてきた花輪クンが勝つであろう。つまり、「機会の平等」が保障されていないこととなる。しかし、誰もが有名大学に行きたいわけでもないし、行ったからといって、それが幸せにつながる保障があるわけでもない。ここで、また、議論は堂々巡りをしてしまうのである。

 貧困研究で著名な岩田正美日本女子大学教授は、貧困と格差の違いを決定づける基準として、貧困は「許容できないもの」と定義づけている(岩田2006)。つまり、格差が皆無であるユートピアの世界ではともかく、現代資本主義の社会においては、ある程度の高い生活水準の人と、比較的に低い生活水準の人ができてしまう。つまり、「格差」は多かれ少なかれ存在する。子どもにとっても、まったく同じ条件でスタートラインにたつというような完全な「機会の平等」は理想として語られることはできても、それを実質的に保障することは不可能に近い。しかし、貧困と格差は異なる。貧困撲滅を求めることは、完全平等主義を追求することではない。「貧困」は、格差が存在する中でも、社会の中のどのような人も、それ以下であるべきでない生活水準、そのことを社会として許すべきではない、という基準である。

 この「許すべきではない」という基準は、価値判断である。人によっては、「日本の現代社会において餓死する人がいることは許されない」と思うだろうし、またほかの人は「餓死する人がいてもしかたがない」と思うかもしれない。また、「すべての子どもは、本人が希望して能力があるのであれば大学までの教育を受ける権利があるべきだ」と思う人もいれば、そう思わない人もいる。だからこそ、「貧困」の定義は、社会のあるべき姿をどう思うか、という価値判断そのものなのである。
(阿部彩著「子どもの貧困」岩波新書 p1-5)

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対症療法で解決できない日本社会のゆがみ
 東京大学大学院教授 本田 由紀さん

 現在、1960年代の「高度経済成長期」に成立した社会モデルというものが明らかに破たんを迎えていると思います。たとえば、生活保護世帯数、完全失業者数、貯蓄非保有世帯といった貧困を示す指数が90年代のバブル経済崩壊とともに急増し、生活基盤が成り立たないような社会に突入してきたのは明らかです。

 こうした現状にたいして対症療法的な政策をいくらおこなっても根本的な解決にはならず、日本社会全体の構造をふりかえり、しっかりしたビジョンのもとに転換させていかないといけないと思います。

戦後日本型循環モデル

 ほかの先進諸国では70年代のオイルショックの時期に社会の矛盾が露呈して、さまざまな模索が始まっていたのですが、日本では「戦後日本型循環モデル」によって矛盾をおおいかくし、90年代まで突っ走ってしまった。その後も長期不況のなかで矛盾や綻びは見えてきながらも、今度はとりあえず新自由主義的な方向で社会を変える形できましたが、本質的なのりきり方にはなっていませんでした。

 では、「戦後日本型循環モデル」とはどういうものか。社会を維持し、再生産するために必要な役割を果たすのは、仕事、家族、教育という3つの社会領域ですが、その間にきわめて密接な循環が成立していたという構造です。3つの間に太い矢印が描けます。

 仕事と家族をつないでいたのは、長期安定雇用と年功的に上がっていく賃金です。それらにもとづいて家族をつくり、子どももつくって、家族をだんだん豊かにしていくことができました。

 家族と教育をつなぐのは、教育費用です。賃金は、教育費が一番かかる時期に高くなる仕組みになっており、受け取った賃金を子どもの教育に回すことができました。さらに、家族の専従者としての母親が子どもの教育に大きな意欲も注ぎ込んできました。

 教育と仕事をつないでいたのは、いわゆる新規学卒一括採用という独特な仕組みです。在学中に就職先の内定を取り、3月に学校を卒業したら4月1日に入社式があって正社員になる。そのため当然若年失業者が少なく、ほかの国で若年失業者が増加していた70年代後半から80年代にかけて、日本は奇跡のような国だといわれていました。

 この太い矢印が勝手に回ってくれる循環が成立していたのです。

 では、その間に政府は何をやっていたか。産業政策によって仕事の世界をなんとか成立させておけばあとは勝手に回ってくれるので、教育や家族にたいしては直接の公財政支出を抑制することが可能でした。

内側から腐り始めていた

 この循環モデルは実は、回っている当時からすでに問題は明らかになっていました。私は、「3つの社会領域の中が空洞化していた」あるいは「内側から腐り始めていた」という表現をしているのですが、矢印が太くなりすぎて自己目的化してしまい、それぞれの社会領域の独自の価値、存在意義が見失われてきたのです。

 たとえば教育では、学ぶ目的はいい学校に入っていい会社に入るためになってしまい、なぜ学ぶのかという本質が置き去りにされながら、とにかくこの矢印にひっぱられる形で教育が成り立つような現象が生じていました。70〜80年代にかけては「受験競争」とか「学歴社会」が非常に話題になりましたね。

 仕事では、会社に雇用を守ってもらうために人々は会社人間的な働き方をさせられるようになりました。望まない異動や単身赴任でも受けざるを得ず、果ては過労死まで生むような状況です。自分の仕事やキャリアの自律性や意味といったものが失われてしまいました。

 このモデルの家族は強固な性別役割分業を前提としているため、そういうなかで母親がぽつんと取り残され、家族メンバーではあってもほんとうの親密性は失われてしまいました。70年代後半にはテレビドラマや映画でも、たとえば「家族ゲーム」「金曜日の妻たちへ」など、空洞化した家族がテーマになったものが増えました。

1つの変化が全体をガタガタに

 80年代までは、矛盾はあっても循環は止まりませんでした。ところが、バブルが崩壊した90年代以降、循環そのものが成り立たなくなってしまいました。そのおもな原因は、仕事の世界の変化です。正社員がぐっと縮小しただけでなく、さらに正社員の中でも名ばかり正社員≠ニいわれる、昇給もボーナスも研修もない劣悪な労働状況にある正社員があらわれています。

 循環が密接であったために、1(仕事)領域が変化すれば全体が変質します。仕事の世界から家族に持ち帰れる賃金が大きく減り、家族がつくれない若者も増えました。家族がつくれたとしても、子どもの教育に注げるお金や意欲には家族間で大きな差が出てきました。また、教育を受けたあと時を置かずに正社員に雇用されるというのは全員にはあてはまらなくなりました。一部にはまだ堅牢な循環に飲み込まれている人たちもいますが、全体としてはガタガタになっています。

 また、そもそも3つの社会領域や循環関係に包摂されないような個人──「ネットカフェ難民」や生活保護を受ける人々──がたくさん生まれています。

 一方政府は、3領域間をつなぐ矢印が細くなっているのに、直接に教育や家族に向かうような矢印をつくったわけでもなく、3つの領域から排除された人が生きていけるようなあたたかい施策で満たすような方向ではなくて、規制緩和や小さな政府を叫んでむしろ福祉を引き下げる方向をとってしまいました。これでは社会は成り立ちません。

矢印≠切る

 ではこれをどうするのか。矢印関係をこれまでとは違う形で立て直す、3つの矢印をいったん切って、循環を再構築すべきというのが私の意見です。「昔はよかった」と以前の循環を懐かしむ意見もありますが、この循環に戻るのは無理だし、もともと腐っていたと思います。

 矢印を切るとは、たとえば教育と仕事の関係では、これまでは学校で職業教育をおこなわなくても、新規学卒一括採用後、企業が抱え込んで職業能力をつけさせてくれるはずでした。そうではなく、たとえば産業別職種別の組合などが職業能力の向上のための教育・研修をおこなったり、同じ職種であれば一定の賃金は支払われるような形にしたりするよう、企業に働きかけていく必要があります。

 教育も、仕事に向けて若者を準備させるような役割を担っていく。家族も、男女とも働くけれども一定の時間には家庭に帰り、本来の家族的親しみを取り戻す。

 重要なのは、家族と教育の関係です。この矢印は切断するべきです。家族から流れ出た費用や意欲に支えられて教育が成り立っている状況では、格差の世代間連鎖が深まるばかりです。家族間の格差が反映されないようなしっかりした教育を構築する必要があります。当然、公財政から教育への費用がもっと必要になります。教職員も増やして、塾などに依存しなくても落ちこぼしが生まれず、卒業後に仕事の世界で生きていける力の基礎をつけることに教育領域が責任をもつべきです。

 また、3領域以外の「真空状態」だった周囲を、社会福祉によってあたたかい液体で満たしていくことが必要です。もちろん財政の投入が必要です。ただ、高度な福祉でしか支えられない社会というのは不健全だと思います。企業がどんどん派遣切りをするなどやりたい放題にしておいて、全部その尻拭いを政府が福祉政策として引き受けるというのではなく、3領域が潜在的にはもっている活力を使いつつ、それでもどうしても出てくる人たちはきちんと救うことが必要です。

国民の協同の芽

 日本社会をふりかえり、この社会がどうなっていたか、どこにゆがみが集中して、このまま進んでいいのかどうかを見極め、今後のビジョンをもつことは、どの政党にも必要だと思います。これまでの日本を支配してきた政党はこういう転換は難しいでしょう。ですから、政権交代は必要です。しかし、ただ単に政権交代しただけでは、新しい政権政党がいままでとどれほどちがいがあり、どれほど機能するのかは非常に心もとないですが。

 循環の再構築のためには、国民の協同が必要です。楽観しすぎてはいけませんが、協同の芽は前よりずっと増えてきているのも実感します。違法状態の職場に労働組合が立ち上がってきています。「年越し派遣村」のように、組織やイデオロギーのちがいをこえて、多様な人々がいつの間にかつながり助け合っていく、その中で声をあげていこうという動きが出てきました。これは大きな希望だと思います。(談)
(「女性のひろば 09年5月号」日本共産党中央委員会 p54-58)

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◎「貧困の連鎖を断ち切ろう」と。