学習通信090612
◎多くの日本人にとって、キャデラックこそはアメリカの途方もない豊かさを実に効果的に視覚化するものだった……
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《潮 流》
ゼネラル・モーターズ(GM)ができたのは、101年前の1908年です。創業者デュラントは、馬庫をつくる会社の経営者でした
▼同じ年、自動車の「革命」が起こります。T型フォードの登場です。安い車を大量につくる。自動車工業は人民の貧困が壁になって崩壊する≠ニいうレーニンの予想もくつがえし、自動車は大衆の乗り物にかわってゆきます
▼フォードの成功の裏でいったん危機に陥ったGMも、やがて盛り返します。相次ぐ買収でほかの自動車会社を手中に。車名の「キャデラック」や「シボレー」は、買収した会社の名前です
▼合言葉は、「あらゆる財布とあらゆる目的に合う自動車を」。高級車から大衆車までなんでもそろう、というわけです。買い替え時の需要に合い、27年に販売高1位へ。以来、全米一の地位はゆるぎません
▼しかしGMは、肝心なとき時代を見誤りました。かつて「ガソリンを食う怪物」とよばれた米車。石油高や地球の温暖化は、小型化や環境車の開発を促します。GMは、目先の利益にとらわれ、社会の求める車づくりをおこたりました。競争力も落ち、世界一の座を昨年、トヨタに譲りました
▼1950年代、閣僚に任命されたGM社長が国に有益だがGMには不利益なこともできるか≠ニ間われ、答えています。「GMによいことはアメリカにもよいことだ」。「GMは国家なり」の言葉が生まれました。その巨大企業が倒産し、「国有化」のもとで国に負担をかけながら再建をめざします。
(「赤旗」20090603)
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第3節 大衆消費社会の登場
フォードの栄光と挫折
一九一九年から二九年のあいだに、企業収入は二倍近く増加したが、給料生活者の実質収入の伸びは二五%程度にすぎない。裕福な階層への優遇税制もあって、貧富の差は拡大しつっあった。しかし労働者の不満は労働運動に結集しない。組合員数は顕著な減少を示したし、大戦直後の激しい労働争議は過去の物語になっていた。雇用者側の巧みな対応、組合潰しと組み合わされた福祉資本主義──有給休暇制、厚生施設の充実、住宅購入のための低金利融資、株式購入の許可など──も効果的だった。他方、経済学者ソースタイン・ヴェブレンが指摘するように、消費文化は、経済体制への不満を逸らし、地位と達成の手近な象徴に満足を求めさせた。
そのことを如実に示すのが、ウィルソンの的外れの警告である。一九〇六年、まだプリンストン大学教授だった彼は、富の傲慢さをまざまざと見せつけた「自動車ほど、この国に社会主義的感情を広めたものはない」と嘆いた。しかしこれは、貴族主義的知識人の杞憂にすぎなかった。社会主義を広めるどころか、車は着実に大衆の足になってゆく。一九一五年には二五〇万に満たなかった車の登録台数は、二〇年には九〇〇万台を突破し、二五年には二〇〇〇万台近くへと急増し、普及率も五〇%を越えた。大衆市場向けに大量生産を開拓し、現代消費文明の先陣を切ったアメリカ資本主義の特質は、ここに明瞭に示されている。
大量消費社会への道を開いたのは、安定的な労働力と消費者双方の確保を目指したフォード自動車会社である。その第一の戦術は徹底した標準化だった。それは、黒色のモデルT(一九〇八年発売)のみの生産、一体式四気筒シリンダーのような単純化された部品、部品の互換性を可能にし、限られた訓練しか受けていない労働者にも操作できる工作機械の開発にみられる。さらに一三年には「ボルトを差し込む者はナットを取り付けず、ナットを取り付ける者はそれを締め付けない」を原則とする分業の徹底化と、労働者ではなく車のフレームを動かす方法が導入された。労働者は、各自の持ち場で特定の部品を取り付けるだけの人間機械になった。
この方法で、一台当たり組立て時間はコー時間半から二時間以下に短縮され、導入前年とほぼ同数の労働者で生産を倍加できた。しかし、機械による労働ベースの設定は労働者を消耗させる。高かった離職率──一二年には五万三六〇〇人の労働力確保のために、五万二〇〇〇人を雇用していた──がさらに高くなる恐れもあった。そこで一四年には、労働時間短縮(九時間から八時間へ)と五ドルの日給が導入される。これは、当時の平均日給の倍に等しかったから、労働者が殺到するが、すべての労働者がこの恩恵に浴せたわけではない。労働効率だけでなく、勤勉・清潔や英語能力などアメリカ化に関しても、会社が設定する標準を満たさねばならなかった。
その強制的温情主義の是非はともかく、日給五ドルは、労働者の不満緩和の手段にとどまらず、車のような大量生産される新商品をだれが購入するのかという大問題への回答でもあった。値下げも積極的になされる。「家族全員を乗せるに十分な大きさで、一人の人間が走らせ面倒をみられるほどに小さ」く、「ほどほどの給料を取る人間ならだれでも」買える大衆車がフォードの理想だった。単一のデザインと色もそのための戦略だった。合理化の追求の結果、一九〇九年には九五〇ドルだったモデルTは一六年には三四五ドル、二四年には二九〇ドルに低下していた。最終的に一五〇〇万台以上が生産されたモデルTは、車をまさに大衆の足にした。
ジェネラルーモーターズ(GM)の戦略
フォードとは対照的な戦略を採用し、先の大問題に別の解答を与えたのが、二〇年代中葉にはフォードを凌駕するGM社であり、別の解答とは経営・金融・デザイン・宣伝の重視である。月賦で購入できるように引受会社を設立し(フォード社は掛売りを認めなかった)、豪華なキャデラックから大衆的なシヴォレーに至るまで「すべての財布と目的にかなう車」を生産し、多彩な塗装を用意する一方で、広告と頻繁なモデル・チェンジによって、所有者に買い替えを強いた。GMの重役は、可能なかぎり多くの人間に所有しているものへの不満を抱かせることこそ、広告の目的だと断言する。現状への満足は進歩の拒絶に等しく、非アメリカ的感情であった。
消費者に絶えず不満を抱かせる、会長アルフレッド・P・スローンのいうパリの婦人服業者の法則によってGMは、業界トップに躍り出た(フォードの市場支配率は、二一年の五五%から二七年の二五%に急落した)。「旧型車を古臭く見せるためにときおりデザインを変更する」のは不道徳と考えていたフォードも、二七年、新型のモデルAの発売に踏み切る。「洗練された優雅なライン」や「穏やかで良い趣味」を強調する宣伝は、自動車王に、車ではなく装身具を作っている気分になったと慨嘆させた。大量生産の商品は、品質や価格に大差がないから、色彩・形状・包装などによる差別化が決定的に重要になり、アメリカ社会はファッション・ショーの迷宮に迷い込むことになった。
GMに勝利をもたらした月賦販売は、車に限定されていたわけではない。二〇年代末には、洗濯機と車の七五%、家具の八五%、掃除機・ラジオ・電気冷蔵庫の大部分がクレジット購入されていた。若い勤労女性は、すでにこの時代から、流行の服装を分割払いで入手していた。高額の消費財購入のために貯蓄するやり方は時代遅れになり、「購入は今すぐ、支払いはのちほど」が新たな基準になりつつあった。この購入法は、商品の所有によって社会的地位や満足な生活や異性への人気を保証する、「見栄のくすぐり」をこととする宣伝と相まって、大衆に文化的理念としての消費を植え付ける。個人的充足が消費と不可分に結びつくことになった。
(野村達朗編著「アメリカ合衆国の歴史」ミネルヴァ書房 p185-189)
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現代のことば
佐伯 啓思
キャデラックと
ともに潰えた夢
特に車好きというわけでもなく、自動車に詳しいわけでもない私のようなものにとっても、たとえばキャデラックという名前にはある情緒が付いてまわる。キャデラックとは、いうまでもなく、GMの最高級車であるだけではなく、アメリカの象徴ともいうべき車であった。大統領からマフィアのドン、ハリウッドースターにいたるまで。「アメリカ」を象徴する人物は「アメリカ」を象徴する車に乗るのが由緒正しい高級車の使い方である。
ロッキードP−38戦闘機を模して製作されたとされる、一九五〇年代から六〇年代にかけてのあの独特のテールフィンをもった造形は、キャデラックという名を不滅のものとした。その時分、私は、乗り物といえば、自転車とバスしか乗ったことのない、地方の小さな町に住む子供だったが、それでも、「乗物図鑑」か何かで見たキャデラックには、目を見開いた。実際、まだ「三丁目の夕日」のような世界にいる多くの日本人にとって、キャデラックこそはアメリカの途方もない豊かさを実に効果的に視覚化するものだったのだろう。
そのGMが経営破綻に追い込まれ、政府が救済に乗り出すことになった。少し前なら信じがたい出来事である。
直接的な原因は、GMの経営方針の欠陥や技術革新の遅れ、強い労働組合、金融への過度の依存など様々あるにせよ、GMが志向した大型車、高級車がもはや支持されなくなってしまった、という基本的な事実から目をそらすわけにはいかない。GMのみならず、アメリカ自動車産業に決定的な打撃を与えたのは、皮肉なことに日本車である。八〇年代には、トヨタが送りだす低燃費、低価格の小型車はアメリカ車を凌駕していった。トヨタは、アメリカの生みだした自動車の大量生産、大量消費というコンセプトを徹底し、「誰もが気楽に乗れる」大衆車を生みだした。
これは、自動車というものの意味を根底から変えるものであった。自動車が、豊かであることの象徴として「夢」の乗り物であった時代の終わりであり、それは、文字通り「普通の」乗用車になった。日本車は、誰にとっても運転しやすく、故障の少ない、きわめて扱いやすい車であった。
キャデラックという名称は、デトロイトという町を作ったフランス人貴族カディラックからとられたそうであるが、名前からもわかる通り、この車にはまだヨーロッパの貴族の道楽という、そもそもの車の発祥の所以が残っている。本来、車は、貴族にとっての「速く走る馬」だったのである。暴れ馬の方が乗りがいがある。故障しようと乗りごこちが悪かろうと、扱いが難しかろうと、速く走って、カッコよければそれでよいのである。
キャデラックというアメリカの夢の車を追いかけた日本によって作り出された大衆車が、車というものに託された夢を破綻させてしまったのである。ハリウッド・スターがプリウスに乗り換えたときに、アメリカの夢は潰え去ったわけである。 (京都大教授・社会経済学)
(「京都 夕刊」20090611)
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国道を通るアメリカ車をいつもながめていた
ぼくの小学校時代はアメリカ車時代といっていい。
小学校四、五年のころ、ぼくは夏休みになるとよく水戸から横浜、葦名橋のばあちゃんの家に行った。おふくろの実家である。ここでよく美空ひばりのビウィックを見たものだ。ぼくが小学校四、五年生だから、彼女はまだ中学校に入学したかしないかで、人気絶頂になりかけのころだ。ばあちゃんの家から美空ひばりの家まであたりを間坂(まさか)といって、横浜では高級住宅地であった。横浜だから、ちょっと洋館ぽい家が建ち並び、当時はほとんど米軍の軍人、軍属に接収されていた。そしてどの家も前庭か後庭の広いのがついていて、そこにビウィック、オールズモビル、パッカード、スチュードベイカーといった錚々(そうそう)たるアメリカ車が並んでいた。
ばあちゃんが住んでいるのは庶民が住んでいる下のほうだが、美空ひばりのひばり御殿は坂の上。いまのプリンスホテルの敷地とほとんど同じ高さで、海に向かってトーンと開けた展望のよさそうな家であった。美空ひばりのビウィックはこの坂をダーツと上がってくる。ひばり御殿の前に着いたビウィックが「パン、パーン」とクラクションを鳴らすと、引込み式のドアがグーンと開いて、ビウィックはダーンと邸の中に吸い込まれていく。こいつはなかなか見ものであった。
葦名橋のばあちゃんの家に行くのは、美空ひばりだけが目的じゃなかった。ぼくは、ばあちゃんの家に着くと、夕方の四時から五時ごろ、葦名橋に出て、道路を通るクルマを見るのを楽しみにしていた。本牧や横須賀には大きな米軍キャンプがあって、朝と夕方、そこの軍人、軍属が色とりどりのアメリカ車に乗って通るのである。古いモデルから最新型までさまざまなアメリカ車が通りすぎていく光景はまさにアナザー・ワールドであった。いかに当時の中流の家とはいえ、祖母の家もなんだか薄よごれていたし、水戸に帰れば帰ったで、自分の家もそうだった。そんなみすぼらしい日本の現実のなかで、緑色と白のツートーンのオールズモビルがスーツと通過していく光景は、まさに超現実的世界だったのだ。
葦名橋の電車道を越えて一〇〇メートルも行くと、そこはすぐ海であった。ぼくはクルマを見るのに飽きると、そこで泳いだり、潮干狩りをして遊んだ。当時の横浜の海ではバカ貝やシャコなどが腐るほど採れ、お昼のおやつが来る日も来る日もゆでたシャコばかりで、うんざりさせられたものである。いまとなっては、ぜいたくな話ではあるのだが。
さて、葦名橋で一生懸命アメリカ車を見ていても、小学生のぼくにはそのクルマの名前が半分ぐらいしかわからない。当時は資料というものがない。自動車雑誌なんてものすらないのだ。いったいどうやったらクルマの名前がわかるのか、その方法はないだろうかと、ぼくは懸命に考えた。ぼくの興味の対象は、セミからクルマに移っていたのである。英語のできる伯父さんを頼りに、英語の辞書でローマ字読みにして考えてもみたのだが、伯父さんにしたって世界中のクルマの名前を知っているわけじゃない。やはりどうにもならなかった。
この問題が解決されたのは、ぼくが中学一年生になってからである。ちなみにぼくは茨城大学付属中学校で学んだ。ここは実験校的な色彩の強い国立中学校である。一学年一クラスのエリート教育で、先生も特別に大学の講師クラスの人が来て教えていた。生徒のことをああだこうだと、うるさくいわないきわめて自由な気風があった。
塀和さんの息子さんに、イサムちゃんという、ぼくより二つ年上の男の子がいた。このイサムちゃんがクルマの名前をよく知っていた。おやじに連れられて塀和さんの家に遊びに行ったら、偶然、クルマの話になった。するとイサムちゃんは「博愛、おまえ、自動車が好きなのか」ということでクルマの名前を教えてくれたのである。
そのうちぼくは「世界一の乗用車はなんだ」と聞きはじめる。すると、イサムちゃんはぼくより二つ年上で、友達もたくさんいたから、その友達のところに行って聞いてくる。塀和さんの家で待っていると、帰ってきて教えてくれるのだ。イサムちゃんは最初は、世界一のクルマはパッカードだといっていたが、そのつぎにはキャディラックになった。そして最後に、「いや、いままでいったのは全部違うんだ。本当の世界一はロールス・ルイスだよ」といった。なるほどそれは正解だった。かくしてぼくは、中学校で世界中のクルマの名前を知るようになった。
中学校に入ると、英語の読み書きが始まる。こうなると、葦名橋のばあちゃんのところに行くのが、また楽しみになってくる。なにせ今度は車名が読めるようになったのだ。さらにぼくは官本晃男さんという運輸省の技官が書いたクルマの本を買った。この本の見返しには一九四〇年代からその当時までのアメリカ車のラジェーターグリルの形がすべて描かれていた。このイラストレーションのおかげで、クルマの年式と名前がドンピシャでわかるようになった。かくして、この本は長らくぼくのバイブルとなる。
そうこうしているうちに、ぼくは実際にクルマを運転しはじめる。ぼくがおやじにクルマの運転を習いたいと頼むと、このころ水戸でタクシー会社を始めていたおやじは、簡単にオーケーしてくれた。最初はオレが教えてやるから、そのうち会社の運転手に教えてもらえというのである。練習に使ったのは、オンボロのB型フォードである。そのころ戦前のフォードがうちに三台あった。そのうちの一台をもっぱら練習用にあててもらった。そして、中学二、三年生のころには、ぼくはもう街中で普通にクルマを運転していた。制服の中学生がクルマを運転するというのもすごい話だが、おやじが公安委員長をやっていたものだから、警察署も大目に見てくれていたのである。なんとものんきな時代ではあった。
(徳大寺有恒著「ぼくの日本自動車史」草思社 p20-24)
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◎「GMは、目先の利益にとらわれ、社会の求める車づくりをおこた」ったと。