学習通信090603
◎なんだろう、脳みそ……

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 人生のはじめのころには、記憶力と想像力はまだ活発にはたらかないから、子どもは現実に感官を刺激するものにしか注意をはらわない。

感覚は知識のもとになる材料だから、適当な順序でそれを子どもにあたえてやることは、将来、同じ順序で悟性にそれを供給するように記憶を準備させることになる。

しかし、子どもは感覚にしか注意をはらわないから、はじめはその感覚とそれをひきおこすものとの関係を十分明確に示してやるだけでいい。

子どもはすべてのものにふれ、すべてのものを手にとろうとする。そういう落ち着きのなさに逆らってはならない。それは子どもにきわめて必要な学習法を暗示している。

そういうふうにして子どもは物体の熱さ、冷たさ、固さ、柔らかさ、重さ、軽さを感じることを学び、それらの大きさ、形、そしてあらゆる感覚的な性質を判断することを学ぶのだ。

つまり、見たり、さわったり、聞いたりして、とくに視覚を触覚とくらべ、指で感じる感覚を目ではかることによって、学ぶのだ。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p75)

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なんだろう、脳みそって

 二一世紀に生きるみなさんは、まさか頭の中身がなんであるかを知らないはずはありませんよね。しかし、わたしは子どものときに、強情をはっていると「石頭」、ドジをすると「頭が風船のように軽い」などと言われ、頭はどんなはたらきをしているのかとふしぎに思ったものでした。

 脳みそともいいますが、なんだかおいしくはなさそうですね。カニの甲羅の中のやわらかい部分を「カニみそ」というように、脳みそはやわらかいふにゃふにゃしたものという意味なのでしょう。ひょっとしたら、昔の人は狩猟でとらえた動物の脳を食べていて、そう言ったのかもしれません。ともかくやわらかいものらしいのですが、なんでそんなものがつまっているんだろうと考えてもふしぎでした。からだを動かす筋肉やささえる骨、食べものを消化する胃腸、血液を送りだす心臓、呼吸をする肺など、役割がすぐにわかる部品とちがってイメージがつかめませんでした。

 もちろん、小学校を出るころには、脳は考えるところであり、心もここにある、そしてかたいよりはやわらかいほうがよく、軽いよりは重いほうがいいらしいくらいのことは理解できました。しかし、脳みそがからだを動かしている、脳みそが見たり聞いたり感じたりしているといわれても、目や耳のような形のはっきりしたものがあるのではなく、豆腐のようなものにそんなことができるのかとピンとこず、やはりミステリーのままでした。

 でもその後、いろいろとこの方面のことを勉強し、ああ、こういうぐあいに感じ、心をときめかせ、からだを動かしているのだと感心しました。ほんとうにうまくできているなあとビックリするほどです。

 生体コンピュータ・ネットワーク

 では、脳や神経って何をしているのでしょうか?

 かんたんにいってしまえば、からだの中にはりめぐらされているコンピュータ・ネットワークです。頭の中の脳と背骨の中のせき髄、それらから筋肉や皮膚などにいきわたっている末しょう神経からなっています。

 見たり、聞いたり、さわったりしたことを感じとる装置。記憶したり、好き・きらいなどの感情の場。考えて判断し、行動を決めるところ。そして手足の筋肉などに動くように命令する司令塔。もうひとつ、心臓などの内臓のはたらきやホルモンの分泌を調節するなど、からだのライフライン維持の役割もしています。

 つまり、脳を中心とした神経系は、からだの中や外からの情報をあつめてメモリーし、同時に判断をして意思決定し、それをからだに実行させる役割をしているひじょうに重要なシステムなのです。

 いま、あなたがぼんやりと立っていると、女の子が歩いているのが目に入ってきました。ちょうど、モニターカメラが撮った光景を送信するように、視神経が目にうつった女の子のイメージを脳につたえていきます。脳ではその女の子がだれなのか、知っている子かどうか知っているのならばどの子なのかを記憶をよびおこして照合します。脳に入ってくる情報が声であってもにおいであっても、基本的には変わりません。だれの声なのか、あこがれの彼女の好きなオー・ド・トワレかどうかなども、すぐにわかります。

 そしてあらためて記憶装置にメモリーするとともに、その女の子が自分にとって好きな相手か、きらいなやつかの判断がすぐさまなされ、感情がよびおこされてきます。きれいな女性でも、苦手な先輩、ズケズケとものを言うおねえさんだったりすると、こころはブルーに落ちこみかげん。あこがれている先生や、好感をもっているクラスメートのAちゃんだったりすると、気分は舞い上がりぎみでハッピーになるよね。

 で、つぎにどうする? いやなやつならかかわりたくないから遠ざかり、Aちゃんならば近寄って話しかけたい。それならそのように足などの筋肉に命令をあたえて動かし、歩くなり走るなりして動かなければいけません。この運動しろという命令も脳の細胞から出されています。

 どうです。感情をよびおこしたり考えたりするところはちがうけれど、コンピュータのシステムとよく似ているでしょう。もちろん、金属やプラスチックでできている機械ではないので、脳や神経は呼吸もすれば眠りもします。そしてふえることさえあり、おまけにやわらかい。どのくらいのやわらかさかというと、さすがにみそほどにはグチャグチャしていないけれども、ラップでつつんだかための豆腐か、新鮮で彩におおわれた「たらこ」のような触感です。
(小長谷正明著「脳のはたらきがわかる本」岩波ジュニア新書 p2-5)

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精神活動を「ニューロン」のネットワークが担う

 生命論でのDNAの構造の発見に対応するのは、精神活勤の分野では、脳の構造の解明でした。

 エンゲルスが、脳について語った時代には、まだ脳については、ごく大まかな知識が得られていただけでしたが、脳の主要な部分をなす「大脳皮質」が、さまざまな機能を担う領域に分かれていること、また、この「大脳皮質」をつくっているのが、精神活動を担う特別の細胞──神経細胞であることなどがつきとめられました。神経細胞が「ニューロン」と名づけられたのも、この時期のことです。

 このあたりを起点に、脳の研究もめざましい発展をとげましたが、とくに激しいのは、二十世紀に入って以後の前進です。

 人間の脳には、約百四十億ものニューロン(神経細胞)がある、とされています。身体のほかの部分の細胞とは違って、ニューロンは、独特の形をしています。細胞の本体から一本の軸索と無数の樹状突起が突きだし、それによって細胞と細胞が連結しあい、ニューロンの濃密なネットワーク(網の目)をつくって、脳の全体を膨大な情報が走りまわっているのです。

 人間が外の世界をとらえるというのは、まず、感覚することから始まりますが、この感覚自体がたいへん複雑なもので、多くのニューロンの共同作業が必要になります。目の前にある何かを感覚するといっても、その全体像がいっぺんに脳に反映するわけではありません。

目、鼻、耳、舌、皮膚などさまざまな器官で、その物の色と形、におい、音、味、触感などをそれぞれに確認し、それを脳のしかるべき部分で受けとめる、さらに脳の別の部分でそれらを総合し、一つの対象の全体像にまとめ上げるわけです。

物を認識するというのは、精神の働きのなかでも比較的簡単な部類に属するはずですが、それでも、ものすごく複雑な過程であって、その動きや働きの全体をつきとめるには、気が遠くなるほどの研究と分祈の積み上げが必要になります。感覚からさらに進んで、より高度な思考活動になると、多くのいちだんとむずかしい問題にぶつかることは、いうまでもありません。

 しかし、現在の自然科学は、人間の感覚や思考が、脳細胞のとういう物質的な働きによるものかという難問に、意欲的な挑戦をおこない、すでに多くの成果をあげています。問題によっては、神経細胞の働き方の解明にとどまらず、細胞の働きの一つ一つが、分子レベルでの物質のどんな運動に対応しているかの解明にまで、研究が進みつつあります。

 感覚、意識、思考など人間の精神科学の領域に自然科学がなかなか踏みこめなかった時代は過去のものとなり、「意識や思考」の基礎には高度に組織された物質である脳の機能がある、という唯物論的な見地が、日々、いちだんと深く実証されてゆく時代を迎えているのです。
(不破哲三著「マルクスは生きている」平凡社新書 p22-24)

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◎「見たり、さわったり、聞いたりして、とくに視覚を触覚とくらべ、指で感じる感覚を目ではかることによって、学ぶのだ」と。