学習通信090407
◎教養は月で、知性の光を受けることなしには……

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知育の「不在」の傾向

 さらに、今日の日本の学校の現実として指摘しておかねばならないのは、知育の「不在」とでもいうべき傾向である。

 多くの場合、学校の学習指導は、上級の学校へ進学するために必要な知識の「詰め込み」になっている。このような学習指導の状態をそのままにしておいて、「偏差値よりも人間性を」などという言葉のもとに、行事や教科外の活動の指導に力を注いでいる学校も多い。

 「非行」を克服しようとする熱心なとりくみも、教師と生徒との直接的な人間関係や、生徒同士の関係の改善にとどまりがちで、学習指導の質の改善に及んでいるものは少ない。学習指導を改善しようという努力も、読み・書き・算の反復訓練の機械的な強調や、学習態度の自主性の、形式的な奨励や尊重にとどまっている場合が多い。

 自然と社会と人間について学び、そのことによって、世界と自分を新たに発見し、成長していく──そうした人間形成につながる学習の体験を、今日の子どもたちは、なかなかもちにくい。

 一つの具体的な問題にそくして、述べておこう。

 この一〇年あまりのあいだ、アフリカの飢えの問題は、日本にもさまざまなかたちで伝えられた。この問題に無関心でいられたものはほとんどなく、おとなも子どもも心をゆさぶられ、考え、何らかの行動をした。

 学校で多くみられたのは、児童会や生徒会が中心になって、募金をするというとりくみであった。それには、当然、教師の指導や援助があったはずである。

 ところが、アフリカの飢えの基本的な事実やその原因と考えられることがら、そして、それをなくすための努力などを、子どもが知ることができるような、学習指導の努力は、少数の教師たちを除いては、あまりおこなわれなかった。

 このアフリカの飢えの問題での学校のとりくみに端的に表われているように、今日の日本の学校は、「望ましい」とされる態度や行動を子どもに示すことが非常に多く、しかも、そうした態度や行動を子どもたちに求めるのに急である。だが、子どもたちが、自分のとるべき態度や行動を決めていく前提となる、事実を知り、問題の本質を考える学習を保障するという点では、不十分であることが多い。

 しかし、学校がまずなによりも子どもたちに保障しなければならないのは、子どもたちが事実を知り、それについての自主的な見解をもてるような、学習ではないだろうか。そして、その上で、どう行動するかは、むしろ子どもの自由な選択に委ねるべきではないのだろうか。

 日本の為政者たちは、学校が、「知育」に偏っており、「徳育」を重視する必要があるということを繰り返し言ってきた。そして、今も、新しい状況のなかで、それをくりかえしている。しかし、現実は、そうではない。知育の「不在」こそが、今日の学校の問題である。
(田中孝彦著「人間としての教師」新日本出版社 p52-54)

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 知性というとき、私たちは漠然とではあるが、それが学識ともちがうし日常のやりくりなどの悧巧さといわれているものともちがった、もう少し人生の深いところと関係している或るものとして感じとっていると思う。

教養がその人の知性の輝きと切りはなせないように一応は見えるが、現実には、教養は月で、知性の光を受けることなしにはその存在さえ示すことが出来ないものと思う。

教養ということは範囲のひろい内容をもっているけれども、そういう風な教養は外から与えられない環境のなかで、すぐれたいい素質として或る知性を具えているひとは、その知性にしたがって深く感じつつ生活してゆく間に、おのずから独特な人生に対する態度、教養を獲てゆくという事実は、人間生活の尽きぬ味いの一つであると思う。(「知性の開眼」193908)
(宮本百合子著「愛と知性」 新日本出版社 p19)

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◎「子どもたちが事実を知り、それについての自主的な見解をもてるような、学習」と。