学習通信090323
◎「三重底、四重底」もの従属構造がある日米同盟……

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明日への視点

真に「対等な日米関係」とは
 藤田 健

「伊達判決」50周年

 一つの判決が、三月三十日に五十周年を迎えます。米軍駐留を「憲法上許すべからざるもの」と断罪した一九五九年の砂川事件・東京地裁判決、いわゆる「伊達判決」です。

 米軍立川基地の拡張に反対し、「土地に杭(くい)は打たれても、心に杭は打たれない」というスローガンを生み出した砂川闘争。事件は一九五七年七月、壊れた柵から米軍基地内に四、五b入ったというだけで、ニカ月後に約二十人が逮捕され、安保条約にもとづく刑事特別法で七人が起訴されたものでした。

 判決で伊達秋雄裁判長は、普通なら軽犯罪法の対象なのに、格段に量刑が重い刑事特別法で裁く妥当性があるかを真正面から検討しました。憲法前文や九条の崇高な理想は形式的なものではないとして、米軍駐留によって「わが国が自国と直接関係のない武力紛争の渦中に巻き込まれ、戦争の惨禍がわが国に及ぶ虞(おそれ)は必ずしも絶無ではない」と指摘。その上で、米軍は九条が禁じる「戦力」にあたると違憲判決を下したのです。

 検察は、高裁を飛ばして最高裁に「跳躍上告」し、五九年十二月最高裁が伊達判決を破棄し、地裁に差し戻し。差し戻し審では七人の被告に罰金刑が言い渡されました。

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 この判決があらためて注目を浴びたのは、昨年四月、国際問題研究者の新原昭治さんが米公文書館で当時の米政府解禁文書を発見したことがきっかけ。文書では、当時のマッカーサー米駐日大使の裁判への介入と日本側の従属ぶりが明らかになりました。

 ──判決の翌日、大使が藤山愛一郎外相と秘密会談。米側が「跳躍上告」を提案していた。

 ──上告後、大使は田中耕太郎最高裁長官と密談。「本件には優先権が与えられている」と短期で判決を出す言質を得ていた、などです。

 今月五日には、当時の被告・土屋源太郎さんらが内閣府、外務省、最高裁に砂川裁判に関する閣議議事録、日米協議記録などの情報開示を請求。その後、国会内で集会を開きました。

 新原さんは、このほかにも米兵犯罪で日本側が「第一次裁判権」(優先的に裁判できる権利)を放棄する密約などさまざまな秘密文書を発見し、告発してきました。その密約群は底知れません。

 表(おもて)にみえる安保条約と地位協定だけでも、米軍にはさまざまな特権があります。日本全土どこにでも基地をおくことができ、その基地(自衛隊との共用含め百三十三)を自由勝手に使えます。裁判権はじめ国内法の適用除外など治外法権的な特権もさまざまあります。

 そのうえ、表には出ない日米合同委員会議事録と合意事項があり、さらに密約がある──。新原さんは「日本の対米従属は、二重底どころか三重底、四重底になっている」と指摘します。

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 いま政界では、日米関係の「対等」論が出ています。民主党の小沢一郎代表が「(米軍は)第七艦隊がいれば十分だ。あとは日本が極東での役割を担っていく」などとのべ、「対等な日米関係を」と発言したことがきっかけです。自民党などは小沢発言を米軍撤収論≠ニみなして、「日本の安全を考えていない」などと、攻撃しています。

 しかし、小沢氏の発言は、クリントン米国務長官との会談で「日米同盟をさらに強固にする」と合意したこととセット。日本が軍事上でも役割分担を大きくしていくことで、「対等」な関係をつくろうというのが小沢氏の持論です。

 「三重底、四重底」もの従属構造がある日米同盟をそのままにしながら、「対等な日米関係」が築けるのか──。小沢氏にも自民党にも根本的にその観点が抜け落ちています。従属構造をそのままに軍事的役割分担を大きくしたら、米国の世界戦略の一翼を担う方向での軍拡路線が待っているだけです。

 先の集会で、もう一人の被告の坂田茂さんは「来年は現行安保条約発効から五十年。私たちのたたかいは、安保条約をなくすたたかいにつながる」と発言しました。

 本当の「対等な日米関係」は、数々の密約を含む日米軍事同盟をなくしてこそ築けるのではないか──。集会を取材しながら、そう痛感しました。(政治部長)
(「赤旗」20090323)

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 一方、この時期を特徴づける新しい闘いとして注目をひいたのは、日鋼赤羽その他PD工場(アメリカ軍の管理する工場)やアメリカ軍基地に勤務する駐留軍労働者のストライキ闘争がおこったことであった。さらに、日米安保条約と行政協定にもとづく軍事基地の設置や拡張に反対する農・漁民の闘争が、労働者階級の支援のもとにはげしく展開されたことであった。一九五二年四月の講和・安保条約発効時に日本におかれたアメリカの軍事基地は二八二四ヵ所、面積は約一三万五三〇〇ヘクタールにのぼった。

 一九五三年五月から、七月を頂点として石川県内灘で米軍試射場設置反対闘争が展開された。日本海に面する貧しい半農半漁の村である内灘の海岸が、アメリカ駐留軍の試射場として接収されることは、村民にとっては直接の生活破壊を意味した。「土地は万年、カネは一年」のスローガンで、浜を守るために立ちあがった農漁民を地域の労働者が支援し、また、全国から知識人や学生が応援にかけつけ、村民の演習場へのすわり込みの実力闘争をともに闘った。とくに地もとの北陸鉄道労働組合は、米軍物資の輸送拒否のストライキをおこなった。

 こうして広範な国民の連帯による基地反対闘争が展開されるようになり、浅間山、妙義山、富士山麓、伊豆七島の新島など全国各地にそれはひろがった。一九五五年六月には、全国軍事基地反対連絡会議(基地連)が組織された。

 その年、一九五五年から翌年にかけてたたかわれた東京都下の砂川基地拡張反対闘争は、とりわけ注目をあつめた大闘争になった。首都東京の近郊に、核戦争の航空基地を設けることにたいする強い反発は、地もと農民の父祖伝来の土地を守ろうという根強い要求と結合して、労働者、学生、知識人など広範な人民を起ちあがらせた。武装警官隊が出動してはげしく弾圧したが、「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」というスローガンで団結した強固な抵抗は世論の味方をうけ、ついに二年にわたって空港拡張のための強制測量を阻止した。

 五七年六〜七月の三度目の測量に反対する闘いのなかで、基地内に立ち入って起訴される者があった(砂川事件)。この裁判で、アメリカ軍の駐留を規定した安保条約そのものが憲法違反である、とする東京地方裁判所の伊達裁判官の判決が出された(五九年三月)。この事態を重大視した最高裁判所は、ただちに伊達判決をくつがえした。
(塩田庄兵衛著「日本社会運動史」岩波全書 p234-236)

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◎「「対等な日米関係」は、数々の密約を含む日米軍事同盟をなくしてこそ築けるのではないか」と。