学習通信090319
◎その身勝手な論理は……

■━━━━━

主張
農地法改定
今の担い手が展望持ててこそ

 麻生内閣は農地法改定案を今国会で成立させようとしています。改定案は、農政のあり方の根本にかかわる極めて重大な問題を含んでいます。

株式会社への利用開放
 農地法は、戦前の地主制度が農民を無慈悲に収奪したことへの反省と教訓からつくられました。農地を主な生産手段とする農業の特性を踏まえて、自ら耕す者が農地を所有し利用することが最も適切だという「耕作者主義」を、法律の原則に据えてきました。

 それを保障するため、所有権の移転や賃貸借、他用途への転用ルールを設け、法人の「所有」や「利用」は農業者を主体に一定の条件を満たす農業生産法人に限り、利潤追求を目的とする株式会社の参入を規制してきました。

 今回の改定案は、この農地利用の原則を根本から転換し、「営農意欲がある」株式会社を含むどんな法人にも利用を認めています。

 政府が農地法改定の最大の口実にしているのは、増大する耕作放棄地を減らし、農地の利用を拡大するということです。

 しかし、農地が荒廃し、耕作放棄地が増えた原因は農地制度にあるのではありません。地域では、請け負い耕作や集落組織などで、農地の利用・生産を維持する懸命な努力が行われています。それでも廃業が増えるのは、どうしても収支が引き合わないために営農を断念する農家が増え、後継者が育たないからです。この根本問題を放置したまま耕作を義務付けても耕作放棄は無くなりません。

 財界や一部の研究者は、生産コストに見合う価格保障などは無駄な生産を増やすと攻撃する一方で、耕作放棄や日本農業が国際競争力を持たない原因が現行制度にあるとして、農地法の廃止、営利企業への農地の開放をしつこく求めてきました。それを受けて、自公政府も、貸借による企業参入の条件を緩和してきました。

 営利企業の参入に道を開いても農地利用が進んで生産が拡大する保障はありません。輸入自由化の圧力や価格政策の放棄が進む中で、これまでに参入した企業の多くが赤字経営に陥っています。営利企業が収益性の低い稲作を実際に手がけるのは、経営効率の有利な一部地域に限られ、採算の合わない耕作放棄地には見向きもしないでしょう。何より、大資本が資力にものをいわせ、現にさまざまな生産に励んでいる農家や、農業生産法人に取って代わる危険の方がはるかに大きいでしょう。

 財界・政府が農地利用の規制緩和に続いて、所有の全面開放を狙っていることも明白です。

 それは、専業・兼業、高齢者など多様な担い手が携わる地域農業や集落の共同を壊し、日本の自給率向上や農地の有効利用、農村の活性化に新たな障害をもたらす恐れがあります。

耕作者主義を生かして

 必要なことは、いまがんばっている農業者が展望を持てる農政に転換するとともに、地域に定着し、個人、農業生産法人や共同利用組織として自らが生産に携わる人を中心に、青年や他産業からの新規参入を含めて農業生産の担い手を確保することです。

 法案審議では、耕作者主義の基本を生かしながら、地域農業を維持・発展させる農地政策・制度を探求することを強く求めます。
(「赤旗」20090311)

■━━━━━

農地改革

 天皇制をささえてきた経済的基礎の主要なひとつであった寄生地主制もまた、戦争経済のもとで解体を必然づけられていた。農村の青年労働力の軍隊への動員や軍需工業への流出は農業労働力の極度の不足をもたらし、耕作放棄された土地を増大させた。地主は小作農を確保するために小作料を引下げねばならなかった。

地主制にたいする大きな打撃となったのは、戦時食糧確保のための供米制度と価格統制であった。供出米の政府買上価格について、生産意欲増大のため、生産者価格と地主価格の二重価格制がとられたが、両者の差はしだいにひらき四五年春には生産者価格九二円五〇銭にたいし、地主価格は五五円と開き、戦争経済のための食糧政策は地主の経済的基礎を掘りくずしていった。地主制は独占資本の犠牲にされた。日本の農村構造は変化しはじめていた。

 敗戦は、農民の団結の自由を戦前とはくらべものにならない規模で復活させた。すでに崩壊のきざしをしめしはじめていた地主制に、農民のがわから決定的な一撃が加えられようとしていた。放置すれば、地主制の崩壊とともに、それと強力な相互補完関係にある独占資本そのものの崩壊に進みかねなかった。加えて、戦前のイギリス帝国主義の支配する市場を日本のソシアル・ダンピング(飢餓輸出)によって荒されたにがい経験をもつイギリスは、ダンピング輸出を可能にした日本の低賃金の基礎が寄生地主制にあると考えていた。

イギリス・ブルジョアジーの新聞『マンチェスター・ガーディアン』は、早くも四五年九月、「土地改革が日本改革の第一歩」であることを指摘した。社会主義ソ連は、日本の天皇制軍国主義をささえる強力な支柱の一本が寄生地主制にあると考え、地主制の完全な解体と、土地の直接生産者への引渡しを主張していた。こうした内外の情勢に応じ、GHQが具体的な方針をたてるのに先んじて農地改革を計画した。

 政府の農地改革の方針は、幣原内閣の松村謙三農相が明らかにしたように、「農民運動をおさえて、米麦の供出を確保する」ことが目的であり、食糧危機に発する都市労働者のたちあがりを防止するための供米確保という独占資本の要求に沿うことを目的とし、農民運動のほこ先をそらせるために地主の譲歩を要求するものであった。その内容はきわめて微温的で、地主は耕地五町歩の保有を許され、しかも保有単位を個人としたため、名義変えによって五町歩に家族数を掛けただけの保有が許され、農地売買は地主・小作の直接交渉にゆだねられた。

それでも、所有権を制限し、土地売却価格を統制した点で、戦前の自作農創設政策と異なっていた。さらに、小作料金納化と金納小作料額の統制は、インフレの進行にともなう小作農民の地位の向上の展望をしめしていた。

この改革案にたいし、戦時中の翼賛選挙で成立した議会は、はげしく抵抗し、改革案を審議未了に追いこもうとした。四五年十二月、GHQは農民解放指令を発した。議会は、改革案のなかでもっとも地主に打撃をあたえる小作料金納化について代物納を認めさせることにより、これを骨ぬきにして成立させた。

 農民解放指令は、GHQが日本の農業問題についてしめした最初の公的見解の表明であった。モスクワ三国外相会議、極東委員会設置という情勢のもとで、占領政策が農地解放を主張する英・ソなどの連合国によって一定の制約をうけるであろうとの条件のもとでの表明であった。国内では、共産党が「寄生的土地所有の無償没収とその農民への無償分配」を主張しており、四六年二月の第五回党大会では一部有償を認めるとの修正をおこなった。社会党は四五年十一月の結党大会で「地主所有地の有償買収による全農民の自作農創設」を方針に定めていた。

日本農民組合結成準備会は政府の農地改革案に反対を表明したが、四六年二月の結成大会当時の組合員三万は、四月に二八万、六月に六〇万と増大し、農民の土地解放要求の動きはたちまちに拡大した。こうした情勢下で、四六年三月十一日、GHQ農地改革担当官ラデジンスキーは、政府の微温的な農地改革を非難し、「共産主義者の政治拠点を覆滅するには、土地耕作者の境遇改善が最大の先決条件」であることを明らかにした。都市の食糧危機による労働者の革命化を阻止し、農民の土地革命へのたちあがりを防止するためには、農地改革をより徹底させるほかになかった。

 四月十七日、対日理事会は農地改革をとりあげ、五月二十九日、ソ連は、不在地主のすべての土地、小作地・休耕地・未墾地、自作地主の三町歩(北海道一〇町歩)をこえる分については国家が収用し、小作農民と土地の少ない農民に優先的に分配する、地主には収用地三町歩までは公定価格の全額、六町歩までは半額を補償し、小作人には公定価格の半額で売渡し、地主・小作の直接交渉を認めないという案を提出した。ソ連案は、六町歩をこえる分については無償収用という点で、「民主化」の限度をこえたブルジョア「所有権」への攻撃であるとうけとられた。

そこで、急拠、これに対抗するためにイギリス案が提案された。六月十二日の対日理事会で発表されたイギリス案は、地主の土地保有限度を三町歩(北海道一二町歩)、うち小作地保有限度を一町歩とし、保有限度をこえる土地を適正正価で国が買上げ小作農に売渡し、小作農の買入れ限度は一町歩とし、地主・小作の直接交渉を禁ずるという案であった。イギリス案は、ソ連案をブルジョア的に改作したものであり、ソ連案と第一次農地改革案のせっちゅう案であった。

 対日理事会は六月十七日にイギリス案を採択し、同時に理事会議長アチソンは、ソ連案にたいして、「かがる諸勧告案は民主主義の諸原則と合致しない」という攻撃声明を発した。同日、GHQは第二次農地改革にたいする勧告をおこない、もし「農地改革が上から」おこなわれねば「共産党が代って改革に乗出すであろう」と指摘した。まさしく、政治的空白期における革命的高揚は、いっさいの政治情勢の進展が食糧政策、したがって土地政策にかかっていることを明白にしていた。第一次吉田内閣の組閣の成否が農相の人選にかかり、自由党内の反対を押切って和田博雄が起用されたのも、そのためであった。政府は勧告をうけいれ、七月二十六日、第二次農地改革案を決定し、九月七日、第二次農地改革にかんする二法案を国会に上程した。

 同日、日農は、第二次農地改革にたいして、全小作地の買上げ、土地購入は小作人の自由とし国有地の小作人の耕作権を保証せよ、農地委員会の主力を解放さるべき農民とせよ、自作農創設主義は農民を地主から解放するが、零細農業による生産力・技術革命の発展をさまたげ、農民を資本に隷属させるので、生産協同組合による集団化をはかれ、という批判声明を発した。十月十一日、議会は無修正で二法案を成立させた。マッカーサーは声明を発し、「健全穏健な民主主義を打ちたてるため、これより確実な根拠はありえず、また急激な思想の圧力に抗するため、これより確実な防衛はありえない」と、自賛した。

 農地改革は四七年三月から開始された。その結果、五一年六月現在で地主から買上げた耕地および財産税で物納された耕地は一九七万三〇〇〇町歩にたっした。なお五四万八〇〇〇町歩が小作地として地主に残されたが、これらの小作地は一二〇万の地主のもとに分散しており、地主一戸当りの小作地保有面積は平均五反以下となり、もはや農民を支配するに足るだけの土地所有関係としての意味をほとんど失った。林野は農地改革の対象から除外されたが、それは農民の経営拡大のための開墾による耕地面積増大の可能性を制限したとはいえ、化学肥料中心に移るとともに、堆肥生産のための林野が農業生産に直接の支配的影響をもたらすことはなくなった。

 農地改革は、多くの妥協点を残しながらも、日農声明やマッカーサー声明にしめされたように、農村における支配関係としての寄生地主制を消滅させ、農民を零細自作農民として「解放」したが、同時に、地主の犠牲において独占資本をたすけ、農民を、肥料や農機具の購入、農業生産物の販売、農業金融などをつうじて、独占資本の直接収奪のもとに投じた。

とくに供米制度をつうじての米麦にたいする国家独占は、一方では食糧危機を緩和して労働者階級の民主化闘争のたかまりを抑えるための農民の犠牲の強要となり、他方では供米価格決定をめぐって農民層をひきつけることによって農民闘争にくさびをうちこみ、労働者と農民の提携をうちやぶり、都市と農村の対立という伝統的な神話を再現した。

さらに、農地改革は、多数の旧小作農民を直接に商品流通のなかに投じ、国内市場を拡大し、植民地市場を失った独占資本に新しい市場を提供した。
(藤井松一・大江志乃夫著「戦後日本の歴史」青木書店 p63-67)

■━━━━━

清流 濁流

農業の工業化?

 十年前、パリから日帰りでフランス西部の世界遺産見物に出かけました。
 南ノルマンディ地方は、リンゴの産地で有名ですが、競馬学校があるなど牧場も多くあります。地平線を覆う田園地帯。「なるほど、これがフランスの三圃(さんぽ)式農業か」と納得しながら、交互に現れる畑地・放牧地(休耕地)を眺めたものです。中世からの農業慣行を確固として守っています。輪作が土のためにいいというのは、科学的に証明されています。単一作物の連作は土に過剰な負荷をかけます。

 一方、日本では「米余り」を理由に減反政策が押し付けられています。先日のテレビ報道で、休耕地を他者に貸したところ、工事残土の捨て場にされ、元の農地にするには何百万円も費用がかかると、途方にくれる持ち主の顔が印象的でした。日本の農業政策の貧困は明らかです。

 二月の経済財政諮問会議では、内需対策の一環として農業振興問題が審議されました。農地法を改定、休耕地の貸借を自由化し、株式会社の農業参入を容易にする。大規模農場に若い失職労働者を吸収して、機械化。流通過程も企業化する──。

 財界のもくろみは、生産性が低いことを口実に農業を工業化。「余剰人員」を吸収するとして、製造業での「非正規社員切り」を「合理化」する狙いもありそうです。

 待ったなしの課題である食料自給率の向上をわきにおいて、鉱工業製品の輸出に有利な貿易自由化ばかりに熱心な財界。その身勝手な論理は、真の農業再生とは、かけ離れたものです。(丘民)
(「赤旗」20090319)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「耕作者主義の基本を生かしながら、地域農業を維持・発展させる農地政策・制度を探求することを強く求め」ると。