学習通信090311
◎同志山宣……
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《潮 流》
戦前の労農党の代議士だった山宣こと山本宣治の墓を訪れたのは、ずいぶん前の話です。秋だったでしょうか
▼京都の宇治市。宇治川のほとりから坂を登る。この目で確かめたかった、「山宣ひとり孤塁を守る…」の墓碑銘。戦後まで、ぬりつぶさないと建立を許されなかった墓の前に、しばし立ちつくしました
▼帰り道、平等院に寄った記憶もよみがえります。おごそか。みやび。最近、神居文彰住職が平等院の「平等」とはなにかを説く文章に接しました。「全く異なる人間が、生きていく機会の平等と、最終的に救済される約束の平等であり……」(『古寺巡礼 京都L平等院』)
▼山宣の時代、「生きていく機会の平等」は、現実のものではありませんでした。国家は、思想の違いで人の生死を振り分けました。一九二八年、治安維持法を、「国体」を変革しようと結社をつくった者や指導者を死刑にできる法律に。山宣は、命をかけて治安維持法とたたかったのでした
▼二九年二月、衆院予算委員会。山宣は、共産党への弾圧で逮捕された人たちに対する権力の拷問を生々しく告発し、こうしめくくりました。無産階級は政治的自由を獲得するため、犠牲と血と涙と生命までをつくしているのだ──
▼彼自身、一ヵ月後に犠牲者になろうとは……国会で治安維持法の「改正」に反対しようとして阻まれ、暗殺者の手にかかったのは、八十年前の三月五日でした。墓碑銘は、セメントでぬりつぶされるたびに、遺志をうけつぐ誰かに彫り返されました。
(「赤旗」20090306)
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告別式に列席した私は、用意していた短い告別の辞を朗読するつもりだったが、それは最初の一行分を読んだだけで、臨監の警官から中止を命ぜられた。それについては、『社会問題研究』第九十冊に、私は次のような一文を載せている。
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「山本君と最後に会ったのは、去る二月十五日、全国農民組合京都府連合会第一次大会の開催された日、五条署に検束されている私を、同君が貰い受けに来てくれた時である。私か釈放されて署を出ようとした時、私は出口につき立っている同君の笑顔にぶつかった。
「ありがとう」と言ったきりで、その場は別れたが、それが、私にとっては、肉体的に生きている君と語りうる最後の機会であったのだ。(こうして思い出を書いていると、色々の人の姿が次ぎ次ぎに浮んでくるが、深い交際ではなかったけれども、何一つ悪い思い出の伴わない、山本君はなつかしい。昭和十八年九月二日追記。)三月八日、東京で催された告別式の当日、せめて君の遺影がまだ灰にならぬうちに、その前に立って、わずかに数言を述べんと欲したが、私は口を開いて、告別の辞の最初の行の「断乎たる闘争の」という言葉を発音した刹那に、臨監の警官によって中止を命ぜられた。
かくて私は、君の遺骸に向ってすら、思うことの万分の一を述べる機会を、永久に失ってしまった。かくまでに吾々は発言の自由を有しないのだ。だからこそ、議会内において議員の発言の自由を、被圧迫民衆のため極力利用せんと努力した君は、かかる努力の現われと共に殺されたのだ。私は今、墓前に剣を献じた古人に倣って、読みえなかった告別の辞を、ここに本誌に掲げる。
告別の辞
同志山本宣治のなきがらの前に立って、私は謹んで告別の辞を述べる。
君の流された貴き血しおは、全国の同志に向って更に深刻なる覚悟を促し、断乎たる闘争の決意を百倍にし千倍にした。君は何がゆえに、如何なる階級のために、如何にして殺されたかを、残された同志は、はっきりと意識しているからだ。吾々は君と別れることを深く惜むが、しかし君の死は決して無益でなく、また君の後に続く無数の同志が決してこれを無益にしない筈だ。私は同志の一人として、君が全運動のために献げられた責き犠牲に対し、ここに満腔(まんこう)の敬意と限りなき感謝の意を表せんとするものである。」
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すべては一昔まえの夢となったが、こんな文章を新たに写し取ったりしていると、そぞろに当年のことが鮮かに眼に浮かんでくる。当時告別式のまだ始まらぬ前、私は暫く山本君の柩の置かれている室(それはどこであったか記憶しない、会場でなかったことだけが確かである。)で休息していたところ、その頃仲間から「書記長」「書記長」と呼ばれていた細迫君が、「先生は弔辞を読んで下さい」といって、硯箱と半紙を私の前に出してくれた。私はたった今、柩に横たわっている山本君を見たばかりである。心臓を突き刺されながら、兇漢(きょうかん)に組みつき、一緒になって階下玄関の漆喰(しっくい)のたたきへ倒(さか)さまに落ちた時の傷だというのが、前額部に新しい血の痕を見せているだけで、病むことなくして(た)れた同君の面貌は、殆ど平生の如くであった。
そうした君のなきがらに拝礼をささげてから、私はすぐにこの「告別の辞」を書いた。私がその中で、「君の流された貴き血しおは、全国の同志に向って更に深刻なる覚悟を促し、云々。」と言っているのは、実は、当時私自身の受けた刺戟の端的なる表現に外ならなかったであろう─。人はどんな立派なことをでも書きうる。ただ行動がそれに裏付けられていないかぎり、時を経てからは、床の間に掛けて眺むべき軸物とはなりえない。幸にして私は、こうして、以前に書いたものを、年数を経た後取り出して見ても、そう恥かしい気のするものは、先ずない。有りがたいことである。
山本君もかつて京都帝大の講師をしていた関係から、世間の一部では、同君を私の教え子のように伝えているが、同君は私から直接に思想上の影響を受けた人ではない。柿本人麻呂がそのほとりに佇んで「もののふのやそうぢがはのあじろぎにいさよふなみのゆくへしらずも」と歌ったという宇治川、佐々木高綱、梶原景季(かげすえ)の先陣争いを思い起させる宇治橋、その橋を東から西へ渡り、左手に折れて堤防に沿うてゆくと、花やしきという大きな旗亭があって、どうかすると昼間でも弦歌(げんか)の声が聞こえる。川の水は清く、川を挟(はさ)める山もまた美しい。事情を知らぬ旅人ならば、この一劃を温泉でもある温柔郷(おんじゅうきょう)かと疑うであろうが、山本君はその花やしきを創めた父のもとで、幼時こうした雰囲気の裡に、山紫水明のほとりで育った、一個の生物学者だったのである。
境遇からいっても、専攻の学問からいっても、プロレタリヤの階級闘争の先端に立って兇刃(きょうじん)にたおれなければならないほどの、経歴上の行き掛かりがあるのでもなく、その義務があるのでもないのに、今こうした悲壮の死を遂げている。どうしたって私はそれを雲煙過眼(うんえんかがん)する訳に行かなかったのである。──それは恐らく、私を無産者運動の実践へと駆り立てた一つの有力な刺戟となったものであろう。
(ついでに書いておくが、これまで香川県下の選挙運動の時も一緒に落ち合い、本所公会堂の結党大会でも顔を見せた細川嘉六君は、今度は姿を見せなかった。山本君に対する個人的関係が、私とは違っていたからであろう。)
さて話を元に戻すが、告別式が済んだ後、私は山本君の遣骸のあとについて火葬場まで見送り、焼香をすませて直ぐ帰途についた。細迫君に相談した結果、私はわざと、遺骨と同じ列車で京都に帰ることを避けたのである。これは後日になって聞いた話だが、京都帝大を出た某君は、告別式の当日、共産党の中央委員某君に頼まれ、寄付金を出させるために、一日中私の跡を追っかけていたが、遂にその機会を得なかったということだ。
山本君の遺骨が京都に帰ってから間もなく、三月十五日(いわゆる三・一五事件の一周年記念日)には、「未曾有の厳戒裡に」──と当時のものに書いてある──京都三条の基督教青年会館で労農葬が行われた。なお同じ日に、東京では青山斎場で、大阪では天王寺公会堂で、その他全国各地で、一斉に労農葬が行われた。私はもちろん京都での葬儀に加わり、遺骨の前にささやかな一対の生花を捧げた。その日私は、自宅から五、六名の大学生に「護衛」され、一台の自動車に同乗して会場へ赴いたが、身辺にいた学生は、会場の入口で一人残らず検束された丁度その場へ駆け付けた大阪の労働者が私の顔を知っていたので、私はその人に抱かれるようにして、立ち並んでいる警官の間を潜り、やっと弁士控室へはいることが出来た。この日の私の弔辞もむろん中止された。
四月に入ってからは、「無産団体協議会」主催のもとに、神戸、大阪、京都などで追悼演説会が催され、私はそれにもみな出席した。四月二十一日、京都市公会堂で聞かれた折の私の演説は、次の如きものであった。偶然にその草稿が残っているから、当時の気分を記念するために、そのままここに写し取っておく。(三月三十一日に大阪中ノ島中央公会堂で試みた演説、四月一日に神戸基督教青年会館で試みた演説、この二つは、『社会問題研究』第九十一冊に「同志山本宣治の死の階級的意義」と題して収録されている。この頃はまだ、どんな演説でも、予め鄭寧(ていねい)な草稿を作る習慣をやめていなかったのである。京都で朗読した草稿だけ残っているのは、前記の二つは、当時草稿のまま之を印刷所に廻したからであろう。)
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「同志山宣の追悼のためには、彼の死の階級的意義を明かにせねばならぬ。私はこの趣意に基づいて、すでに大阪および神戸において、各々異なれる内容の演説を試みた。今夕もまた同じ趣旨のことを、更に別途の方面から述べるであろう。
吾が山宣が兇刃にたおれてから、間もなく種々の方面より──例えば代議士河上丈太郎君の口からも、代議士浅原君の口からも、恐らくはまた代議士水谷君の口からも、──「同志山宣」と呼びかける声が聞こえた。だが、これらの人々は、果して吾が山宣を「同志」と呼びうる権利をもつか? 私は信じる、彼を同志と呼ぶことは、彼と同じ陣営に属し彼と生死を共にすることを誓った人々のみの、特権でなければならぬ。吾々にはかかる特権を独占する権利と義務とがある。私はここに同志なる言葉の階級的意義を明かにすることを以て、今夕の追悼(ついとう)に代えようと思う。
吾が山宣の死後、新聞雑誌に現われた評論の中で、吾々が一読して嘔吐(おうと)を禁じ能(あた)わざりしものは、雑誌『中央公論』に現われた吉野作造君の論文である。それは徹頭徹尾、愚劣なる議論、反動的な意見に充ち満ちている。例えば氏は、吾々に向って次の如く勧告していられる。
「後に残った同志の人々としては、どうしてもここで彼を徒死させざるための新たなる仕事を発見し、その遂行によって、傷める彼の霊を慰めるという義務が、感得せられなければならぬと思う。然らば、その新たなる仕事とは何か? 私の判断にして謬(あやま)らずんば、──(吉野氏は引続いてかくいう)──私の判断にして謬らずんば、第一は、これを好機として七生義団とやらに突撃することである。」
氏はかく言いながら、自分自身にも滑稽に感じられたのであろう。急いでそれに註釈を加えていられる。
「突撃という文字に拘泥(こうでい)して、兇器を提げ、大挙して、復讐戦を敢行することだなどと誤解してはいけない。」
それなら、「突撃する」とは、どう突撃するのか? 氏は懇切に説明される。曰く、
「それは思想的に正々堂々の論戦を開始すべきことをいうのである。」
これはいよいよ出でていよいよ滑稽である。かくの如きが、吉野君の吾々に向って提案されているところの、新たなる仕事の第一である。すなわち氏は、吾々に向って、先ず七生義団を相手にして、「思想的に正々堂々の論戦を開始せよ」というのである。私が氏の論文を批評して、愚劣なる議論に充ち満ちていると言ったことの、単なる罵倒でないこと
は、ただこの一例を見ても明かであろう。
吾々の敵は、決して、びょうたる七生義団なのではない。また今日の社会における敵対関係は、社会の経済的構造という物質的な土台の上に生(おい)い立っているので、この物質的な土台を掘り崩さぬ以上、それは決して、単なる論戦により解消され得るものではない。しかるにもかかわらず、氏が吾々に向ってかかる勧告をなしているところに、現代の社会情勢を曖昧ならしめんとするところの、反動的な意義が横たわっているのである。
氏の論文を一読した東京の一同志は、私に向って次の如き手紙を寄せて来た。──「吉野作造氏の論文は、一言一句、嘔吐を催さしめる。彼の反動化は、今や驚くべきものがある。かつてレーニンが最大の憤怒をもって教授ゾムバルトを罵倒した言葉──すなわち、南京虫の大学教授、ドイッ警察的自由主義者といった言葉が、今正に吉野氏にふさわしきものとなっている。」
私は往年の畏友を、今かくの如き姿において、敵の陣営のうちに見出すことにつき、多少の感慨なきを得ない。かかる吉野氏は、更に次の如く言っていられる。
「一派の噪狂(そうきょう)者流は、今次の兇変をもって反動政治の計画的行動なりと烙印(らくいん)して、一般既成政党に呪詛(じゅそ)の叫びを差し向け、更にこれに安んぜずして、一般無産党の沈着なる措置をば、階級精神を裏切るものと罵倒し、以てここでも民主主義排撃の常套手段を忘れざらんとする。山本君の死は、こうした人たちにとって、なるほど宣伝に最も好都合な題目であろう。しかし、お前はあっちへ往っておれ、貴様のついて来る場所ではないと、甲を排し乙を斥(しりぞ)け、狭い高い山のてっぺんに山本君の亡き骸(がら)を祭り上げて、一体どうするつもりなのか? 生前の縁によって肉体は暫く彼らの弄(もてあそ)ぶに一任しよう。死んだ後の彼の魂は、今や彼と共に社会改革に志ある全民衆の裡に息んでいる。貴い彼の犠牲の意義を一部少数の噪狂声裡に没却して、暫時の間でも大衆の面前にその姿を隠さしめるのは惜しい。」
氏は吾々を捉えて、噪狂者流──さわがしい気違いの仲間──だといい、吾々を指して、吾が山宣の肉体を弄ぶものだとしている。だが、吾が山宣の死後において彼を愚弄する者は、果して何人であるか? 私はそのことを明かにしよう。
同志山宣は、彼の死の直前、大阪天王寺公会堂における全国農民大会の席上において、明白に次の意味のことを述べた。
「帝国議会に送り出された議員のうち、無産党議員と称されるものは八人いるが、(註、総選挙当時、労働農民党からは二名の当選者を出したに過ぎないが、なおこの党の外に、無産党を標榜する社会民衆党と日本労農党とがあった。)自分以外の人々は尽(ことごと)く資本家地主階級の従僕となってしまった。労働者および農民の利害を代表する側に立つものとしては、今では自分一人となった。しかし自分は寂しくはない。自分の背後には、何万何十万という大衆がついている。卑怯者去らば去れ、われは赤旗を守る。」
当時彼は、この大会から直ぐ議会に駆けつけ、そしてその晩に殺されてしまった。従って「卑怯者去らば去れ、われは赤旗を守る」という言葉は、──この言葉で彼の演説は臨監の警官から中止を命ぜられた、──この言葉は、彼が関西に残した最後の言葉となったのであるが、そしてまた、大衆の面前において、公然かかる宣言をなしうる程度にまで、彼が無産階級に対する忠誠の決意を固めていたということのうちに、彼の横死(おうし)の原因が横たわっていたのであるが、(註、考えて見ると、彼は、マルクス主義者として帝国議会に一個の議席を占めえた空前絶後の人であった。)今吾々が思い起さねばならぬことは、彼が生きていてかかる言葉を絶叫しつつあった際に、いわゆる無産党議員の他の何人が、彼に向って「同志山宣」と呼び掛けたか? 他の何人が、彼に温き手を差し伸べ、彼と腕を組んで進軍したか? という点である。
言うまでもないことだが、もし他の議員たちが、当時彼に向って温き手を差し伸べ、彼と腕を組んで進んだならば、彼は決して「卑怯者去らば去れ」とは言わなかったであろうしかるに彼が一たび兇刃にたおれて、もはや再び口を開き得なくなるや否や、これらの人々の或るものは、あるいは彼の遺骸の前に跪(ひざまず)き、あるいは彼の遺骨の前に立って、頻(しき)りに「同志山宣」という言葉を繰り返している。私はこれらの言葉の前に、吾が山宣の遺骸が彼の遺骨が、憤怒のために動き出しはしないかと疑うばかりである。
私は固く信じる、彼の遺骸を守り、彼の遺骨を葬り、彼を同志と呼び、彼に向って心からなる感謝を献げ、彼の忠誠を永遠に記念せんとすることは、彼の生前において彼とともに同じ陣営に属していた人々にのみ限られた特権であり義務であるということを。同志とは、階級戦において生死を共にすることを誓った仲間のことである。それが同志なる言葉の近代的意義であり、階級的意義である。
吉野氏は吾々に向って、「お前は彼方に往っておれ、責様のついて来る場所ではないと、甲を排し乙を斥ける」と言って非難しているが、実際のところ吾々は、甲を排し乙を斥けざるを得ない。生前山宣を裏切った者の口から、同志山宣なる言葉の発せられることを、極力妨げざるを得ない。何故なれば、かくすることが、階級戦における陣営の境界を明かにするゆえんであり、労働者農民の真実の味方と、ただ口先だけで味方であるかの如く装っている社会民主主義者とを、大衆の前に明白に区別するゆえんだからである。……」
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善かれ悪かれ、当時の私は、こんな風の演説をしていたのである。
なお『山本宣治全集』の計画に対しては、私は五月一日づけを以て、次の如き一文を寄せた。
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「今日の社会には、一の偉大なる事業が課せられている。この事業の偉大さの前には、「政治、経済、科学、芸術の領域における人類一切の創造も、その影をひそめる。」プロレタリヤ階級がその歴史的任務として担当しているところの、一切の被圧迫民衆を決定的に窮極的に解放し遂げる事業が、即ちそれである。かかる任務、この限りなき偉大なる事業は、吾国の如く農民が人口の多数を占めている国柄では、プロレタリアートのヘゲモニーのもとにおける、労働者と農民との堅実なる同盟の力によってのみ、初めて成し遂げられる。そして、吾々の同志山宣は、かかる同盟の建設のために戦いっつ、計(はか)らずも敵の兇刃にたおれたものである。
同志山宣はもと科学者であった。だが、真実の科学は、大衆の福利を増進することを窮極の目的とする。それゆえにまた真実の科学者は、何が最も大衆の福利を増進するゆえんの道であるかを、考えざるを得ない。同志山宣が、無産階級の解放運動に対して、次第次第に関心の度を高め、遂にその死の直前には、東奔西走、席の温まるに遑(いとま)なきまでの活動をなすに至ったのは、彼の科学的良心が人並勝れて鋭敏であったがために外ならない。吾々はこの事実の前に頭を下げる。
今になって回想すると、彼の最後は、あたかも運動会における競走者が決勝点へ入る間際にヘビーをかけるのと、同じ勢のものであった。彼は実に死力をつくしてベビーをかけた。そして死の直前において、自らを完全に一個の戦闘的マルクス主義者に完成した。
私は先きに、政治、経済、科学、芸術の領域における人類一切の創造も、その前には影をひそめる偉大なる事業が、今吾々の前に横たわっているということを述べたが、同志山宣は、実に彼の一命を、この偉大なる事業のために献げたのである。彼の一生は、それゆえにこそ、彼が如何に偉大なる科学者となったよりも、更に遥に偉大なるものとなったのである。彼の著作集もまた、彼がその最後をかかる偉大なる事業への献身的参加によって完結したるがゆえに、一の尊敬すべき文集となった。
階級闘争がいまだ潜伏状態にありし時代に青年期を経過したるインテリゲンチャが、齢四十を越したる後、階級闘争の急速なる激化に順応して、プロレタリヤ階級の歴史的使命の遂行に殉死することは、極めて困難な仕事である。かかる困難なる仕事を成し遂げることにより、自分の肉体をもって「マルクス主義への道」を表示しえたる彼の文集こそは、日本の革命的インテリゲンチャのもつ一つの衿(ほこり)であらねばならぬ。一九二九年メイデイ。」
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誰にとってもそうであるように、これらの文章には、期せずして当時における筆者自身の心境が漏らされている。──如何に偉大なる学者の業績よりも、プロレタリアートの歴史的使命の遂行への参加こそ、遥に偉大なる、人類への貢献でなければならぬ。私はこう考えて最早や疑わなくなって来ている。僅か一年前、大学をやめた当座には、これからは書斎に閉じ寵もり主力を『資本論』の翻訳に献げようと思っていた私であるのに、恐らく十年も経つたであろうかと思われるほどの心境の変化を、急速にもこの間に成し遂げているのである。かくて「革命の諸経験について書くよりも、これに参加する方が、より有益である。」というレーニンの言葉が、やっと完全に理解されうる段階にまで、私も進み出たというべきであろう。
(河上肇著「自叙伝 @」岩波文庫 p305-318)
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◎「如何に偉大なる学者の業績よりも、プロレタリアートの歴史的使命の遂行への参加こそ、遥に偉大なる、人類への貢献でなければならぬ」と。