学習通信090309
◎問い続けてきたテーマ……

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あとがきのあと

「小林多喜二」 ノーマ・フィールド氏

恋人への真剣さに驚き

 昭和天皇崩御前後の自粛騒ぎの中で表れた日本人の行動様式と心性を探った『天皇の逝く国で』で知られる米シカゴ在住の日本文学・文化研究者。十一年前から『蟹工船』の作家、小林多喜二を研究してきた。彼が育った小樽に一年住み、そこで触れた証言・資料を生かして、作家の人間像に迫ったのが本書だ。

 「祖母の故郷である小樽を初めて訪ねた一九九八年に、小樽文学館で恋人のタキちゃん(田口瀧子)あての手紙を見たのが、多喜二に関心を持つきっかけとなった。(酌婦出身の)彼女に対して、『決して、今後絶対に自分をつまらないものだとか教育がないものだとか、と思って卑下しない事』と書いている。その真剣さに驚きました」

 特高による拷問で二十九歳で亡くなったこともあってか、多喜二には陰鬱なイメージがつきまとう。それだけに「先入観を取り払って等身大の姿を伝えたい」と考えた。学生時代には文学を筆頭に、芝居、映画、音楽、絵画に熱中。銀行マンとなってからはひたむきな恋に生きた。「まさに青春だったと思う」と話す。

 多喜二の作品を丁寧に読んでいくと、それぞれの登場人物を大切にしていることが分かったという。「様々な価値観を大事にして、誰も排除していない。そんな多喜二さんを知れば知るほどひかれていった」。だからこそ昨年からの「蟹工船ブーム」を通じて、多喜二の作品が多くの人に読まれることを願っている。

 日本生まれだが、十八歳で米国に渡った。一冊まるごと日本語で書いた本は初めて。「へたな日本語で文学作品を論じてはいけないというためらいがあった。格闘があった分、とても愛着のある本になった」と笑う。今後は日本のプロレタリア文学の選集を米国で刊行するため、研究者仲間と翻訳に取り組む。多喜二との縁は切れそうにない。(岩波新書・七八〇円)

(Norma Field) シカゴ大教授。1947年東京生まれ、65年に渡米。プリンストン大で博士号取得。著書に『へんな子じゃないもん』。
(「日経」20090308)

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多喜二の課題

 多喜二が生涯をかけて問い続けてきたテーマは何だったのか。
 私にはそれは、多喜二が小樽高等商業学校(現小樽商科大学)の学生の時代に書いた「歴史的革命と芸術」という短い覚書のなかにあるように思われる。

 これは、小樽高商と北海道庁立小樽商業(現小樽商業高校)の学生のうちの短歌愛好者によって作られた、新樹短歌会という会の同人雑誌『新樹』の第三集(一九二三年十一月)に掲載されたものである。

 まず多喜二は、マルクスの唯物史観の根本原理のアウトラインを紹介することから、この覚書を始めている。それは周知のように生産関係が政治、法律、芸術、宗教などいわゆる上部構造の基礎をなすとし、階級闘争によって歴史は発展すると見るものである。

 多喜二はこれを「客観的価値ある絶対的法則である」と言い、芸術をもって歴史的革命を遂行する手段としようとするのはまったく誤りであると言う。「歴史的革命の最後の決定条件は物質的の外何物でもない。芸術は事後的に、又は間接的に或る程度の刺戟剤であり得るかも知れぬ。然し、その外に一歩も出ないのである」。

 こう言いきったのち、しかし多喜二は芸術家には二つのタイプがあるという。

 一つは象牙の塔に閉じこもっているタイプ、もう一つは象牙の塔を出て大地を知り、その上の民衆を知り、「塔の上から霞の空を歌う事の呑気さにあきれて」大地を歌うタイプである。

 このタイプの人は単に歌うだけでなく、「よりよきものへのために歌う。そしてかれの信念こそはその芸術によって民衆のよりよき生活、歴史的進化のための革命を叫ぶ」。

 しかし、多喜二は芸術によって革命を成し遂げようとすることは、先に述べたように史的唯物論の法則に反するというのである。

 こういう多喜二の史的唯物論理解はまだきわめて幼稚なものであるが、しかし多喜二は芸術か、革命かという選択をみずからに突きつけて悩み始める。

 彼によると先の二つのタイプのうち前者に属するのはチェーホフであり、後者に属するのはトルストイであるという。そして多喜二自身は芸術作品としてはチェーホフに共感し、トルストイに対してはその芸術性に不満をもちながらも、その理想主義的な態度には頭が下がらざるを得ないという。

 こうして多喜二は、トルストイとチェーホフとの「一元的な渾然境」はどこかにないかと探し始めるそして、「ある信仰的な信念をもっている以外、今のところ何んとも云えない」と多喜二は言いながら、「この考え方を身をもって、何処までも突きつめて行くことによって活路があるように考えられる」というのである。

 プロレタリア作家のもっている考え方は、マルクスの唯物史観の立場と矛盾すると考えながら、多喜二はそれが「あの厳然たる客観的法則を包含する大きな人間的事実であるかも知れないと信ずるのである」と結論している。

 これが二十歳の青年多喜二がみずからに突きつけた問題であった。そして多喜二はこの問題の解決を生涯求め続けていたように、私には思われる。

 多喜二はなぜこういう問題にこだわり続けたのだろうか。そもそもこの間題はどこから生まれてきたのだろうか。
(浜林正夫著「「蟹工船」の社会史」学習の友社 p7-9)

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歴史的革命と芸術



 人は生きている。そして生きて行かなければならない。生きていることが凡てのものゝ根本である以上、そのための衣食住は何を措いても第一義的な事でなければならない。従って、この事を考えずして宗教も、芸術も、哲学もあり得ないのである。

 ──生活維持のための物質的生産と経済的発展の程度こそは、其の国民の国家制度、法律芸術観念及び宗教上の思想の発展の基礎となるのである。ところが、歴史進化の最後の原因は人類理想の変化であるが、それは社会の旧権力階級と新興のそれとの階級闘争から来るものであり、而もその階級の発生原因として考えられるものは実に当時の社会の経済上の生活状態と、それによって決定される社会的、政治的、教育的関係から生ずるところのものである。又人口もそれが経済上に関係をもつ肉欲的条件である。──こういうようにあらゆる人類現象は食うことを第一義的のものとせずしては、ついに誤りである。これがマルクスの唯物史観の根本原理のアウトラインである。

 そして、これが客観的価値ある絶対的な法則である以上、プロレタリアの芸術家が考えるように、芸術をもって歴史的革命を遂行さす手段であるとするのは如何に誤っているか。それは丁度、「自然に帰れ」式のものがフランス大革命の根源力であるとするような浅薄な錯誤者と同じである。

 五十円の月給取が、その収入の最初の大部分を衣食住に使わない誰があろう。若しそれで余分を得ることが出来ないならば、芸術心を満足さすべくもなく、そのまゝで生活は過ぎなければならない。(と云って芸術の不用であることを云うのでない事は勿論である)。

 衣食住をすら得ることが出来ないというその気持と、芸術品を満足さすべくもないというその心理とは、そこに比較を絶すと云って差支ないものがある。そして本質的な階級心に目覚め、革命的熱情にかられるその動機は前者の場合を措いて他に断じてないのである。「生きてなければならない!」ということを除いて、人は盲目的熱情にかられることはない。何処の馬鹿が芸術のために流血の惨事をする。然しプロの芸術家が階級闘争の上に、その芸術を築きあげたことは、今までの伝統的芸術に看ることの出来ないものである。が、彼等はその根底であるべき経済をついに芸術におきかえる愚をやっている。

 歴史的革命の最後の決定条件は物質的の外何物でもない。芸術は事後的に、又は間接的に或る程度の刺戟剤であり得るかも知れぬ。然し、その外に一歩も出ないのである。芸術は経済的安定が条件づけられて始めて成り立ち得べきもので、経験的に明かなことである。



 一つの法則的な──客観的な存在に順応して人の行為がその進路をとることもあり、又そうでないこともある。それが論理的に、認識的に現実であり、正当であるとされながらも、そう考えている人それ白身の生活態度が全然そのことに背行しなければならないことを考える──そこに、どうすることも出来ない或る事実があるんではなかろうか!

 マルクスは、はっきりと自分達の前に、前述のような関係を示している。そして其のことは客観的価値ある厳正な法則である。而かも人の心理のある動き──その法則とは全ったく反対のことを平然と為ようとすることにあることを知らなければならない。

 芸術家は、その芸術という本来の意味に於て、偶然か極めて唯物史観の原理にかなった態度をとってきたのである。と云うのは、芸術家は象牙の塔にいるべきである、とされていたからである。「芸術」ということ以外のなにも考えないならば(そして、それが真であるか)象牙の塔にいることは最も正しいことでなければならない。

 所が産業革命の洗礼をうけて芸術家は、自己固有の塔からホウリ出されて、大地──塔のよって以って立っている大地に立たなければならなかった! こゝに自分は二人の人を見る──そんな時でも矢張り芸術家であるという信念から、此処は自分達の居るべき所でないと考えて、塔の上に上ろうとする──云わば唯物史観によって塔と大地、芸術と実生活を別に考える、そういう人。然し、こういう人がいる──彼は始めて大地を知って驚異を感じた。

多くの人が其の大地の上でうごめいているのを知った。芸術家も一個の人間である、その他の何物でもない。そして人間である以上、どんなことにでも(それが人間として経験するものならば)それに超然たることが許されない。その結果、彼は芸術家として明かに唯物史観の法則に背行するものであるとは百も承知でありながら、一旦大地を知り、その上の民衆を知り、しかも彼自身も一個の大地の上に住む人間であることを知ってしまった以上、塔の上から霞の空を歌う事の呑気さにあきれて、かれはその大地を歌う──而かも単に歌うことなく、そのよりよきものへのために歌う。そしてかれの信念こそはその芸術によって民衆のよりよき生活、歴史進化のための革命を叫ぶ。

 それは丁度、他の人がだまってコツコツと小説をかいている時、その小説──即ち「芸術とは何んぞや」という認識論的な、本質的なところにまで突っ込まなければ満足できないトルストイと、(世の多くの人が云う所に従えば)その反対であると云われているチェホフが代表する二つの態度であると考えられるのである。

 然し此処にこういうことがある──それは自分がトルストイの回転期後の作品を読む度に、ある不満を感ずる。そして例えばチェホフのあるものを見て、前者によって満されなかったものを得ることによって愉快を感ずる……然し、今のように、鑑賞する側の人としてではなくて、作者自身の気持になって考えることによって、全く前とは反対の気持になるということである。

 ──即ち、あることの単なる描写にあきたらなく思い何等かのための純理想的信念をもって作品を作るトルストイの気持なり、態度なりに(そして其の結果どんなに非芸術的になり、鑑賞する人に不満を与えるとしても)頭が下らざるを得ないのである。そしてチェホフに対してはこの反対のことを感ずるのである。

 そして最後に残されたことは、そういうトルストイから生れたものであるのに、たとい非芸術であるとは云え、どうして不満を感じなければならないか、つまり、この一義的な気持をもっている人の態度か何故に芸術と矛盾しなければならないか──その何処かに一元的な渾然境がないか、ということである。然し自分はこのことについてある信仰的な信念をもっている以外、今のところ何んとも云えないのである。が、ただこの考え方を身をもって、何処までも突きつめて行くことによって活路があるように考えられる。

 ……こうして自分は、プロレタリアの作家のもっている考え方を認めることが出来るのである。が、このマルクスの唯物史観の立場と矛盾したように見えるこの結論も、ほんとうのところ、あの厳然たる客観的法則を包合する大きな人間的事実であるかも知れないと信ずるのである。(完)

 附記……枚数の制限があるために要点の要点しか書けなかった。そのために誤解されそうな所、物足りないところが多くさんある。で、此の場合ただ自分の考え方なり、態度なりのアウトラインのアウトラインを示したに過ぎない。そしてただ色々な意見を持っている人達のお教示を待つのみである。(一九二三・一〇・二〇)
(「小林多喜二全集」第九巻 新日本出版社 p7-11)

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◎「二十歳の青年多喜二がみずからに突きつけた問題」と。