学習通信090227
◎自然を征服するどころか、食い尽くしてしまう勢い……

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 『カムイ伝全集』第一部7巻には、百姓の正助が新田開発に伴う堰の改良策を、一人黙々と考える場面が描かれている。いうまでもなく新田開発は生産性を向にさせることが目的であり、それにはまず農地の規模を拡張する必要がある。さらなる水の供給も必要だ。しかしこれを達成するには、いままで使ってきた一文字堰では限界がある。今後いつ増水や土砂によって破壊されるかわからないからだ。これに耐えうる新たな堰を早急に設計しなければ、村の存在自体が危ぶまれる。

 しかし、何度やっても上手くいかない。ときは刻一刻と迫る。本番での失敗は許されない。そうした重圧と試行錯誤の中、途方に暮れていた正助は自身を鼓舞するかのようにこうつぶやいた。「もんだいはこの砂なんだ」「だいたい川は流れるもの」「それをせき止めるからむりがおこるわけだ」「しかし自然のままでは何もできない。自然を征服するのが人間なんだ……」。いったんは自がの無謀さを自覚しながらも、それでも自然にはかたなければならないと言い聞かせている。結局、彼はこの意気込みでもって新たな方式の「袋堰」を考案し、それを採用した。見事に堰は強化された。

 江戸期の堰は、川の流れの方向と堰の角度によって、「一文字堰」「箕(み)の手堰」「袋堰」があった。 一文字堰は水流と直角に対岸まで一直線に築く堰である。堤の長さは短くてすむが、崩壊・流失のリスクがある。箕の手堰は流水の方向に斜めに長く築き、水の流れる方向に取水口を設ける堰である。これは建設費用がかさむ。それらに対して袋堰は堰の中央部を下流部にたるませ、堰の取水口に滞留する砂をその部分に取りため、取水口の埋没を防ぐ優れた堰だったのである。『カムイ伝』ではその発明を、正助に帰している。

 この場面はいろいろなことを考えさせられる。たとえば正助にとっては、当時の武士や幕藩体制そのものも、それ以前に対峙する「大自然」と同一の存在だったのかも知れない。彼はそれを「いつか自分達が克服すべき対象」として捉えていた。動機はもちろん、現在の生活をより自由で豊かにするためだ。そして、この意志によって一時は得られる「自由」や「豊かさ」も確かにあった。だがやはり、つかみかけた勝利の数々もいつしか、虚しく指をすり抜けていく。冒頭のストーリーには続きがあり、この袋堰もやがて洪水によって何度も崩壊の危機を迎え、とうとう犠牲者を出すことになるのである。

 これまでにも江戸時代の百姓がいかにこれらの「工夫」を得意とし、またさまざまな能力や技術を身につけてきたかを書いてきた。実際に『カムイ伝』は、その過程をじつに丹念に描いてもいる。この袋堰の回でも、やはりそうした工夫の動機が描かれている。それは内発的なものというより、常に何かと対峙し、それを克服しなければならない(または取り入れなければならない)状況で生まれる知恵の集積でもあった。「自然を征服するのが人間なんだ」という正助の言葉には、不思議と傲慢さは感じられない。自然を利用し、いかにその力を最大限に引き出せるか。視点はそこにあり、読者としても成功を祈りたくなる。

 しかし一方ではこうも考えられる。正助の、この向上心と純粋な気持ちこそが、現代まで続く人類の環境破壊の原動力になってきたのではないか、と。

 環境破壊は目的ではなく、あくまでも豊かさや利益を追求することの副産物であった。そしてこの副産物としての「害」に対処するため、人類はさらに別の「工夫」をしなければならないのである。産業革命以降、これは加速した。大量に物を生産し、大量に消費するという時代に入り、それでも人類は増大する環境破壊にはほとんど見向きもしなかった。自然を征服するどころか、食い尽くしてしまう勢いでそれは推し進められていったのである。その結果、いま世界じゅうの資源が枯渇状態にある。その反動が大きな害となり、今後押し寄せてくることは必至だろう。この状態にどのような「工夫」を施すことができるのか。それとも、すでに手の施しようはないのか。

 このとき、『カムイ伝』は何かを我々の時代に残す。それは、「因があれば必ず果がある」ということだ。その先がどうなるかはわからない。だからこそ、先の先まで想像して動かなければならない。『カムイ伝』の第一部が描かれた一九六〇年代は高度経済成ちt長期にあり、日本各地で「公害」が問題とされつつあった。白土三平は、そのような当時の世情を作品に反映させたのかも知れないのである。そう考えると、『カムイ伝』は単に江戸時代を描いた劇画なのではなく、一九六〇年代についての劇画でもあったのだ。

 『カムイ伝』には幾度か洪水も描かれている。洪水には原因がある。もっぱら異常気象と思われがちだが、その害を拡大させるのはじつは人為によるところが大きい。たとえば、森林の過剰伐採もそのひとつだろう。『カムイ伝全集』第一部巻でもこのことを扱っている。「この程度の雨でこんなに増水するはずはねえ」「やはり伐採のせいじゃ、ちきしょう」と、百姓たちは直感的にその原因が森林の過剰伐採にあることを見抜いな藩は伐採で得た木材を商人に売って利を得ようとした。商人たちはもちろん、火災の多い江戸に売れば、限りない儲けが期待できる。目の前に利益がころがっていた。それを保証するのは山の樹木である。まるで今日の石油のように、江戸時代の人々にとって樹木とは、富を得る源泉であったことがわかる。冒頭で挙げた袋堰は、産業の発展のために工夫されたにもかかわらず、この伐採の結果、崩壊の危機に晒されるのである。

 ここで私たちは一つ注意しておかなければならないことがある。事実こうした伐採が歴史の中で繰り広げられてきたにせよ、それでも日本の国土はいまも約六八%が緑に覆われている、ということだ。他国に比べれば、これは驚異的な数字だ。森林の伐採が作用し、再生することのない荒土を抱えた社会は数え切れない。それにもかかわらず現在も日本の国土は、曲がりなりにも多くの森林を保有し続けているのである。これにはもちろん理由がある。その理由を記すためにも、ここからは『カムイ伝』には描かれなかった江戸時代の日本を見ていく必要があるだろう。

日本の森林

 江戸時代には、藩や幕府による、数々の伐採禁止令が出された。このことは『カムイ伝』には書かれていない。伐採禁止令は、「停止木(ちょうじぼく)」のように種類を特定する場合や、「留山(とめやま)」のように山を特定する場合のほか、川の流域の新田開発を禁止し、新たに苗を植えることを奨励した。

 日本の森林が残るのは、まずこのような管理があり、次に育林の歴史がその背景にあったからである。伐っても同時にそれを再生させるための処置を施してきたからこそ、いまもこれだけの緑が残っているのである。もちろんいまある森林は、二〇世紀に入り、戦前戦後を通じ政府の政策によって造林、あるいは再生させられたことが大きい。だが、じつはそれ以前から、すでに日本には育成林業の歴史があった。それについては膨大な資料や著書が残されているが、中でもコンラッド・タットマンの『日本人はどのように森をつくってきたのか』は、これを明瞭かつ簡潔に記している。彼はまず著書の中で「地理的条件と歴史との特異な相互作用を考えれば、日本の国土が荒廃しなかったのが不思議なぐらいだ」と、外国人の目でその驚きを表明した。

 確かに地質学的に見ても、日本列島は山ばかりだ。急な勾配だらけであり、その隆起と平野は、不安定な結節点で交わっているにすぎない。また狭く急激な河川や、しばしば起こる地震は、常に地形崩壊の危機をもはらんでいる。こうしてみる限り、洪水を起こす前提条件が揃いすぎているのが、日本である。とは言っても、まったくの自然状態ならば歳月をかけ、全体のバランスを獲得し、恐らくそうした土壌はかろうじて保たれていたのかも知れない。しかしそれに、今度は人間の手が加わるのである。森林は木材や食物の宝庫であり、これらの産物は江戸時代に限らずとも、それ以前から何世紀にもわたって収奪され続けた。タットマンは古代の日本人と森林の関係過程を、三つの時代局面と照らし合わせながら考察している。すべてを記すことはできないが、以下要約してみよう。

 タットマンは、その第一局面として、農耕以前の採取の時代を挙げている。じつはこれが三万年以上におよび、時代としても一番長く続いたわけだが、そのときはまだ人間は、森林に対し深刻な影響を及ぼす存在ではなかった。それに続く第二の局面は、農耕が起こり、それよって土地の開拓がはじまったころである。このときから、徐々に森林伐採の規模は拡大していった。そして七世紀辺りからは、アジア大陸との交流の中で日本には大規模建築技術が導入されるようになり、これに併せて起こったのが、畿内を中心とした大規模建築の流行であった。ここから一気に、木材が森林から切り出されてゆくこととなる。これを彼は「古代の収奪」と表現している。だが、資源にはやはり限りがある。こうした状況において、今度は森林伐採を制限する動きも出てきた。無い袖は振れないのだから、それも当然の流れだろう。また支配層の衰退や戦国時代の到来が、こうした森林伐採の勢力をやがて収束させていくこととなった。

 こうしてみると、山からの資源の収奪は、じつは古くからあったのだということを改めて実感する。その後日本は「中世の収奪」期へと移行していくわけだが、これは前者とはまた違った特質を備え合わせていた。農耕社会の技術的発展が自治意識を芽生えさせ、今度はこれまでの無制限の収奪から逃れるようにして、「自分たちの山」を囲い込む動きが見られはじめたのである。『カムイ伝』でも、村人は自分たちの「入会の山」に対し、強い所有意識を持っている。この「入会」は、地域によって立山、入山、入籠などその他にも名称はいくつかある。名前はともかく、そうした入会地は権利を待った特定地域の住人が入り込み、そこで肥料となる苅敷(かりしき)や草木灰用の草を採草したり、木材を切り出したりする山や平野の場所でもあった。

 しかしその自立した権利も、支配者を前にしては無力に等しかった。近世になると藩の利益追求や都市部における材木の需要によって、伐採から製材に至るまでの工程がことごとく百姓の「負担」となり、それは百姓に何の利益ももたらさなかったことを、『カムイ伝』は描いている。『カムイ伝全集』第一部10巻では、夫役として森林伐採に動員された日置藩の百姓が、不満の言葉を連らねる。「クソツ、こんなことしてられるだか」「田植えがおくれてみろ、どんなことになる」。これは百姓がもっぱら農業に専念していられるわけでなく、時に支配者の政策に付き合わなければならない存在だったことを物語っている。

彼らは自分たちの行為がその後どんな問題を引き起こすかを、すでに経験として知っていた。「かたっぱしから刈りとりやがって」と、切り出した木材を運ぶ一人はつぶやく。そしてむき出しになった山肌を見ながら、「そのうち山という山ははげ山じゃ」「大雨にでもなってみろ……」と、後に起こる洪水を予知している。「ご先祖様からのわしら村の入り会いの山にまでオノをいれるつうは」「全く横暴じゃ」と、一面では自らの罪悪感を、そしてもう一面では支配者に対する憎しみを、語るのだった。

 『カムイ伝』の時代設定は一六五〇年代前後であり、江戸幕府が成立して間もないころであった。都市開発に伴い、日本全国から大量の木材が中心地へ運ばれ、また新田開発に伴い山地が切り拓かれていった。実際こうした場面があったであろう。ただし、史実には続きがあったことも、私たちは心に留めておく必要がある。

 タットマンの言葉を借りれば、こうした「採取林業」が可能だったのは一七世紀以前の日本の話であり、江戸時代中期には、もはや不可能な状態に陥っていた。森林伐採は、国土においても既に深刻な影響を及ぼしていたのである。そしてここでもまた、「工夫」しなければならない状況が訪れた。森林はどんどん消失する。これによって貯水力を失くした山は、言わば海へ直結する水と土砂の滑り台となった。さらにその後は、より恐ろしい事態が待ち受けている。大量に水が海へ流れると、今度は川の水位も減少し、やがて旱魃(かんばつ)となるのである。水害に続く旱害。これによって凶作のおそれはさらに増大する。人々がもっとも恐れたのは、こうした災害によって生産作物が大幅に減少する飢饉、飢餓の状態に陥ることだ。百姓の正助も、この飢饉のありさまを放浪の旅の中で幾度も目撃している。それは緑を失い荒廃しきった大地であり、腹を空かせ苦しむ人々の姿は、まさに地獄絵そのものだった。

 『カムイ伝』には書かれていないが、江戸幕府もこうした人的災害のおそれには早くから危機感を持っていた。これが現実として差し迫る中、ようやく日本は「採取林業」時代から数々の伐採規制を経て「育成林業」時代へと、方向を転換していくことになったのである。その移行期は、一七世紀後半だった。『カムイ伝』にそこまで描かれていないのは、設定年代のずれや、作者の何らかの意図が作用したからかも知れない。しかし、そうした林業の転換が、同じ江戸時代の中ですでに起こっていたことは、記しておきたかった。
(田中優子著「カムイ伝講義」小学館 p200-208)

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 私たちの生活スタイル

 ところで、人類は、いつ頃から大量生産・大量消費・大量廃棄の経済スタイルになってしまったのだろうか。むろん、蒸気機関によって動力源を機械に置き換えた一八世紀半ばの産業革命がその端緒であり、以来連綿と大量生産の道を歩んできたのは事実である。しかし、動力源に電気が加わった二〇世紀において一気に加速し、現在につながっていると言うべきだろう。「電気の二〇世紀」が重要な背景にあるのだ。

 大量生産の端緒は、一九〇八年に発売を開始したT型フォードで代表される、いわゆる「フォーディズム」だろう。ヘンリー・フォードが、それまで金持ちだけのものであったクルマを良質で安く大量に生産して、大衆の手が届く輸送手段としたのだ。同じ部品を大量に生産し、ベルトーコンベアーを使った流れ作業とし、分業体制で組み立ててコストを下げる方式が「フォーディズム」である。このような生産方式によって、フォーディズムは、大量生産・大量消費を象徴するとともに、効率的な物質文明や労働の非人間化の代名詞ともなった。チャップリンの名作「モダン・タイムス」は、見事にその本質を快り出している。

 さらに、大量生産を煽ったのがGMで、フォードが「できるだけ安い単一モデルを、より多くの人々に」としてT型フォード一車種だけの生産に固執したのに対し、「より多くの人々に、色々なクルマを」というキヤッチフレーズで多車種の生産に乗り出した(米倉誠一郎著『経営革命の構造』岩波新書)。それが、現在のような数年ごとのモデル・チェンジによって買い換えさせる先鞭となったのだ。その行き着く先は、在庫を徹底して減らすトヨタの「カンバン方式」(トヨティズム)であった。多数の車種を大量生産するためには多数の異なった部品が必要だが、経費を節減するために部品の在庫はせず、カンバンに書いて下請けに即時に配達させる方式である。(今や、コンビニの商品調達にこの方式が行き渡っている。)二〇世紀は「クルマの世紀」でもあったが、その生産方式の変遷ぶりが、まさに現在の大量生産・大量消費の構造を反映しているようだ。

 現在の大量生産・大量消費・大量廃棄構造を招いたもう一つの要因は、石油化学工業の発達である。液体である石油は、扱いやすい燃料資源として早くから利用されていたが、掘削枝術の向上によって大量生産が可能になるや、それを原料とする石油化学工業が二〇世紀半ばから拡大していった。これによって、ビニールやプラスチック、農薬や殺菌剤、合成洗剤やPCBなど、さまざまな人工化合物が作られ、私たちは石油を原料とする化学物質に取り囲まれる生活をおくるようになった。化学物質は、天然の物質に比べて、安価かつ大量生産が可能なので大量消費社会を側面から支える重要な要素となったのである。まさに、二〇世紀は「化学の二〇世紀」でもあったのだ。

 化学物質は、人工品であるが故に、大量廃棄の矛盾を露骨に示すことになった。化学物質は自然の力によって簡単には分解できないから、時間とともに大気にも海水にも土壌にも、そして人体にも蓄積する一方になったからだ。強力な殺虫剤であるDDTやBHCに発ガン性があることが明らかになって使用が禁止され、フロンがオゾン層を破壊することが観測されて製造禁止となったけれど、害悪がわかったときには、相当量が出回って地球を汚染してしまった後であった。また、塩化ビニールの焼却によって猛毒のダイオキシンが発生することがわかっても、もはや塩化ビニールを追放できなくなっている。そして今や、極微量の化学物質であっても体内に入ればホルモンと同じような作用を及ぼし、生殖細胞や神経組織に悪影響を与える「環境ホルモン」(正確には「内分泌攬乱物質」)が問題となっても、ただ見守っているしかない。これらの化学物質が未来の世代の寿命を縮める可能性については、誰も分からない。

 このように、動力としての電気、生産方式化学物質、の三点セットが現代の大量生産・大量消費・大量廃棄の構造を規定しており、私たちはそれによって安逸な生活を貪っていると言える。とはいえ、私が幼かった一九五〇年代までは、少なくとも日本はまだそのような構造にはなっていなかった。戦前の富国強兵政策のために庶民は貧しいままに放置され、戦争に負けて資源不足が長く続いたからだ。そのため、紙や鉄や銅やゴムは貴重品であった。私たちはリサイクルを心がけ、どんな製品も寿命いっぱいまで長持ちさせ、資源を大事にしてトコトン使い尽くすことが当たり前とされていた。私は、未だに裏が白い紙や封筒やクリップや輪ゴムや包装紙が捨てられず、それらは溜まりに溜まって狭い部屋を占領している状態である。

 おそらく、一九六〇年代からの高度成長政策が大きな転換点となったのだろう。石炭から石油ヘエネルギー源が変わるとともに、産業構造改革が行われ技術革新が叫ばれた。やがて、電気は使い放題になり、プラスチックのような石油製品が溢れ、紙は山のように使えるようになった。知らず知らずの間に、「使い捨て」が普通になり、まだ使えるのに廃棄して「買い換え」することが第二の天性になってしまったのだ。それだけでなく、腕時計やカセットやCDプレーヤーを何個も持ち、掛け時計やクーラーやテレビが各部屋にあり、クルマやパソコンや電話を各個人用に取り揃え、次々と洋服や靴や家具を買い込み、それでもまだ何か不満足と感じるようになってしまった。このような生活スタイルが、エネルギーや資源の膨大な浪費につながっており、地球環境問題の大きな原因となっているのである。

 ある製品の「寿命」を考えてみよう。例えば、クルマの寿命である。これには三つの定義があるそうだ。一つは、物理的にクルマが壊れてしまうまでの寿命である。これを「物理寿命」と呼ぶことにしよう。アメリカでは車検がないせいか、壊れるまでトコトン使い尽くそうとするかのように、ポンコツ車が町を走り回っている。

もう一つは、クルマのデザインや型式が古くなったために人気がなくなり廃棄されてしまう寿命で、これを「人気寿命」と呼ぼう。この人気寿命は、クルマの物理的寿命とは関係なく、流行や好みや商売戦略という人為的条件で決まっているので、非常に短い場合が多い。

最後は、クルマは物理的に壊れてはいないのでまだ動かせるが、その維持や修理に費用がかかるようになったために買い換えされる寿命で、「経済寿命」と呼ぼう。新車に買い換えようとしても金額が張ってとても手が出せない場合は壊れるまで使おうとするから、経済寿命は物理寿命に限りなく近づき、比較的たやすく新車が購入できる場合は、モデルチェンジごとに買い換えするので経済寿命は人気寿命と同じになる。クルマ会社はこれを狙っているのだ。

 現在はクルマ社会であり、人々は、あたかも自家用のクルマを乗り回すのが当たり前であるかのような錯覚を持ち、排ガスを垂れ流しながら走り回り、事故を起こしても微罪で放免されている(少なくとも、日本では)。むろん、戸口から戸口まで輸送ができるというクルマの良さは捨てがたく、病人の緊急輸送や、公共交通機関が廃止されてしまった過疎の村ではクルマは不可欠であるが、フロやスーパーに行くのまで個人がクルマを乗り回すのはいかがなものか、と思う。もっと公共のバス・電車・タクシーを優先して、自家用のクルマは乗り難くすべきだろう。

 何しろ、膨大な資源(石油・鉄・ガラス・蓄電池・プラスチック)を使い、道路整備や信号や駐車場や交通警察や救急車や救急病院やクルマの解体や車検や大気汚染やらと、クルマにかかっている社会的費用は一台七〇〇〇万円にもなるという試算がある。ところが、新車なら一〇〇万円ちょっと、新車同然の中古なら五〇万円でクルマが手に入る。この社会的費用と値段のギャップは余りに大きい。結局のところ、税金でその補填を行っているのだが、クルマに乗っている人もクルマを作っている人も、その意識がない。むしろ、クルマは日本経済の救世主であると信じて疑わない。クルマがドルを稼いだのは事実だろうが、安く売れるよう莫大な補助をしていることを忘れてはいけないと思う。今や、クルマ社会のためにそのような政策を採るのが当たり前だ、という常識が世界中に蔓延しているけれど。私はクルマ社会に大いなる疑問を持っているのでこのように言うのだが、やはりじっくり考え直してみる必要があると思っている。

 さて、現在の日本におけるクルマの寿命は、ほとんど人気寿命で決まっていて一〇年以下である。(日本のクルマ保有台数を六〇〇〇万台、クルマ会社全体の一年の国内総生産台数が六〇〇万台程度であるからだ。)大事に使えばクルマの物理寿命は二〇年以上である。明らかに、クルマの「使い捨て」と「買い換え」が当たり前になっているのだ。

 右の三つの寿命の定義は、クルマだけに留まらない。時計でも、着物でも、家具でも、家でも、電気製品でも、ある期間使い続ける製品すべてに適用できる。そして、壊れて使えなくなる物理寿命ではなく、見栄えや流行で決まる人気寿命で製品の寿命が決まってしまうようになったのだ。人気寿命で「使い捨て」し「買い換え」るのが、当たり前になってしまった。大量生産・大量消費・大量廃棄の構造は、人気寿命を経済原理としたことに原因があると言えるかもしれない。また、このようなスタイルに慣れきった私たちの生活を、厳しく見直さねばならないと思うのだ。

 むろん、その背景に、さまざまな資源が安く売買されていることがある。その結果として、新しい製品を簡単に「買い換え」できる値段となっているからだ。資源の価値(値段)は、おそらく三〇年くらいの時間スケールで利用できる(供給できる)資源量と需要量との関係で決まっているのだろうが、それ以上は経済学の素人である私には理解しがたい。熱帯林がどんどん減っていると言いながら、なお木材チップは安いから、私たちは紙を使い放題である。もし、木材の値段が急騰して紙が高価になれば、私たちは、紙をもっと大事に使い、リサイクルにも励むだろう。私には、現在の資本主義が近視眼的な儲け主義に奔走しているために資源が異様に∴タいとしか思えない。一〇〇年スケールの人間の生き様を考えるなら、資源の値段はもっと異なったものになるのではないだろうか。
(池内了著「私のエネルギー論」文春新書 p34-41)

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国民の世論と行動で、持続可能な経済・社会をめざして踏み出す

 いま、国民のなかで地球温暖化問題への関心が高まり、自分たちの生活を見直し、環境にやさしいライフスタイルに転換することによって、現在の地球と将来の子どもたちに対する責任をはたそうという声と取り組みが広がっています。各種の世論調査でも温暖化の被害を心配する世論は9割をこえ、照明やシャワーなどの節約、冷暖房の控えめな使用、レジ袋を減らすマイバッグの持参など、8〜9割の人が何らかの形で努力しています。

<「大量生産・大量消費・大量廃棄」を大もとからただす>

 こうした国民一人ひとりの努力を真に実らせるためには、大企業の利潤第一主義のもとで、国民生活に「大量生産・大量消費・大量廃棄」の風潮が意図的に持ちこまれてきたことを正面からとらえ、この風潮を大もとからただす仕事に本格的に取り組む必要があります。部品がなくて修理ができず次つぎに捨てられる家電製品、約2台で通常の家庭1世帯分のエネルギーを消費する自動販売機や、家庭の11倍の二酸化炭素を出すといわれるコンビニエンスストアの24時間営業、深夜の過剰なライトアップ、深夜労働や生産施設の24時間稼動という「労働のあり方」など、この問題はさまざまな面にあらわれています。

 生産から流通、消費、廃棄までのすべての段階について、温室効果ガスを削減して地球温暖化をくいとめ、将来にわたって「持続可能な経済・社会」「人にやさしく環境を大事にする社会」を社会全体の努力でつくりあげるという視点から大胆に見直すことが求められます。国の将来に関わる総合的な戦略・政策のなかに地球温暖化対策をしっかり位置づけ、政府の取り組みを義務づける法律(気候保護法=仮称)を制定することも当然検討すべきです。

<「人にやさしく環境を大事にする社会」をつくる視点で経済と社会を見直す>

 日本や世界の各地で地球温暖化問題に取り組む先進的な経験も生まれ、その先頭にはNGO(非政府組織)が立っています。こうした経験からさまざまな教訓を学び、それを広げ生かすネットワーク=共同の輪を広げることもますます大事になっています。温暖化抑止のために何ができるのか、地域・職場・学園など草の根のレベルで話し合い、知恵と力をあつめて行動をおこすことも大きな意義をもちます。

 地球温暖化対策は、経済や社会、政治のすべてにおよぶ総合的な課題、将来の社会のあり方にもかかわる根本問題であり、それを確実に実行するには広範な社会的合意が不可欠です。EUでは、温暖化対策を経済・社会の「持続可能な発展戦略」のトップ課題に位置づけたうえ、実際の経済・社会政策も、「温暖化対策を通じた成長と雇用の促進パッケージ」というように、常に温暖化対策と関連づけてうちだしています。こうした取り組みの土台に、「利潤第一の考え方では温暖化は止められない。社会システムの根本的改革が必要だ」(ドイツ連邦議会・環境委員会副委員長の日本共産党欧州調査団への説明)という立場から取り組む考え方があることも、わが国の対策を考える上で学ぶべき大事な点です。

 地球温暖化対策を、将来の日本社会のあり方を探求する総合的な戦略・政策の重要な一環に位置づけ、エネルギー・地域振興・雇用・福祉・交通・農業・税制・日本と世界の安定など各分野の政策をそれと有機的に結びつけて確立し、国民の合意を得ながら着実にすすめてゆくべきです。

 日本共産党は、地球温暖化の進行を憂える内外のすべての人びとと力をあわせて、地球温暖化をくいとめ、将来にわたって「持続可能な経済・社会」「人にやさしく環境を大事にする社会」を実現するという人類的課題の推進に全力で取り組みます。
(「地球温暖化の抑止に、日本はどのようにして国際的責任をはたすべきか」2008年6月25日 日本共産党)

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◎「大企業の利潤第一主義のもとで、国民生活に「大量生産・大量消費・大量廃棄」の風潮が意図的に持ちこまれてきたことを正面からとらえ、この風潮を大もとからただす仕事に本格的に取り組む必要があ」ると。