学習通信090224
◎進化の過程で獲得してきたさまざまな機能……
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科学トピックス
魚類から哺乳類への進化を再現
「しんぶん赤旗」科学部長
前田 利夫
2009年は、ダーウィンが生まれてから200年、「種の起源」出版から150年という記念の年です。「生物の進化」は、科学の進歩とともに生物学の基本概念として定着し、さまざまな分野で研究が深められてきました。現在も、多くの科学者が生物進化の研究にとりくんでいます。
生物の進化をさぐる重要な研究分野に、化石を対象とする古生物学の分野があります。近年、羽毛をもつ恐竜の化石が次々発見され、鳥類は恐竜から進化したことが立証されてきています。
DNAの比較で系統たどる
また、生物進化の系統を調べる有力な手段となっているのが、DNA(デオキシリボ核酸)の比較です。遺伝情報を担っているDNAは、生物の細胞のなかに含まれ、親から子へと伝えられていきます。現在生きているさまざまな生物のDNAを比較することによって、それぞれの先祖の系統をたどることが可能になっています。
化石の研究とDNAの研究とを組み合わせて、魚から哺乳類への進化過程を描いた「ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト」(二−ル・シュービン著、早川書房)を興味深く読みました。著者は、もとは古生物学者ですが、進化発生学の研究にも携わっています。進化発生学は、生物がそれぞれの体を形成する過程での遺伝子の働きを調べて、進化の様子を明らかにしようとする学問分野です。
魚と両生類の中間段階
著者を含む研究グループは2004年に、「魚類と陸生動物のあいだをつなぐすばらしい中間種」の化石を発見しました。3億7500万年前の地層から見つかったこの生物はティクターリクと名づけられ、06年に科学誌「ネイチャー」に発表されました。
ティクターリクは、鰭(ひれ)を持っています。鰭の内部の骨の構造が、魚から両生類へと進化するちょうど中間段階にありました。著者らは、ティクターリクの化石をさらに詳細に調べ、首がよく動く構造になっていたこともつきとめました(「ネイチャー」08年10月16日号に発表)。これも、魚から両生類へと進化する途中段階にあることを示しています。
生活の場を水中から陸上へ移すためには、骨格だけではなく、呼吸のしかた、視覚、聴覚、嗅覚も変える必要がありました。
同書の説明で、わかりやすいのが聴覚の例です。哺乳類の中耳には3つの耳骨(槌(つち)骨、砧(きぬた)骨、鐙(あぶみ)骨)があります。しかし、爬虫類や両生類には1つしかなく、魚類には1つもありません。哺乳類のもつ3つの耳骨のうち2つ(槌骨と砧骨)は、爬虫類のあごの小骨に対応しています。「もともと爬虫類が噛むために使っていた骨が、哺乳類においては、聴覚に役立つように進化した」と説明しています。
哺乳類と爬虫類がもつもうひとつの耳骨(鐙骨)は、魚の上あごにある大きな棒状の骨(舌顎軟骨)から進化したものだといいます。「この移行は、魚類の子孫が陸上で歩き始めたときに起こった。水中で音を聴くのと陸上で音を聴くのは異なり、鐙骨の小ささと位置は、空気中の振動を捉えるのに理想的なものとなった」といいます。
においを識別する受容体
哺乳類の嗅覚は、空気中のにおい物質が鼻の奥にある粘膜に捉えられ、粘膜の内部の神経細胞の受容体と結びつくことで得られます。個々の受容体は異なる種類の分子と反応します。さまざまなにおいを識別するには多くの種類の受容体が必要です。魚類は水中用の受容体をもっています。受容体の種類は、魚類から哺乳類へと飛躍的に増大しています。これを実現したのは、受容体をつくる遺伝子の増大です。遺伝子の増大は、原始的な魚類がもっていた遺伝子を何回も重複させることによって実現したといいます。
私たちが進化の過程で獲得してきたさまざまな機能は、ときとして不都合な働きや病気の原因になります。同書では、その1例としてしゃっくり≠あげています。しゃっくりの起源は、肺とえらの両方をもつオタマジャクシにあるというのです。オタマジャクシがえらを使って呼吸するとき、肺に水が入るのを防ぐために気管にふたをするための信号発生装置が脳にあるといいます。それが私たちの脳にも残されていて、その部分が刺激されることでしゃっくりが起こると説明しています。
現代の科学は、私たちがヒトという生物へと進化する過程で身につけてきたさまざまな機能が、魚や、もっと原始的な生物がもっていたものを巧みに利用することでできあがってきたことを明らかにしています。
(「月刊 学習」2009年1月号 日本共産党中央委員会 p100-101)
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進化の考えほど、広い範囲にわたって議論を巻き起こした考えはない。発表以来、今日に至るまで、議論は尽きないのである。
一つは、科学上の議論だ。ダーウィンは、生物が時間とともに変化し得ることを示し、そのメカニズムとして、自然淘汰と性淘汰の二つの理論を提出した。彼がこの理論を考案したとき、進化という現象のかなめにある遺伝については、ほとんど何もわかっていなかった。そこで彼は、ここはブラックボックスにおいておき、その外堀からの証拠をこれでもか、これでもかと集めた。あとは、周到な演鐸的論理展開によって、議論を組み立てたのである。
彼の演鐸論理は、およそ完璧である。問題は、その前提となる諸事実だ。ダーウィン以来、遺伝の仕組みについての理解は飛躍的に進んだ。いまや、ヒトゲノムもすべて解読されたほどである。つまり、ダーウィンがブラックボックスのなかにおいておいた中身が、次々と明らかになったのだ。そこで、それに伴って理論の改訂が行われていった。今では、淘汰ばかりでなく、木村資生が提唱した中立進化も重要な働きをしていることがわかった。もはや「ダーウィンの進化論」の時代は終わった。進化生物学は、生物学の中の大きな柱となる分野として、発展し続けている。
もう一つの議論は、宗教との対立である。進化理論は、「生物は神が創造の日にすべてを作り、その日以来変化していない」という創造論に対立する。そして、「命」「人間」「人間の精神」といったものに特別な地位を与えることなく、ヒト以外の動物からヒトヘの連続性、そして、無生物から生物への連続性を明らかにする。このことに対する抵抗は非常に強く、ことさらに宗教的ではない人々からも、疑問や反論が寄せられる。
ダーウィンが1859年に『種の起原』を著したときには、彼は敢えて人間の進化については触れなかった。それは、彼が、宗教との対立を十分に認識していたからであり、当時のイギリス社会におけるキリスト教の権力の強さをよく理解していたからである。しかし、二〇年もたたないうちに、「進化論」は、イギリスのみならずヨーロッパ各国でも受け入れられるようになり、意を強くしたダーウィンは、『人間の進化と性淘汰』という著書も公にした。1871年のことである。ここでは、人間が類人猿のような動物から進化したことが述べられているばかりでなく、人間の心の働きも進化の産物であることが、多くの証拠とともに述べられている。
現在では、彼の考えた路線を延長して、確かに、人間の脳と心も進化で分析されるようになった。しかし、それに対する抵抗は依然としてとても強い。まずは、1996年にローマ法王は進化を事実として認めたものの、人間の精神の領域だけは、進化の産物ではなくて直接に神様から付与されたものだ、と但し書きをつけた。人間の心と行動を進化的に分析しようとしたハーバード大学の生態学者、E・O・ウィルソンによる著作『社会生物学』は、それを不快とする人々からの総攻撃を受け、以後、社会生物学論争と呼ばれるものが一〇年以上にわたって続いた。
進化の考えには、何か、人間にとって気持ちのよくないところがあるのだろう。それは、究極的な「唯物論」のせいなのだと私は思う。生命にも人間の精神にも、なにも特別なものはない、それらはすべて、物質の世界と連続しているという考えが、どうしても心地よくないのだ。しかし、心地よかろうとよくなかろうと、進化学は進んでいく。それは、認知哲学者のダニエル・デネットが『ダーウィンの危険な思想』で述べたように、生物に関するすべての現象の分祈に入り込んでいく、何でも溶かす酸のようなものなのだ。そこには、聖域は一つもない。
こんな考えを最初に考えつき、それを発表したチャールズ・ダーウィンとは、どんな人間だったのだろう? 本書で、ダーウィンゆかりの地を訪ねて歩いているとき、つねに身近に思い描きたかったのは、ダーウィンその人である。そのために、ダーウィン関連の書物もずいぶん読んだ。ダーウィンを巡る周辺の人々の伝記も読んだ。そうして、ダーウィンが少しは身近に感じられるようになったが、まだまだよく理解するには至らない。人間は奥が深いものだから。
ダーウィンは、とても几帳面で細かい人だった。実験や観察を一つ一つ丹念に積み重ね、今のせっかちな世の中では想像もできないくらい、粘り強く事実を集めた。そういう性格は、研究以外にも表れている。彼は、ただでさえ莫大なダーウィン家の財産をさらに株などで増やし、その配当を毎年自分できちんと計算して、それを子どもたちに分配していた。そういうことに細かく気づき、自分でやる人だった。
彼は、たいへんに愛情濃(こま)やかな人だった。妻や子どもたちに対しても、友人に対しても、そして、ドイツからやってきた、片言の英語しか話せないエルンスト・ヘッケルに対しても、おだやかで優しく、深い愛情をもって接した。エジンバラ時代に剥製技術を教えてもらった黒人や、ビーグル号の航海の途中で知り合った南米の黒人たちに対しても、礼儀と友情を備えた接し方をしたが、それは、「進歩的な思想のジェントルマン」家庭に育つたという以上の、彼個人の優しさを示しているように思うのである。
また、彼はたいへんなはにかみ屋で、対立を嫌った。そこで、進化理論の提出以後に社会で起こった論争には、つかず離れず、とくに表だって論陣を張ることもなかった。節度ある学術的な手紙は書いたが、論争では、「ダーウィンのブルドッグ」というあだ名をとったトーマス・ヘンリー・ハックスレーが矢面に立ったようには、ダーウィン自身が前面に出ることはなかった。これには、ダーウィンの家族の影響も大きいようである。論争の一つ一つに対し、家族のメンバー間で手紙が飛び交い、どのように反論するべきか、それとも無視するのがよいかと、全員が一丸となって対処の仕方を思案している。そういう雰囲気の中で、ダーウィン自身が考えを変えることもしばしばあったようだ。全体として、彼は、当時の品の良いジェントルマンのお手本のように振る舞った。しかし、彼がたいへん果敢で、科学の成果に誠実であったことは事実である。
ダーウィンはどんな人だったのか? 考察の最後は、否応なく信心の問題に入っていく。彼は、信仰を捨てたのか、それとも捨てなかったのか?
あれほど愛していた娘のアニーが、あれほど惨めに苦しみながら死んだことは、彼に最大級の影響を及ぼしただろう。そこに、自らの進化の理論が影響を及ぼさなかったはずはない。しかし、人が心の底で何を考えていたかは、それは永久にわからない。その人が書き残したこと、書き残さなかったこと、何をひっくり返してみても、やはりわからないことはある。
タイムマシンがあれば、彼を現代の世界によんで、現代の遺伝学その他の最新の知識を与えたうえで、現代進化学の議論に参加して欲しいと思う。聡明なダーウィンのことだ。すぐに最新知識を吸収して、いろいろと有意義な考えを聞かせてくれるだろう。では、信仰の問題について聞いたらどうだろうか? 二一世紀の今、イギリス社会で毎週日曜日に教会に行く人など一〇パーセントにも満かないことを知ったら、彼は、信仰の問題について正直に答えてくれるだろうか? それは、やはりわからない。
(長谷川眞理子著「ダーウィンの史跡を訪ねて」集英社新書 p200-203)
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進化論否定の理論
学校での教育禁止
米連邦地裁判決 「科学でない」
【ワシントン=山崎伸治】ダーウィンの進化論を否定し、生物の多様性は「知的な存在による設計」の結果だと主張する「インテリジェント・デザイン」(ID)を学校教育で教えることが問われた裁判で、ペンシルベニア州の連邦地裁は二十日、IDを科学ではないとし、学校で教えることを禁ずる判決を行いました。
これは同州ドーバーの教育委員会が二〇〇四年十月、全米で初めてIDを学校で教えるよう決定したことに対し、反対する親十一人が教育委員会を訴えていたものです。
IDをめぐっては、旧約聖書の「創世記」の焼き直しに過ぎないとする反対派と進化論と同様に「科学」だと主張する推進派の議論が衝突。ブッシュ米大統領は「いずれも(学校で)教えるべきだ」とIDを容認する姿勢を示していました。
この日の判決で連邦地裁はIDについて、「超自然的な原因を容認することで数世紀来の科学の基本原則を踏みにじっている」とし、「科学ではない」と断定しました。
学校教育への導入について「教育委員会の真の目的は公立学校で宗教を広めることにあった」として、「政教分離」の憲法の原則に反すると指摘。ドーバーでのIDの教育をやめるよう教育委員会に命じました。
この判決について、裁判を支援してきた米市民的自由連盟は「教育を利用して特定の宗教の信仰を広めるのは憲法違反だと考える人々の勝利だ」とコメント。ID推進派の「ディスカバリー研究所」は判決を非難する声明を発表しています。
なお被告のドーバー教育委員会は、十一月の改選でID推進派委員が全員落選したため、この日の判決には控訴せず、判決が確定します。
(「赤旗」20051222)
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◎「進化の考えには、何か、人間にとって気持ちのよくないところがあるのだろう。それは、究極的な「唯物論」のせいなのだと私は思う。生命にも人間の精神にも、なにも特別なものはない、それらはすべて、物質の世界と連続しているという考えが、どうしても心地よくないのだ」と。