学習通信090204
◎青年部長として、オルグ(なかまづくり)を、してきてくれんか
■━━━━━
第1章 「伝える力」を培う
1 「日銀」とは何か、説明できますか?
いきなりですが、質問です。
あなたは、日銀が何をしているところかご存じですか?
中学校や高校で一所懸命勉強をして、それ相応の知識を持っている人は得意満面にこう答えるかもしれません。
「日本銀行とは日本の中央銀行で、銀行券の発行ができ、市中銀行及び政府に対する貸し出しや国庫金の収支業務を行なう銀行です。また、金利の操作や公債の受け渡し・回収を通して通貨の増減を図っています。いわば発券銀行であり、銀行の銀行であり、政府の銀行でもあります」と。
なかなか立派な解答だと思います。
経済学の教科書にもこのように書いてありますから、模範解答として、満点をもらえそうです。
では、日銀とはどんなところか、小学生に説明してみてください。
「日銀は発券銀行でね……」と言ったとたん、彼らは、
「ハッケンギンコウって何ですか?」
と聞いてくるでしょう。「何をハッケンするの?」と聞かれて、小学生が「ハッケン」を「発見」だと誤解していることに気づくかも知れません。
もう少し噛み砕いて「お札を発行する銀行なんだよ」と説明しても、
「エーッ? お札を発行するって、私たちにお金をくれるの?」
なんて聞かれてしまいます。
相手は手強い。
なぜ手強いかというと、素朴な疑問を持って、それをそのまま口に出すからです。
「日銀は市中にお金を供給しているんだよ」とでも言おうものなら、
「シチュウって何?」
「キョウキュウするってどういうこと?」
と聞かれるでしょう。
実はそうした素朴な疑問こそ、往々にして本質を衝いているものです。
子どもたちから矢継ぎ早にそうした質問を受けていると、
「あぁ、自分は日銀について、本当にわかっているんだろうか。いや、何もわかっていないんじゃないか」
ということに気づかされます。
これは、私自身が「週刊こどもニュース」というテレビ番組で経験したことでもあります。
「伝える」ために大事なこと。
それはまず自分自身がしっかり理解することです。自分がわかっていないと、相手に伝わるはずがないからです。
こんなこともありました。
あるとき、知り合いのアナウンサーが放送でニュース原稿を読んでいるのを何気なく聞いていると、ある一ヵ所で突然、その内容が頭に入らなくなったのです。
放送が終わった後で、その人に聞いてみました。
「今の放送で、意味がわからないまま読んだところ、なかった?」と。
思った通りでした。
原稿を読んでいるとき、突然フッと集中力が途切れ、その部分の原稿の意味がとれなくなったそうです。
意味がわからないまま読んだり話したりすると、それを聞いている相手も意味がわからない。そのことを、私はこのとき初めて知りました。
2 深く理解していないと、わかりやすく説明できない
そういう私も、日々、学ぶことの多い身です。
私がとりわけ「自分の『伝える力』はまだまだだな」と思い知らされたのは、NHK時代に「週刊こどもニュース」を担当していたときです。
「週刊こどもニュース」に関することは、これからも折に触れて書きますので、ここで少し説明しておきましょう。
「週刊こどもニュース」とは、日々のニュースを、子どもたちにわかりやすく解説することを目的にしたNHK総合テレビの番組です。一九九四年にスタートし、現在は土曜日の夕方に生放送されています。
私はこの番組に一一年間、出演していました。
この「週刊こどもニュース」では、本当に勉強させてもらいました。誰にかといえば、それはなんといっても、子どもたちに、です。
子どもたちは当時の私にとって、デスクであり、先生でもありました。
大人には通じる常識≠ェ子どもには通じない。知識も社会経験も、大人に比べると少ないのですから当たり前です。
その子どもたちに、どうやって世の中で起きている事件や事故、出来事をわかりやすく伝えるか。これが大変だったのです。
基本的な作業としては、まず、NHKが大人向けに伝えたニュース原稿を子ども向けに書き直します。その書き直した原稿を放送前に子どもたちに読んで聞かせます。子どもたちが「わからない」と言ったら、わかるまで書き直すのです。
テレビ局や新聞社、出版社には「デスク」という立場の人がいます。
デスクとは、現場の記者が書いた原稿に手を入れて読みやすくしたり、事実関係に間違いがないか確認したり、記者に取材の指示を出したりする記者のことです。デスクがOKを出さないと、原稿は日の目を見ません。
記者ではあるのですが、基本的には机に向かって仕事をするので、「デスク(机)」と呼ばれるようになりました。
「週刊こどもニュース」では、出演者の子どもたちにダメ出し≠ウれるわけですから、この子どもたちがデスクなのです。
子どもたちにダメ出し≠ウれることによって、私たちスタッフは多くのことを学びましたから、子どもたちは先生でもありました。
先ほどの「日銀」の問題もそうです。子どもたちから「日本銀行って何?」と聞かれると、意外に答えられなかったのです。
報道記者やキャスターとして日常的に使っていた言葉だけに、これは衝撃でした。単に自分が知って、覚えているだけでは不十分なのです。
たとえば、難しい科学用語が紙面に躍っているとします。
みんなが使っているから、恥をかかないようにコッソリ調べておこうとする。
これ自体はよい心がけでしょうが、「こういうことか。なるほど、なるほど」と思っても、それだけでは本当に理解したことになりません。マークシートの試験では正解できるかも知れませんが、いざ、誰かに説明しようとするとシドロモドロ、なかなかうまくできないものです。
特に、そのことに関してまったく知識のない人にわかるように伝えるには、自分も正確に理解していないと、とても無理です。うろ覚えや不正確な知識、浅い理解では、相手がわかるはずはありません。
何かを調べるときには、「学ぼう」「知ろう」という姿勢にとどまらずに、まったく知らない人に説明するにはどうしたらよいかということまで意識すると、理解が格段に深まります。理解が深まると、人にわかりやすく、正確に話すことができるようになります。
(池上彰著「伝える力」PHPビジネス新書 p15-22)
■━━━━━
第2章 わかりやすさの技法
(1)長いと難しくなる
文字は大きく、文字数は少なく、漢字はできるだけやめてひらがなにし、どうしても必要な漢字にはルビをつける。写真やイラストやグラフや地図を多用し、文字情報を補うようにする。小学校三年生くらいの知的(学習)レベルの人々に政治や事故事件のニュースを理解してもらおうというのだから、そのぐらいのことは当然やらなければならない。
しかし、それだけでは「わかりやすい」記事にはならない。難しい専門用語がしばしば登場する経済記事や科学記事も、避けることはできない。プロの記者が書いたものを、障害者本人を交えた編集委員会で読み合わせを行って、わかりにくい部分、問題のある部分を指摘し、書き直すことにした。
試行錯誤をする中で、いくつかの決まりごとができた。たとえば、一つの文章はできるだけ簡潔に、短くする。文章の構造はできるだけ単純にする。そのために接続詞はどうしても必要な場合を除いては使わない。時間的な経過をさかのぼることはしない。抽象的な言葉は避ける。比喩や暗喩(あんゆ)や擬人法は禁止。「〜しないわけではない」というような二重否定もやめる、ということなどである。
次の記事を読んでいただきたい。
政府は七日、健全な金融機関を対象に公的資金を投入する新制度について、三年程度の時限立法とする方針を固めた。危機の予防を目的とした制度ではなく、金融システムの安定を維持するための「デフレ下の特例措置」(金融庁幹部)と位置づけるもので、公的資金の投入規模も一行当たり数千億円程度に抑制し、りそなグループに一兆九六〇〇億円を投入する現行の預金保険法の対応と差別化を図る考えだ。
実際に新聞に掲載された記事である。内容も難しいが、実に百八十九文字の記事に句点「。」は一つだけ。この長くて難しい文章は一ヵ所でしか区切られていない。これをステージの法則≠ノ従って短い文章に書き直すと以下のようになる。
「政府は七日、健全な金融機関を対象に公的資金を投入する新制度について、三年程度の時限立法とする方針を固めた。これは危機の予防を目的とした制度ではない。金融システムの安定を維持するための『デフレ下の特例措置』(金融庁幹部)と位置づけるものだ。公的資金の投入規模も一行当たり数千億円程度に抑制する。りそなグループに一兆九六〇〇億円を投入する現行の預金保険法の対応と差別化を図る考えだ」
単純に一つの文章に句点を増やして、五つの短い記事に分けただけでもずいぶん読みやすくなったのではないだろうか。
次に、できるだけ漢字はやめ、抽象的な言葉や言い回しもやめる。「金融機関」は「銀行など」に、「危機の予防」は「倒産しないために」、「公的資金の投入規模」は「税金をいくらあげるか」に、「差別化を図る」は「違うものにする」に、それぞれ言い換える。厳密な意味やニュアンスは、これらの言い換えによって若干異なったものになるが、私たちが日常的に使っている平易な言い方に近くなり、知的障害者にとってもなじみのある表現になるのではないだろうか。
しかし、これでもまだ足りない。「デフレ」「金融システム」「預金保険法」などの言葉の意味もわかりやすく伝えないと、ひらがなやかみ砕いた表現に直しても記事の内容は理解されないだろう。そもそも、金融機関が累積債務に苦しみ、公的資金を投入しなければいけない状況を説明しないと、この記事を理解してもらうことはできない。
たとえば、「ステージ」二五号(二〇〇三年三月)のデフレに関する記事はこのように書かれている。
「デフレ」とは「ずっと物価(ものの値段)が下がり続けること」です。ハンバーガーや牛丼などはどんどん安くなっています。これは、いいことのはずですが、なぜデフレは悪いのでしょうか。
物価がどんどん下がっていくと、人々は「もっと安くなるだろう」と考え、買い物を先延ばしにします。すると、品物は売れません。品物が売れないと、売る方は値段を下げて買ってもらおうとしますが、それがまた物価の下落と、買い物の先延ばしにつながります。もがけば、もがくほど、値段も売れ行きも落ちてゆき、物を作ったり売ったりする会社の売り上げ成績も落ちていくのです。だからデフレは怖くて「アリ地獄」のようだと言われます。
また、安くなるのは物価だけではありません。会社からもらう給料やボーナスも下がります。会社の成績が悪いので仕方ありませんよね。牛丼が安くなっても、使えるお金が少なくなるので、ちっとも残らないというわけです。
安くならないものもあります。それは「借金」です。会社は売り上げが落ち、家庭は給料が減って苦しいのに、借金の額は変わりません。すると、借金をきちんと返していくことは大変になり、会社の経営や家計のやりくりは苦しくなります。
これを実際に書いたのは、私の同僚である経済部の記者である。取材先で日常的に使われている専門用語や慣用句をやめて、字数の制約からも解かれて、まるで小さな子どもに経済の話をやさしく語っているような文章ではないか。こんなふうに書かれると、もっと経済のことがわかるようになるのかもしれない。
(2)主語と述語の微妙な関係
このような目で新聞を読むようになると、ふだん気にならない記事が気になってくる。新聞はわかりやすさを旨としているが、果たして本当にわかりやすいであろうか、と思うことが多くなった。
たとえば、二〇〇三年六月七日の毎日新聞朝刊(一四版、東京本社発行)を見ることにしよう。その日の記事の中で最も重要なものが掲載されることになっている一面トップ記事。まず、これを読んでみよう。
財務省は六日、サラリーマンなどの給与所得の平均三〇パーセント弱を必要経費とみなして非課税にしている「給与所得控除」について、二〇パーセントに引き下げる方針を固めた。……ただ、負担が増えるサラリーマン層から強い反発が予想されるため、必要経費の対象を交際費の一部などに広げ、確定申告すれば実質二五パーセント程度まで非課税にする考え……
日ごろから税制に関する記事を読み慣れている人か、よほど税に関心のある人なら「なるほど」と思うのかもしれないが、給料から天引きされている税についてさほどの関心も痛みも感じないで暮らしてきた鈍感な私には、正直なところすぐには理解できなかった。やっぱり、税の制度は難しい……。しかし、そう思う前に、もう少し文章の構造を考えながら読み直すと、この記事の素顔が浮かび上がってくる。
百六十文字ほどの比較的短い記事ではあるが、この中にいくつもの主語と述語が、モグラ叩きゲームのモグラのように次々と登場してくる。そのため、読み解きにくい構造になっているのではないか。いや、厳密に言うと、「登場」はしてこない。いくつかの主語がこの記事の中にはあるのだが、それが省略されているために、表面上は登場せず、暗号文書のような装いになっているのだ。
しかも、このニュースの背景にある状況を把握した上で読まないと、現在の社会情勢の中でどのような意味を持つのか、自分自身にとってどのような影響がもたらされるのかがよくわからない。それが、わかりにくさに拍車をかけている要因であろう。
少しわかりやすくするために、この記事を因数分解してみよう。最初の文節の中には述語がいくつか出てくる。
@(必要経費と)みなす
A(非課税に)している
B(二〇パーセントに)引き下げる
C(方針を)固めた
いずれも主語は「財務省」のように思えるが、そうだろうか。BとCの主語は財務省ではあるのだが、「……方針を固めた」という書き方は、まだ財務省が正式に発表してはいない段階であることを意味しており、本当は財務省という組織の中で、税法改正案を作成するのに権限のあるポストあるいは人が主語なのであろう。これに対して@とAは、財務省の担当ポストや幹部ではなく、所得税法を根拠とした規則などの決まりごとが、必要経費とみなしていたり、非課税にしていることを示している。
また、述語の目的、つまり「何を」みなしたり、非課税にしたり、引き下げるのか……をみると、@とAはサラリーマンなどの給与所得の平均三〇パーセント弱の部分、Bは必要経費とみなす割合、Cは二〇パーセントに引き下げる方針──である。
このような複雑で微妙に意味の違う要素が入り乱れて短い原稿の中に同居しているのに、これらを統率する役割を担った言葉は冒頭の「財務省は」しかない。しかも、それぞれの言葉が支え合ったり、もたれ合ったり、背中を向け合ったりしているのである。学級崩壊したクラスの担任にさせられた新任教師が教壇で呆然としているときの気持ちはこんな感じなのではないか。
この記事は要するに、長期不況による財政難に悩む財務省が、サラリーマンなどの給与所得控除を現在よりも大幅に引き下げる方針を固め、二〇〇五年度税制改正に盛り込むことにしたというものだ。控除を少なくすれば、おのずと課税対象の所得額が増えることになり、その分の税収が増えることになる。
記事から余分な要素をはぎ取っていくと、「財務省は給与所得控除を二〇パーセントに引き下げる方針を固めた」が残る。これが記事の骨≠ナある。それだけのことだ。
しかし、給与所得控除が何なのかが一般の人にはわからない。そこで、給与所得控除とはサラリーマンなどの給与所得の中で必要経費とみなして、ある一定の額を非課税にしていることなどを肉づけして説明しているのだ。さらに、ある一定の額とは何なのかを説明するため、現在は平均して所得の三〇パーセント弱であるということを記している。そうしなければ、次に続く最重要部分の「二〇パーセントに引き下げる方針を固めた」というくだりを書けなくなってしまう。これらの要素をすべて盛り込んだため、短い文章のくせに複雑な構造の記事が出来上がっているのだ。
どの新聞も以前より活字が大きくなり、その分、一ページに掲載できる情報量(文字数)が減った。そのため、一つ一つの記事が以前より短くなった。最小限の行数に必要な要素を詰め込もうとして複雑な構造の文章が生まれてくる傾向があるようにも思う。しかも、専門的で難解なものにまで社会の関心が及ぶようになってきたため、新聞が難しいテーマを取り上げる機会も増えているのだ。
一面トッブ記事の前文だけでこんなに頭を悩ませていては、いったい何時間かければその日の朝刊を読み終えることができるのか、途方に暮れそうである。しかし、難解な記事はそんなにたくさんあるわけではない。詳細に分析していくと難解な構造の記事であっても、その記事の言わんとすることが大づかみで理解できればよいのだ。と、自分を慰めつつページをめくっていったら、こんな記事を見つけた。
一回読んだだけで内容を完全に理解できる人がいったいどれくらいいるだろう。
宇宙誕生時に存在した反粒子が自然界から消滅した理由を探るため、九九年に稼働した高エネルギー加速器研究機構(茨城県つくば市)の大型加速器「Bファクトリー」が設計時の目標性能を達成した。電子と陽電子を衝突させる性能は世界最高で、米スタンフォード大の二倍近くに達した。Bファクトリーは、B中間子とその反粒子の反B中間子を大量に作り出す。二つの粒子の振る舞いを分析した結果、粒子より反粒子の方がわずかに崩壊しやすいことが反粒子消滅の理由とほば確認された。
「反粒子」「高エネルギー加速器」「電子」「陽電子」「B中間子」。これらの言葉の意味がわからなければ、何度読んでみたところでこの記事を理解することはできない。物理学のシロウトが理解できるようにわかりやすく説明するためには、新聞一ページ分のスペースがあっても足りないかもしれない。いや、一冊の新書でも足りないくらいだ。誰か、小学校三年生にわかるように説明してくれないだろうか。
(野沢和弘著「わかりやすさの本質」生活人新書 p45-56)
■━━━━━
わずか百四十六文字の短い記事の中に、「 」と( )と==という記号が計六回も出てくる。それはなぜなのかと言えば、◇◇社というだけではどんな会社かわからないからである。そこで、◇◇社とは害虫駆除の大手の会社であること、東京都渋谷区に会社があること、現在は民事再生手続き中であること、などの説明をどうしてもつけたい。
さて、第二次世界大戦終結で日本が連合軍から受諾したポツダム宣言第十項は「日本国政府ハ日本国国民ノ間二於ケル民主主義的傾向ノ復活強化二対スル一切ノ障擬ヲ除去スベシ」と、日本政府に求めた。
この趣旨は、一九四五年九月二十二日に発表された連合軍総司令部(GHQ)マッカーサ元帥による「降伏後における米国の初期の対日方針」でより具体化され、「民主主義的基礎ノ上二組織セラレタル労働、産業及農業二於ケル組織ノ発展ハ之ヲ奨励支持スベシ」と明示。さらに九月三十日には、戦時中、労働者の統制機関であった「大日本産業報国会」の解散を命じる。
そして、初めての外国軍隊の占領がはじまる。
関西への進駐は、九月二十五日。
和歌山市近辺に上陸した米軍(連合軍第六軍第一軍団)は、ジープやトラックで国道十六号線(現在の二十六号線)を大阪へ北上した。人々は不安におののきながら、その様子を国道の両脇で鈴なりのように、終日、見ていたという。
泉州方面では、堺市金岡の日本軍兵舎に進駐、さらにその後、同市浜寺公園とその周辺を米軍家族住宅地として接収、住宅を勝手に改造し住居にした。また、浜寺海岸沿いの白砂青松で有名な名のある松の木を切り倒して新しく住居を作り、市民に親しまれた海水浴場を立ち入り禁止にした。
さらに、堺市と大阪市の境目、大和川沿いにある大阪市立商科大学(現大阪市立大学)は、戦争中海兵団の兵舎化が進んでいたが、撤収した後、今度は、米軍が学舎全部を接収し、行き先を失った学生は、空襲で窓ガラスが割れたまま、雨漏りのする付近の国民学校(小学校)で、大学の講義を聴いた。
占領軍は「アメリカを主力とする軍隊」であったが、ポツダム宣言に明記される反ファッショ連合戦線の取り決めに拘束されるという一面もあったから、初期には、対日支配に必要な範囲に限るものではあったが、一連の民主化措置をとることになるのだ。
十月四日には、その典型ともいえるもの、「政治的民事的及宗教的自由に対する制限の撤廃」GHQ指令が出される。東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣が総辞職したあと、新しく誕生した幣原内閣に対して十一日、GHQはさらに具体的に、「日本民主化に関する見解」を示して五大政策を要求した。
@婦人参政権の付与による女性解放
A労働組合結成の奨励
B学校教育の自由化
C専制政治の廃止、秘密諮問ならびに民権を制限する制度の廃止
D経済機構の民主化
これらの「指令」によって、ながらく獄中につながれた共産党員や「政治犯」、労働運動指導者などがいっせいに出獄することになった。
民主化を求める政治活動や、労働運動を弾圧するために威力を発揮した、治安維持法や特別高等警察制度が廃止された。
その活動が公然と認められる時代が、拓かれたのだ。
だが、庶民の生活は、さらに悲惨のきわみとなる。
日本政府と戦前を支えた権力者は、軍や政府の物資を横領、隠匿を重ねていた。庶民は食料難と物資窮乏に苦しめられ、飢餓状態が蔓延した。インフレは日を追って進行し、敗戦の年の工業生産は戦前の一、二割に下がっている。軍属の復員や海外からの引き揚げが進む中、軍需工場などの休業状態が続き転換のめども容易にたたず、失業者があふれていた。交通、運輸もマヒ状態が続いた。電力の供給も途切れがちで夜は暗闇の日が多かった。生活の悲惨さに加え、衛生状態の悪化による伝染病・赤痢が大流行する。後を追うように天然痘、発疹チフスの患者も激増していた。
庶民は、極限の生活苦とたたかいながら、人間らしさを勝ち取るための、自由や民主主義への模索を始めるのだ。
労働組合法が公布される十二月二十二日を待たずに、十月になると北海道夕張炭鉱では、六千人の朝鮮人労働者が待遇改善を要求してストライキに入り、読売新聞社では争議が起きた。
誰に相談するという相手もないままに、大阪の人里はなれた千石荘病院では、いち早く、労働組合を立ち上げる機運が、盛り上がりつつあった。
林が、学生時代に学んだ知識をひもときながら、「民主主義」を手にするために、「団結する」という。
しかしその活動たるや、わずかに、地域にツテをたどって、「釈放されてきたばかりの共産党の人」と連絡を取って思いを伝えたというが、挨拶をした程度では、直ちに援助が得られるわけでもなく、ほとんど手探りであった。
だが、意気は高い。
「働く条件をもっとまともにするために、労働組合の結成に、立ち上がろう」という呼びかけにこたえ、中心的役割を果たす十数人が集まることになった。
タケ子は終戦以来、医師の先輩としてだけでなく、人間として林から、物事を教わろうとする姿勢が顕著になっていた。
秋風が雑本林を渡り始める頃には、労働組合が必要だという話を何度も聞いている。
千石荘で、具体的にどのように立ち上がるのか見当がつかないでいたが、林の意見にいくつか感想を述べられる程度に、意識を成長させていた。
そんなこともあり、
「まあいっぺん、みなが集まるところを覗いてみたらどうかね」
と誘われて、タケ子は好奇心半分で、行く気になった。
集まりは「訓練小屋」でやるらしい。
病院の南の端には病棟とは別に、軽症になった患者が快癒にむかって、自立を準備する「訓練小屋」が並んでいる。
患者は、その粗末な小屋に寝泊りしながら、簡単な農作業などを始め、日常の生活復帰の訓練をするのだ。数軒の一塊(ひとかたまり)ごとに「さつき」とか、「やまぶき」だとか名前がつけられていた。
たまたま空いた小屋のひとつを、暗黙のうちに、相談の場所として確保していた。その日も突然の停電のため、ろうそくが灯っている。
「こんばんは」
タケ子は、そっときしむ戸口を開けた。集まっていた人たちは、新顔の来訪に一瞬シーンと静まった。
虫の音がいっそう高く聞こえる。
林は、ほの暗い一番奥に居て、笑顔でタケ子に手を振った。
「今のこの病院の絶望的状況を建て直していくのには、医師や看護婦の努力だけでは限界がある。どうしても大本の厚生省に交渉して、抜本的な対策を取らせないといけない。そのために交渉できる組織が必要です。それが、今、我々が皆さんと一緒に作ろうとしている労働組合なのだ」
林はゆっくりとした口調で話し始める。
集まった人たちは、いっせいにそこで拍手をした。
電気室の尾崎義一と検査技師の野垣実が入り口に近いところで座っていた。
看護婦は、主任をしている西野美起子を中心に、その日あけ番の、大西チエ子、加藤真亀子や、松尾芳ら数人が一塊になっている。
体調を崩した医師、西村の姿は見えず、タケ子の先輩で、どちらかといえば物静かで目立たない女医の伊澤イツヨが林の横に、居るではないか。
「きょう集まってくれた皆さんは、覚悟してきてくれていると思うからみんな役員になってもらおうと思う。いいね」
みんなそれぞれうなずきあって、まあ、そんなもんだろう、という表情をする。
タケ子は、目立たないように、それでも着々と労働組合結成の準備を進めてきた林の動きに、並々ならぬ粘り強さを感じた。
同時に、共感して、行動に移す人たちの誠実な素直さを目の当たりにしたようで、感心してその様子に見入っていた。
すると突然、林が、
「沓脱君、君、青年部のほうをやってくれないか」
という。
いっせいに、全員がタケ子の表情を窺った。
「ええっ、そんなことおっしやっても、先生」
タケ子は慌てた。思いも寄らない。
「いやいや、もう準備はできているんだ。みんなも、君が引き受けてくれたら大喜びだ、なあ」
わっとざわめいて、間髪をいれず、いっせいに拍手が起こった。
陽気な大西チエ子は「沓脱医員殿、バンザーイ」と両手を広げて振り回すと、看護婦はいっせいに「バンザーイ」と言った。
「ほらごらん、頼りにしているんだ。君ならできる。君流でやってくれたらいいんだよ。沓脱君、たのんだよ」
「先生、急にそんなことを言われても……」
大変なことになってしまった。
「それに、もうひとつ。西野君は、看護婦寮の運営を民主化するために、このたびいよいよ自治会を結成し、初代会長に収まってくれた、うれしいね」
「ほう」という表情で参加者は西野を窺う。
西野は、屈託のない笑顔である。
「そうだ、大事なことを忘れてはいけない。沓脱君は、労働組合を結成するに当たって、すばらしい意見を持っているんだよ、みなでそれを聞こうじゃないか」
林は、タケ子が青年部長にもう決まったように、次の話題に進めようと、いつものようにのんびりとした口調に戻って言う。
林のこの「のんびり」は、くせものだった。
なかなか腰が上がらないというか、のどかというか、いつもにこやかな笑顔で人の話を聞く。そしていつまでも、ニコニコしているのだ。
タケ子は「それで先生は、どう思われるのですか? どういう結論をお持ちですか」とイライラじれて、返事をもとめる。が、たいてい「そうだねえ……」で、終わりである。
それでいて、じわじわ、じっくりと原則をはずさず、いつの間にか、貫くところへ結論を持っていく。林は、鮮やかに目立つ動きが、嫌いだった。
今回、林のいう「労働組合についての意見」を、タケ子が言ったときもそうだった。
実は、千石荘の労働組合は、当初二つ作られる話が進んでいた。ひとつは医師、看護婦、事務職員などで作られる職員組合、もうひとつは、電気室、水道室、給食などの労働者で組織する従業員組合。タケ子は「同じ病院で働いているものの中で、組合が二つに分かれるというのはおかしいのではないか」と思ったのだ。
そのことを林に告げたが、黙って聞いていた。
「そうだねえ」
と言ったきり、何も言わないので、「林先生は、また、『牛のよだれ』でいらっしゃる」と心の中で悪態をついてそれっきりになっていた。
タケ子は、意見を述べるについて、組合とは何かという知識があるわけではない。明確な理論があるわけでもなかったが、おかしいと思う自分の感性が、道理に外れているとはどうしても思えなかった。
その感性について本人は「私独特の、本能的感覚、カンですわ」と名づける。タケ子は折にふれ、この「カン」を大事にした発言や疑問を呈する。「ちょっと持って、その話なんかおかしい気がする」と。
しかし、本能的感覚による意見といっても、脈絡のない発想ではない。
組合作り以前に、タケ子は「いやだなあ」と思うことがいくつかあった。
まず、いわゆる職員と呼ばれる人たちと、現場の労働者の間にはかなりの賃金格差があった。そのうえに、医者の側にあるプライドと、労働者のほうはコンプレックスがあいまって、日常生活の中にギクシャクしたものが様々な形で生まれていた。
その摩擦を、医者のほうでは、尊大とも言える身構えでいなすのを見るにつけ、砂をかむ思いがした。
タケ子は現業の職場に顔をだして、気楽に接したり、話をすることが少しも苦痛ではなかったので、よく彼らと立ち話などをした。その際、現場のおじさんたちは、あまり警戒せずになんでも話してくれたが、その中に医者や看護婦の態度について不満が渦巻いているのを感じていた。
医者と看護婦の間にも、階層差別は歴然とあった。
本館二階にある医局の上がり口にはサクがあって、医局に看護婦が来るときはそこで予防衣を脱いで階段を上がらねばならず、入り口から断りもなく入室はできず「○○医員殿」と呼ぶ。
戦後も、軍隊のような特権的習慣の中に医者はいた。
回診をするときは看護婦長が「聴診器」をささげもって医者に寄り添い、若い看護婦が洗面器に消毒液を入れたものを持って、医者が一人ひとりの患者の診察が終わるたびにそれで手を洗う。そういういうセレモニーが、日常の医者と看護婦の関係を表していた。
タケ子は「格付け」でけじめをつけようとする風潮が、体質的にイヤで仕方がなかった。
まとまりのない漠然とした気分ではあるが、労働組合というところはそれを許さない理想があるのではないかと思えたのだ。
「仕事の種類とは別の、そういう妙な区別がこの病院内にはいっぱいあります。権威の格付けや差別をすることが、良い医療につながるとは思いません。そういう妙な区別をなくするのが、民主主義を重んじる労働組合と違いますか。林先生の話を聞いていて、私はなんとなくそう思うので、組合を二つに分けるのは、反対です」
タケ子は一気に自分の考えを述べた。
はじめの戸惑いなど、どこかに吹き飛んで、すっかりその場にとけ込んでいる。
すると、顔を真っ赤に紅潮させた尾崎がいきなりたちあがって、感に堪えないという表情で、拍手しながら言う。
「そうや、ほんまや。そのとおりや。わしらのほうから、組合を割ってどないすんねん。あかな。はじめから差別賃金にせえて言うてるようなもんやし。青年部長、沓脱先生の言わはるとおりや、さすがや、すごい」
みんなも続いて拍手をした。
医者の立場でありながら、立場を鼻にかけない人柄だというのは知っていたが、その矛盾をずばり指摘する目線に、参加者は感動を隠さなかった。お互いにそれに感動できる心を持ち合わせていることを喜び合った。
ひとしきり盛り上がって、看護婦の西野が言った。
「あらあ、ちょっと持って、尾崎さん。『あんな偉そうにさらしとる医者なんかと、おんなじ組合なんかつくれるかい、のう』って昨日まで、組合は二ついるて、ゆうて回ってたやんか。この豹変ぶりは、一体、どうなってんの」
爆笑に包まれて、実直な尾崎は頭を掻く。
林は何も言わずにあごに手を当てて、話を聞きながら、いつもの笑顔だった。
これで、病院内に組合を二つ作ろうという案は消えた。
そして、林は初代委員長に、タケ子は青年部長に推薦された。
後年、分裂組織と熾烈なたたかいが起きるのだが、この「組合はひとつでよい」という理念がどれだけ貴重なものか試される日が来ることは、このとき誰も知る由がない。
単一の千石荘病院労組は正式には、この年の十二月、労働組合法の公布と同時に「結成総会」をおこなったが、活動は、それを待たずに積極的に切り拓いている。
当時、大阪府下には、刀根山、千石荘、福泉園という三つの公立の結核療養所があった。
結核対策については、大阪市が昭和の初期に全国に先駆けて行政が乗り出し、豊中市・刀根山に療養所を作ったことに端を発し、千石荘、福泉園と規模を大きくした。
戦争中に軍隊の結核対策など必要に迫られ、国策として、大阪市から日本医療団に運営が移管されている。それがさらに国立という形で運営されることになった。
労働組合としては、同じ国立の結核に関わる病院が、統一し足並みをそろえたたかわなければならない。刀根山では組織化が進み始めていたが、福泉園は遅れているという。
訓練小屋で話し合って、二週間もたっただろうか、初代委員長・林はこともなげに言う。
「沓脱君、福泉に、青年部長として、オルグ(なかまづくり)を、してきてくれんか」
「ひえーッ、オルグ?」
さあ、えらいことよ。
言葉の意味ぐらい知らないわけではないが、何をどうしていいかさっぱりわからない。弱り果てるがそこは「ええい、なんとかなるでしょう」とやってしまうのもタケ子流なのだ。
国鉄阪和線(現在JR)に乗って鳳駅からバスで福泉園へ。まっすぐ医局を訪ねて、
「そこで何をどうしゃべったか、どう訴えたか、まったく何も覚えてない。思い出すのはもう晩秋だったのに、びっしょり汗をかいたことだけ。たぶん林先生が日ごろ話してくださったことを受け売りよろしく、必死で、一服吹いてきたのにちがいない」
アハハ、と本人は後年思い出しては、笑っていた。
それからというもの、「勉強せんことには話にならない」と意を決して、官舎の林宅を訪ねては、書架にある理論書を次々に引っ張り出しては、借りて帰った。
マルクスの「共産党宣言」からはじまって、「空想から科学へ」「労働組合論」「史的唯物論」と進む。
いきなりそういう文章に接して、難しくはなかったか。
夕ケ子はケロリという。
「人間の書いたものやから、じっくり正面から取り組めばだんだんわかってくるよ」
新しい知識に接する要求が強烈だったのだろう。
「まるで、砂が水を吸い込むように、新しいものの考え方が身につくのが自分でも楽しくてしょうがなかった」「もともと医者は、自然弁証法的な発想がなければ病気の診断も治療もできないわけですから、そういうものの考え方の基礎は、いやおうなしに身についていたから、弁証法的唯物論は理解しやすかった」
こうしてものの見方、考え方についての新しい理論を身につけるにしたがって、小学校以来学校教育で身につけた観念哲学を、自分ではがしていった。それは新しい酸素を吸うように、すがすがしく気持ちの良い楽しい作業だった。
タケ子だけではない。
看護婦の主任をしている西野美起子は、千石荘病院准看護学校の一期生で二十四歳だったから、若い看護婦集団の中では比較的年長ということもあり、「うりざね顔の美人」ではあるが「少し怖い」リーダー的存在だった。
勉強が好きで、戦争中「出口のないような貧しい家庭」に育っていたが、ナイチンゲールの「博愛」の精神を憧れにして看護婦という職業についたというだけあって、仕事に対する情熱と、知的好奇心で林の存在を知り、その理論に引き込まれた。
労働組合結成の時には看護婦の中で先頭を切って、意義を訴えて回っている。
その美起子が、労働組合の活動として、手始めに何を一番やりたいかという議論に、問われて言う。
「わたし、民主主義の勉強がしたい。このごろ『はやり』の民主主義というのは、どういうものやろかと看護婦の間で話題になるけど、誰も知らない。私は林先生に教えてもらっているから、上から押し付けられるのではなく、言いたいことがいえる世の中やって、伝えるけれど、みんなは俯に落ちないらしく、そんな世の中欲しいけど、実感できない不思議なもんやなあと言うの。だから、組合で民主主義の勉強会をしましょう」
提案を受けて、居合わせた者は「それがいい」と全員がひざを打った。
誰しも空腹で貧しかったが、価値観の大変動が起きた時期に、民主主義について勉強したいというのは、何にも増して強い要求だったのだ。
一体だれを講師に呼ぶか、だれも当てがあるわけがない。考えた挙げ句、
「共産党で、長いこと牢屋に入れられた人が今度出てきてるという話を聞いた。あの人たちなら民主主義について話してくれるだろう」
と林が提案する。
「いきなり共産党を呼ぶのは怖くないか」
などとひとしきりささやきあったが、
「世の中、新しくなったのだ、どんな人物なのか見てみたい」
という声が大勢を占め、Mを呼ぶことになった。
しかし、これがきっかけで、のちにこのMと、医師の井澤イツヨが結婚することになるのだ。
「労働組合に出合ったことで教えられたのは、一人ひとりの医師も看護婦も労働者も、同じ人間として対等に話し合い認め合えるという、人間として最も基本的な生き方でした。それは、私の性分にとてもあっていた」
タケ子は労働組合の理解の入り口を、こういう形で自分のものにしていた。
(稲光宏子「タケ子」新日本出版社 p44-57)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「何かを調べるときには、「学ぼう」「知ろう」という姿勢にとどまらずに、まったく知らない人に説明するにはどうしたらよいかということまで意識すると、理解が格段に深まり……理解が深まると、人にわかりやすく、正確に話すことができる」と。