学習通信081224
◎労働組合以外に労働者全体を団結させる組織はない……

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若者が怒りを表出する
回路を獲得するために
河添 誠

新自由主義と対抗する組織化の課題

 日本の若者が怒りを忘れているように見える。私が活動のなかで出会う若者の多くも「やさしい」人たちで、傷つきやすく繊細である。「怒り」の感情をストレートに表出することなどめったにない。さて、この「怒りの忘却」ともいえる状況はどのように形成され再生産されているのだろうか?

「自分が悪い」と
思い込まされる

 一九九〇年代以降の新自由主義改革のなかで大量に生み出された派遣労働などの非正規労働のなかで、労働者は「器用さ」を過剰に要求されることとなった。あちこちの仕事先の仕事内容・人間関係に即座に対応できることが働くうえで、生きるうえでの標準とされるからである。しかしながら、こうした種類の器用さというものは、貧困のなかでは獲得されるものではない。

さまざまなことに挑戦するチャンスに恵まれ、幼少期からさまざまな成功体験を積んでいくことによってはじめて、何かをやり遂げる自信をもつことができるようになるのであって、貧困のなかで挑戦するチャンスすら与えられずにいる場合、自信を失い、器用にふるまうことの困難な状態になるのが普通である。

現代日本においては、こうした貧困な人・不器用な人ほど、階層化された労働市場の最下層に位置づけられていく。もっとも劣悪な労働環境・生活環境に、もっとも不器用な人たちが追い込まれ、生きづらさを感じている。

 若者が感じている生きづらさが、じっさいにはさまざまな社会的要因からくるものだったとしても、「器用に生きなければいけない」という規範が社会的に過剰に強制されているために、「自分が不器用だからわるいのだ」と思い込まされ、自分自身の感情を押し殺してしまうことになる。

であるから、「声をあげたり、怒ったりするのはフツーではない」という雰囲気が若者のあいだに蔓延するのである。このことによって、結果として、下層の若者が、その生きづらさを社会的な怒りとして表出する回路が見事に遮断されることになる。下層が怒りの声をあげない状況とは、下層の存在が不可視化され、社会的に抹殺される状況でもある。

怒る他者を知り
認識が変わって

 この状況をどう突破するのか? ここで考えてみたいのは、「組織化」の新しい可能性である。「組織化」を、労働組合に加入するという意味以上の、もう少し広い位置づけで考える必要がある。たとえば、首都圏青年ユニオンに加入した若者たちは、団交などの応援に参加し、そこで不当解雇されて怒っている他の組合員の存在を知ることになる。怒っている他者を見ることによって、認識そのものが変わっていく。自分と同じように「能力不足」などと決め付けられ不当解雇にあっている他者がいることに気づく。

また、住み込みの仕事を解雇されてホームレスになりかかった組合員の話などを聞いて、自分よりもさらに厳しい状況にある他者の存在に気づくことになる。

「組織化」されることによって自分以外の他者の存在を知ることを通じて、個別化された自分の生きづらさから、それが社会的につくられたものであるとの認識を深めていくこととなるのである。そうして初めて、怒りを社会的に表出する回路を若者自身が獲得することができる。

新自由主義と対抗する怒りを組織化するためにも、下層の若者自身を「組織化」することが不可欠の課題となると思われる。(かわぞえ・まこと 首都圏青年ユニオン書記長)
(「赤旗」20081217)

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 しかし、あとになってはじめて、これらすべてのことのために払われた犠牲が発見される。

大通りの舗道のうえを何日かうろつき、人ごみや、無限につづく馬車や荷車のあいだをやっととおりぬけ、世界都市の「貧民街」をおとずれたときに、そのときにはじめて、これらのロンドン人は、自分たちの町に満ちあふれている文明のあらゆる驚異を実現するために、自分たちの人間性の最善の部分を犠牲にしなければならなかったということ、少数の人びとがますます発展し、他人の力をあわせてそれを何倍にもしていくために、ロンドン人のなかに眠っている何百もの力が活用されず、抑圧されたということに気づくのである。

街路の雑踏がすでになにか不快なもの、なにか人間性に反するものをもっている。

おしあいながらすれ違っていくこれら数十万もの、あらゆる階級、あらゆる身分の人びとも、すべて同じ本性と能力をもち、幸福になりたいという同じ関心をもつ人間ではないのだろうか。

そして彼らもすべて、結局は同じ手段と方法によって自分の幸福を追求しなければならないのではないだろうか。

それにもかかわらず、彼らはまったく共通のものもなく、おたがいになすべきこともないかのように、走りすぎていく。

そして彼らのあいだの唯一の約束は、たがいに走りすぎていく群衆の二つの流れが停滞しないように、それぞれが歩道の右側を歩くという暗黙の約束だけである。

そしてしかも誰も他人には目もくれようともしない。

この非人間的な無関心さ、各人が自分の個人的利益しか考えない非情な孤立化は、これらの個人が狭い空間におしこまれればおしこまれるほどいっそう不快で気にさわるものとなってくる。

こういう個人の孤立化、こういう偏狭な利己心が一般に今日のわれわれの社会の基本原理であることを知ってはいるけれども、大都市の雑踏のなかほど、それが恥ずかしげもなく露骨に、また意識的に、あらわれるところはない。

人類が単子へ分解され、その一つひとつがバラバラの生活原理とバラバラの目的をもっている原子の世界が、ここではその頂点にたっしているのである。

 したがってまた、ここでは社会戦争、つまり万人対万人の戦争が公然と宣言されている。

わが友シユテイルナーのように、人びとはおたがいを利用できる奴としてしか見ていない。

みんなが他人を食いものにし、そのために強者が弱者をふみつけ、少数の強者、つまり資本家があらゆるものを奪いとり、多数の弱者、つまり貧民には、ぎりぎりの生活もほとんど残されていないということになるのである。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 上」新日本出版社 p51-52)

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 「夢想すべきことである!」このことばを書きおわって、私は愕然とした。

私は、自分が「合同大会」に列席して、『ラボーチェエ・デーロ』の編集局員たちや寄稿家たちと向かいあってすわっていろような気がしたのである。

いまそこに、同志マルトィノフが立ちあがって、こわい顔をして私にことばをかける。

「ところで、おたずねしたいが、自治的な編集局には、あらかじめ党のもろもろの委員会の意見も問いあわせずに夢想などする権利があるのか!」と。

すると、つづいて同志クリチェフスキーが立ちあがって、(すでにずっと以前に同志プレハーノフを深めた同志マルトィノフをさらにいっそう哲学的に深めながら)もっとこわい顔をして、引きとって言う、

「私はもっと突っこんでたずねよう。マルクスによれば、人類はいつも自分で解決できる任務だけを自分に提起するものであること、また戦術は党とともに成長する任務の成長の過程であることを忘れないなら、いったいマルクス主義者が、夢想などする権利があるのか?」と。

 この恐ろしい質問を思っただけで、私は膚が寒けだってくる。そこで、どこに身を隠そうかと、そればかり考える。ひとつピーサレフのうしろに隠れてみるとしよう。

 ピーサレフは、夢想と現実の不一致という問題について次のように書いている。


「一概に不一致といっても、いろいろなものがある。私の夢想が諸事件の自然の歩みを追いこすこともありうるし、諸事件のどんな自然の歩みもそこまではけっして到達できないような、まったくのわき道にはいりこむこともありうる。

まえの場合には、夢想はどのような弊害ももたらさない。

それは、働く人の精力を維持し強めることさえできる。

……このような夢想には、働く力をゆがめたり麻痺させたりするものはなにもない。むしろ、その正反対でさえある。

もし人間がこういう夢想をする能力をまったくもたないとしたら、もし人間がときどきは先ばしって、自分の手中でようやく形をなしかけた創作品を、彼の想像によって完全な、完成した姿でながめることができないとしたら、そのときには、どういう動機が人間を刺激して、芸術、科学、実際生活の各分野で、広大な、精魂をすりへらす仕事を企てさせ、また最後までやりとげさせるか、私にはまったく考えることができない。

……夢想する人物が生活を注意ぶかく熟視しつつも、真剣に自分の夢想を信じ、自分の観察と自分の空中楼閣とを引きくらべ、総じて自分の空想の実現のために誠実にはたらきさえするなら、夢想と現実との不一致は、どのような弊害ももたらすものではない。

夢想と生活のあいだになにか接触があれば、万事は順調におこなわれる。」


 不幸なことに、われわれの運動にはまさにこういう種類の夢想があまりにも少なすぎる。そして、それについてだれよりも責任があるのは、自分のきまじめさや、「具体的な事柄」に「近づいている」ことを鼻にかける、合法的批判と非合法的「追随主義」との代表者だちなのである。
(レーニン「なにをなすべきか」レーニン一〇巻選集A 大月書店 p166-167)

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 資本主義制度は、一方では、少数の資本家階級が土地、建物、機械、原料など一切の生産手段をにぎっており、これにたいして他方では、労働者階級が生産手段の所有をうばわれて自分が所有しているのは労働力だけだ、ということを土台にして成り立っている。

つまり、資本主義制度のもとでは、労働者階級は自分の労働力を資本家に売ることによってしか、その生活と生命を維持することはできない。反対に資本家階級は、労働者の労働力を使用しあくことなき利潤を追求する。

こうして資本主義制度のもとでは、資本家階級と労働者階級の利害は搾取者と被搾取者との関係として根本的に対立している。これは、一人ひとりの労働者が自分の意志とは無関係におかれている客観的な状態である。

 では、こうした労働者が自分たちの生活を守り改善するために頼るべきものは、いったいなんであるのだろうか。それは労働者が多数であることであり、その多数が団結した力以外にはなにもない。一人ひとりがばらばらでは無力なものであり、労働者は団結の力以外に頼るものはなに一つないのである。

 労働組合は、こうした労働者の団結の武器であり、団結の基本的な姿をあらわしているものである。

 労働組合は、資本主義が最初に発達したイギリスで、一七六〇年代から一八三〇年代におこなわれた、いわゆる産業革命の申し子である近代プロレタリアートの誕生とともにつくりだされた。資本家のあくどい搾取のなかで、労働者は自分たちの生活と生命を守るためにはどうすればよいかをさがしもとめ、いろいろのかたちで抵抗をこころみた。

 その一つが機械うちこわし運動であった。マルクスは『共産党宣言』のなかで、そのころの労働者の闘争をつぎのようにのべている。


 「プロレタリアートはさまざまな発展段階を経過する。ブルジョアジーにたいする彼らの 闘争は、彼らの存在とともに始まる。
 最初は個々の労働者が、次には一つの工場の労働者が、その次には一地方の一つの労働部門の労働者が、彼らをちょくせつ搾取している個々のブルジョアとたたかう。彼らはその攻撃を、ブルジョア的生産諸関係に向けるだけではなく、生産用具そのものにも向ける。競争 相手の外国商品を破壊したり、機械をぶちこわしたり、工場に放火したりする。彼らは、中世の労働者の没落した地位を自分の手にとりもどそうとする。」


 つまり、労働者は自分たちの生活が苦しくなるのは機械や工場ができたからだと考え、はじめは機械や工場をぶちこわす一揆的なたたかいをおこなった。

しかしこうした抵抗は政府や資本家の弾圧をうけ多数の犠牲者をだし、敗北した。

そして労働者は苦しいたたかいの経験をつうじて労働者を搾取し苦しめているものは機械や工場ではなくて、資本家階級であること、それには労働者が労働組合をつくり、団結した力で資本家に対抗しなければならないことを学びとってきた。

これをおそれたイギリスの資本家階級と政府は、団結禁止法を制定し、ストライキと労働組合運動を禁止したが、労働者階級ははげしい闘争をつうじて一八二四年、ついにこの悪法を廃止させ、労働組合運動の合法性をかちとったのである。

 日本の労働者階級も、イギリスの労働者と同じように労働組合を結成し活動するためには、いろいろな困難にうちかって前進しなければならなかった。

一八九〇年代に日本の産業資本主義が確立し、労働者階級が成立し、一八九七年に「労働組合期成会」が結成され、これが日本での近代的な労働祖合運動の出発点となった。

そのころの労働者は、まだ封建時代の職人気質からぬけきっておらず、階級意識も団結の自覚もまだ弱く、しかも天皇制専制政治のもとでの運動としてきわめて困難な条件のもとにおかれていた。

日本の労働組合の結成のために活動し、のちに日本共産党の創立の指導者となった片山潜は、困難をおそれず前進する当時の労働者階級のたたかいを「労働運動は不倒翁(注・おきあがりこぼし)なり。

彼は幾度倒れても起きずんば止まず。而して倒れて起るの間に進歩せずんば止まざるなり」とのべている。

 ところで、労働者のなかの組織はいろいろある。

たとえば職場にある各種の文化サークルもその一つである。

しかし、文学とか、映画とか、演劇とか、学習とかのサークルは、それぞれ同好のものの集まりであって、すべての労働者を結集するものでもないし、また、できるものでもない。労働組合以外に労働者全体を団結させる組織はない。

そのことが労働組合は労働者階級の基本的大衆組織だといわれる根拠の一つである。
(荒堀広著「労働組合運動論」新日本新書 p11-14)

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そして彼らは、立ち上がった。
──もう一度!
(小林多喜二著「蟹工船」新潮文庫 p137)

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そして彼らは、立ち上がった。
──もう一度!

2008年最後の学習通信=c…。