学習通信081027
◎「半端ねえ。まじ、半端ねえよな……」
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辺見庸
水の透視画法
SFとしての「蟹工船」
半端ねえ*セ日へ
会合で大学にいく途中、ラーメン屋でギョーザ定食(月曜特価二百三十円)を食べた。たまたま相席になった学生二人は、それにラーメンをつけたセットメニュー(同五百十円)をズルズルかきこんでいた。口にものをいれたまま一人がモグモグとぐちる。「なんか、うめーもん食いてえ……」。もう一人が「ぜいたくゆうな、超安いんだから。飯のことで文句を云(い)うものは、偉い人間になれぬ≠セってよ」。ぐちったほうが「う、う、やめろ。食ってるときにそれゆうな。気持ちわりい」。その時点ではなんの話かわからなかった。興味もなかった。若者たちはたちまちたいらげる。課題の本を読みおえたか、レポートをだしたか、たがいに問うている。あれこれ話してから、二人ともしきりに慨嘆した。「半端ねえ。まじ、半端ねえよな……」
なにが半端ではないというのだろうか。課題本の内容か。レポートのむずかしさか。世の中の急な暗転の不気味さか。聞き耳をたてた。話のはしばしからテキストが小林多喜二の『蟹工船』であることはわかった。声をひそめてかれらはいう。「あんな船、まじ、あったの?」「クソツボとかいっぱいでてきて、きったねえし」「現実感ないよな。けど、ひっかかるよな。おっかねえ……」「また、ああなるってこと?」「わっかんねえよ」──。テーブルをはなれぎわに一人がつぶやいた。「SFみたいだよな……」。なるほど。私は内心あいづちをうつ。
学生はかれの時代感覚から 『蟹工船』をサイエンス・フィクションのようだといったのである。私は、しかし、「暗黒の木曜日」がおきた一九二九(昭和四)年に発表された小説が、ふたたびの世界大恐慌前夜ともいわれるいま、大学のテキストとなり、理解のどあいはべつにして、若者たちに読まれているということが感にたえない。過去、現在、未来をふくみもつこうした時空間の全景こそ、まるで空想科学小説のようではないか。「飯のことで文句を云うものは、偉い人間になれぬ」だの「糞壷」だのという作中のことばや情景に、かれらは実感をもってはいない。でも、いまという時代が、見たこともない深くて暗いクレパスに墜ちつつあることには、うすうす感づいているようだ。
私は金色に光るキャンバスのイチョウの下をゆっくりとあるいていた。色のことをかんがえながら。多喜二といえば、なによリ「墨とべにがら」の色がうかぶ。「……墨とべにがらとをいっしょにまぜてねりつぶしたような、なんともいえないほどのものすごい色で一面染まっている」。多喜二の遺体を見た作家、江口渙の文である。みごとな直喩(ちょくゆ)に、学生だった私はこころを染められた。おびえふるえて、「墨とべにがら」ということばの混色を、まねたくても絶対にまねたことがない。一九三三年、特別高等警察による拷問で、逮捕即日になぶリ殺された多喜二のからだの内出血が、どれほどまでに凄惨であったか、「墨とべにがら」の混色はつたえている。「墨とべにがら」は以来、私にとって戦前、戦中のイメージ・カラーになった。これはSFではない。
多喜二の作品は権力を怒らせた。『蟹工船』も『一九二八年三月十五日』も。前者は不敬罪の対象とされ、後者は警察の拷問をえがいたことで憎しみをかった。そのために、からだを「墨とべにがら」色にされたのだ。若者のおおくはそれを知らない。やっかいだな、と思う。「墨とべにがら」はいまはない、とされている。多喜二らをつかまえた治安維持法もいまはないことになっている。現在のダーク・チェンジは経済分野であり、国家全体のそれではない、とみなされている。そうだろうか……とつおいつ思いをめぐらせて私はあるいた。「墨とべにがら」色はいま、ぼんやりと社会の底に沈潜しているだけではないか。またうかぶこともないではない。
「労働者が北オホツックの海で死ぬことなどは、丸ビルにいる重役には、どうでもいい事だった。資本主義がきまりきった所だけの利潤では行き詰まり、金利が下がって、金がダブついてくると……どんな事でもするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる」(『蟹工船』)。これをどう読むか。
『蟹工船』セールにのりだした側は、多喜二の思想を広めたいのではなかろう。売れるから売るのだ。資本と権力はとどのつまり「どんな事でもする」。かつてよリ半端ねえ≠フは、それではないか。
(「京都」20081025)
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馬橋の家には、すでに近親の人たちや斎藤次郎、乗富道夫、寺田行雄など小樽時代からの友人たちが待ちうけていた。遺体は、彼が地下生活にうつるまで書斎にしていた八畳の部屋へみんなで担ぎいれ、ひとまず、蒲団をしいて臥かせた。まもなく、宮本百合子、佐多稲子らがはせつけた。
「屍の上に」という文章のなかで、佐多稲子はつぎのように多喜二の母の姿をつたえている。
「おっ母さんが、ああッ\おおッ\とうなるような声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。中条はそれを手伝いながら、
『おっ母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね』
『ええ、大丈夫です』
おっ母さんは握りしめているハンカチで、涙を両頬へこするように拭いて、ははっ、おおっ、と声をあげた。
『心臓が悪いって、どこ心臓がわるい。うちの兄ちゃは、どこも心臓わるくねえです。心臓がわるければ泳げねえのに、うちの兄ちゃは子供の時から、よう泳いどったんです』
シャツの取りのぞかれた小林の胸の上にかがみ、蒼く静まったその胸を一杯に撫で廻した。
『はァ、どこゥ息つけんようになった。何も殺さないでもええことゥ。はてなんていう
ことをしたか、どこゥ息つけんようになった』
おっ母さんは小林の苦痛のあと、敵の迫害の跡を探すように力を入れて撫でた。
絶えず口を衝いて出るおっ母さんの悲憤は、また並居る我々の感情であった。が、おっ母さんの声は我々の胸をしめつけた。
おっ母さんは襟をかき合せてやり、今度は顔を撫で、髪の毛をかき上げて、その小林の顔を抱えて、
『それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか』
そう言って、自分の頬を小林の頬に押しつけてこすった。」
やがて、みんなに囲まれながら、安田博士の指揮のもとに死体の検査がはじまった。
江口渙の記録はつぎのように記している。
「物すごいほどに蒼ざめた顔は、烈しい苦痛の跡を印した筋肉の凹凸が嶮(けわ)しいので、到底平生の小林の表情ではない。頬がげっそりこけて眼が落ち込んでいる。左のコメカミには二銭銅貨大の打撲傷を中心に五六ヵ所も傷痕がある。それがみんな皮下出血を赤黒くにじませているのだ。
首には一まき、ぐるりと深い細引の痕がある。余程の力で絞められたらしく、くっきり深い溝になっている。そこにも無残な皮下出血が赤黒く細い線を引いている。左右の手首にも矢張り縄の跡が円く喰い込んで血がにじんでいる。
だが、こんなものは、体の他の部分に較べると大したことではなかった。更に、帯を解き、着物をひろげ、ズボンをぬがせた時、小林の最大最悪の死因を発見した私達は、思わず『わっ』と声を出して一せいに顔をそむけた。
毛糸の腹巻に半ば覆われた下腹部から左右の膝頭へかけて、下腹といわず、尻といわず、前も後も何処もかしこも、まるで墨とベニガラを一緒にまぜ塗り潰したような、何ともかともいえないほどの陰惨な色で一面に覆われている。その上、余程多量な内出血があると見えて、股の皮膚がぱっちり割れそうにふくらみ上っている。そしてその太さが普通の人間の太股の二倍もある、さらに赤黒い内出血は陰茎から睾丸におよび、この二つの物が異常な大きさにまでハレ上っていた。
よく見ると赤黒く膨れ上った股の上には左右とも、釘か錐かを打ち込んだらしい穴の跡が十五六以上もあって、そこだけは皮膚が破れて、下から肉がじかに顔を出している。その肉の色が、また、アテナインキそのままの青黒さで、他の赤黒い皮膚面からはっきり区別されているのである。
股からさらに脛を検べた。向う脛にもふかく削ったような傷の痕がいくつもある。それよりも、もっともっと陰惨な感じで私達の眼をしめつけたのは、右の人さし指の骨折だった。それは所謂完全骨折であって、人さし指を反対の方向へ曲げると、らくに手の甲の上へつくのであった。指が逆になるまで折られたのだ。この一事によっても、この拷問が、いかに残虐の限りをつくしたものであるかが想像された。
歯も上顎部の左の門歯が、ぐらぐらになって僅かについていた。さらに、着物をぬがせて体を俯向けにすると、背中も全面的な皮下出血だ。無論、ここには多少の死斑も混っていた。それでも股ほどにひどくないが、やはり蹴ったり撲ったりした傷の跡と皮下出血とで眼もあてられない。
『これまでやられては、むろん、腸も破れているでしょうし、膀胱だってどうなっているか解りませんよ。解剖したら腹の中は出血で一ぱいでしょう』
と、安田博士がいった」
作家同盟、プロット、美術家同盟などの友人や同志たちがしだいにつめかけていた。立野信之、壷井栄、本庄睦男、川口浩、山田清三郎、上野壮夫、鹿地亘、淀野隆三、岡本唐貴ら三十余人の人たちのなかにまじって、田口タキと妹のミツもはせつけていた。
十二時近くになって、貴司山治、原泉、千田是也、佐土哲二がデスマスクの用意をしてはせつけた。干田と佐土が、いそいで、デスマスクにとりかかった。岡本唐貴は死顔を油絵で描きはじめた。貴司山治や笹本寅のあっせんで、時事新報社のカメラマン前川が傷痕や遺体をいく枚かのカメラにおさめた。
(手塚英孝著「小林多喜二 下」新日本新書 p132-137)
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経済論壇から
東京大学教授 松井 彰彦
「蟹工船」の背景探る
視点の多重化重要
湿気と熱気が身体にまとわりつくような夏の朝。人を詰め込むために座席が折り畳まれ、化粧と汗の臭いでむせかえる満員電車に揺られながら、八十年のときを超えて現代に蘇った小林多喜二の小説『蟹工船』で船倉にすし詰めにされた労働者たちの光景がふと頭をよぎった。主流の立場で問題を論じることが常の社会や論壇は、かれらのような流れから取り残された人々の視点を意図的にではないにせよ、限りなく無視し続けてきたのではないか……と。
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先日の秋葉原の無差別殺傷事件では、容疑者が派遣労働者で世の中を恨む言葉をブログなどに残していたことから、格差社会が生み出した問題だと大きく騒がれた。
金沢大学教授の仲正昌樹氏 (諸君9月号)は、事件の原因が格差問題にあると考えるのが、あたかも知識人の良心であるかのごとく決めつけるのは、安易にすぎると述べるが、東京大学教授の姜尚中氏(日経WOMAN8月号)が指摘するように、容疑者が示していた勝ち組への強い怨念に半ば共感のような心情を抱く若者が増えてきているのは間違いないようだ。
参考になるのがフリーライターの赤木智弘氏(ロスジェネ創刊号)の意見である。「フリーターとして上昇カーブを描けない」時に、それを何とかして変えようとするなら「暴力的な手段が付随してくるのは当たり前のこと」だという。同氏は、そもそも人を踏みつけにしておいて、今度は逆に踏みつけられた側から反撃をくらうことを考えていないとすれば、あまりに考えが甘いと述べている。
それに対し、2ちゃんねる管理人の西村博之氏(m9VOL2)は、「ダメな人ってのは、何かしら重大な欠点を抱えてるんだよ」と指摘。本当に社会を変革したいのであれば社会に属しながら、「『ここはおかしいから変えよう、変えてくれ』って言わないと説得力がないじゃん」と述べ、不満を格差社会のせいにし、怒りだけをぶつけようとする若者の姿勢を甘え以外の何ものでもないと切り捨てる。
ラブピースクラブ代表の北原みのり氏(世界8月号)によれば、秋葉原の事件で派遣問題の歪みが改めてクローズアッブされたが、見方を変えれば、女性がこれまで味わってきた侮しさを、若い男性たちが味わっているにすぎない。「女だから派遣」は無視されてきた問題なのに、「『男なのに派遣』だからこそ大問題になる」という構造そのものが問われるべきだという指摘を私たちは真剣に受け止めねばならないだろう。
高齢社会をよくする女性の会理事長の樋口恵子氏(福祉労働夏号)は、「女だから派遣」どころか、介護の分野では、女たち・嫁たちが無視され無料で孤独な仕事を押し付けられてきた点を問題視するとともに、ようやく社会化されてきた介護労働の担い手が「社会の『嫁』化していく危険」を指摘し、早急な対策を訴えている。
大事なのは、同じ事件や現象を見ても立場や視点によってその解釈が大きく異なってくるという事実である。もっとも、そもそも社会的な視点自体に欠ける人が増えていることを懸念する声もある。
大阪大学学長の鷲田清一氏 (論座9月号)は、秋葉原の暴力的犯行そのものだけではなく、犯行現場で血を流している人を助けようともせず、何の煩悶(はんもん)もなく、携帯電話で写真を撮ろうと群がっている人たちに「耐え難い気分」になったと述べ、人々から当事者意識が薄れてきていることを危惧する。
同氏は当事者意識の希薄化が公平無私な第三者の視点につながるという、現状肯定的な解釈はまったくの幻想であり、偏った見方を避けるためには、「現場の中(二人称)と現場の外(三人称)のあいだを行き来し、自分の視点を多重化する作業」が必要であると訴えている。
作家の柳田邦男氏(現代9月号)も二人称と三人称の間を行き来する三・五人称の視点の大切さを説いている。同氏は少年による殺人事件を例に、相談を受けた警察官や学校長が被害者の視点で状況を見ようとしたならば事件は起こらなかったであろうと指摘。三・五人称の視点を持てなかった警察官や学校長らに対して憤りを隠さない。
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そうしたなか、社会科学の分野で一人称、二人称の視点を分析の出発点とし、それを積み上げることで三人称的な結論を導き出すゲーム理論が改めて注目を集めている。東京大学教授の松島斉氏(現代思想8月号)が述べるように、ゲーム理論の出発点は「相手の立場で考える」ことにほかならないからである。
逆に、その出発点を崩すこともゲーム理論の視野に入ってきた。蟹工船の監督が労働者の立場を無視したように、経済社会の主流にいる人々は、そこからはみ出した人々の立場を無視しがちである。ゲーム理論は、そのような状況下で、相手に対する謬見(びょうけん)や偏見が生まれるブロセスにもメスを入れつつある。
私たちは、自分の境遇や生い立ちに縛られたまま、ものを見る囚人である。そのような囚人が自分の視点でものを見ようとすれば、独りよがりになるし、それが嫌で自分の視点を放棄してしまえば、問題意識すら持てない人間になってしまいかねない。
それでもなお、いや、それだからこそ、様々な声に耳を傾け、相手の立場で考える努力を怠ってはならない。そして、それを通して囚われ人なりのものの見方を鍛えていかなくてはならないのである。
蟹工船を護衛していた駆逐艦の将兵は、待遇改善を求めた労働者に銃口を向け、首謀者を連行してしまう。国家が一部の既得権者の手先となっているのではないかという不信感が『蟹工船』ブームの根底にあるとしたら、私たちにとって必要なことは、流れに取り残された人々の声ろ汲みあげる努力を続けていくことではないか。
(「日経」20080831)
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土井大助
小林多喜二と手塚英孝
新装版「小林多喜二」刊行を喜ぶ
弾圧と戦禍の無二の盟友
戦後の全集編さんが今に生きる
小林多喜二虐殺の直後、彼より三歳若くなお地下活動中の手塚英孝が「一労働者」名で、『大衆の友』多喜二記念号外(一九百三三・三・一〇)に寄せた「同志小林多喜二を憶う」はこう書き出されている。
「同志小林は、実に断乎とした僥むことを知らぬ、溢るるばかりの戦闘的熱意とを持った真にボルシェビーキー典型だった。/私が彼に初めて会ったのは一年許り前である。実を云うと私はこの勝れた人物を想像して何か堂々とした紳士(?)を思い浮べていたのであるが、会ってみると彼は丸切り予想とは違った小男だった。私は初めは人違いではないかと思ったが、直ぐその事を話して大笑いをした。」
当時二十六歳の手塚さんは、三一年四月『ナップ』に処女作「蚤」を発表してプロレタリア文学運動に参加、多喜二最晩年の懸命の活動をともにしていた。この追悼文は、「同志小林は既に居らぬ。併し彼の偉業、彼の流した血は、幾千万の労働者、農民の血潮となり、プロレタリアの旗になるであろう。」と結ばれている。
禁書・資料散逸
困難のなか献身
戦中、多喜二の文学はすべて禁書。資料も散逸を免れず、関係物故者もあいついだ。手塚さんが「小林多喜二の編纂に専心することになった」のは、敗戦翌年の八月ころ、宮本百合子に全集の仕事をうけもつようにいわれてからだ、という。「小林多喜二は、ふかく心にきざまれている私には師友のようななつかしい間柄だった。長年の弾圧と戦禍の直後ではあったし、容易なことではないとは思ったが、数年間、私はこの仕事に心身をうちこもうと決心した。そのときには、その後半生の仕事になろうとは思いもしなかった」(「二のお母さん」)。こうして、各地を回っての資料収集・整理・照合から編集・刊行まで、実務とその指導に手塚さんは献身し、多喜二全著作の復元を果たした。加えて綿密な評伝「小林多喜二」の執筆。手塚英孝なしに、今日の「蟹工船」ブームはありえなかっただろう。
新資料の発見、新事実の発掘があれば、その確認と伝記の改訂も喜んで重ねた。作品でも、「蟹工船」の原稿(全編十章中四章まで)発見のとき、たまたまぼくは赤旗文化部記者として、それが全集刊行委員会の壺井繁治宅に届けられるときき、提供者に取材した。原稿の筆跡鑑定は、数多いノート稿まで幾度も通読してきた手塚さんの確認によった。結果多真二直筆と確認され、定本全集のその巻は原稿通り改訂のうえ刊行されたのである。
評伝でも「党生活者」のモデルエ場名、奈良の志賀直哉訪問の時期、「オルグ」執筆の温泉宿の地名など、新日本新書版中で誤記とされた部分はその都度厳密に補訂された。
学習と社会活動
「ぼくの北極星」
「『定本・小林多喜二全集』発刊にあたって」、手塚さんはこう書いた。「弾圧と、戦争による荒廃の二重の困難をうけながら、戦後、全集編纂の事業がうけつがれた。資料集成の仕事をつうじて、なによりもつよく感銘をうけたことは、小林多喜二の業績にたいする日本人民の支持と共感がいかに深く、根づよいものであるかということであった」と。そういう気運の後押しがあったからこそ、数年どころか八一年未急逝されるまでの三十数年、多喜二全集編纂と評伝「小林多喜二」執筆・補訂に精魂を傾けられたのである。
珠玉の短編を遺しつつ寡作の人と借しまれた手塚英孝は、無二の盟友の評伝を、生き残ったわが仕事として引き受け、文学史上稀有の伝記文学を成立させた作家である。とりわけ、巻末の「回想」は一編の実話小説とも読める。そこには当時の青年革命家たちの不屈な奮闘ぶり、元気で陽気に互いを愛称で呼びあう若々しい人間関係が活写されている。
遅まきでなお初歩的なぼくの多喜二研究は、手塚さんから直接頂戴した新書判『小林多喜二(上下)』に徹頭徹尾依拠しつつ今日に至った。その本はぼろぼろに傷んでいるが、手放せない。評伝『小林多喜二』は、ぼくの多喜二学習と社会活動の「北極星」である。その新装版の刊行は嬉しい限りである。
(どい・だいすけ 詩人)
(「赤旗」20080923)
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◎「ぼくの多喜二学習と社会活動の「北極星」である」と。