学習通信081007
◎労働者大衆の意識は真に階級的な意識ではありえない……

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京都労働者学習協議会会則

第2条(目的)
 本会は、広範な労働者と人民大衆の階級的自覚の形成と発展、その理論的思想的水準の向上に寄与するために、科学的社会主義の立場に立って、哲学・経済学・労働運動をはじめ、人民運動についての基礎的理論、内外の政治・経済情勢の特徴などを教育普及することを目的とします。

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 マルトィノフは、『イスクラ』に反対して「労働者大衆の積極性を高める」彼の「理論」を提出することによって実際には、この積極性を低めようという志向をあからさまにしたのであった。

というのは、彼が、このような積極性を呼びさます手段、またこの積極性を発揮する場面として望ましく、とくに重要で、「最も広範に適用しうる」ものと宣言したのは、「経済主義者」の全部がやはりその前にはいつくばっているあの経済闘争だからである。この謬見は、けっしてひとりマルトィノフに特有のものでないからこそ、特徴的なのである。

実際には、「労働者大衆の積極性を高める」ことは、われわれが「経済を基盤とする政治的扇動」にとどまらない場合に、はじめてなしとげられることである。

だが、政治的扇動の必要な拡大がなされるための基本的条件の一つは、全面的な政治的暴露を組織することである。

このような暴露による以外には、大衆の政治的意識と革命的積極性とをそだてることはできない。

だから、この種の活動は、国際社会民主主義全体の最も重要な機能の一つとなっている。

というのは、政治的自由が得られてさえ、こういう暴露が必要でなくなるわけではけっしてなく、ただその暴露のむけられる範囲がいくらか移り変わるだけだからである。

たとえば、ドイツの党がその地位をとくに強め、その影響を拡大しつつあるのは、ほかでもなく、党がその政治的暴露カンパニアの精力を弱めなかったおかげである。

もし労働者が、専横と抑圧、暴力と濫用行為のありとあらゆる事例──この事例がどの階級に関係するものであれ──に反応する習慣を、しかも、ほかのどれかの見地からではなく、まさに社会民主主義的な見地から反応する習慣を身につけていないなら、労働者階級の意識は真に政治的な意識ではありえない。

もし労働者が、具体的な、しかもぜひとも焦眉の(切実な)政治的事実や事件にもとづいて、他のそれぞれの社会階級の知的・精神的・政治的生活のいっさいの現われを観察することを学びとらないなら、──また住民のすべての階級、層、集団の活動と生活のすべての側面の唯物論的分析と唯物論的評価を、実地に適用することを学びとらないなら、労働者大衆の意識は真に階級的な意識ではありえない。

労働者階級の注意や観察力や意識をもっぱら、でないまでも主として、この階級自身にむけさせるような人は、社会民主主義者ではない。

なぜなら、労働者階級の自己認識は、現代社会のすべての階級の相互関係についての、完全に明瞭な理解──たんに理論的な理解だけでなく、さらに……理論的な理解よりもむしろ、と言うほうが正しくさえある……政治生活の経験にもとづいてつくりだされた理解──と、不可分に結びついているからである。

だからこそ、経済闘争は大衆を政治運動に引きいれるために最も広範に適用しうる手段である、というわが「経済主義者たち」の説教は、その実践的意義からすればじつにはなはだしく有害であり、またじつにはなはだしく反動的なのである。

社会民主主義者となるためには、労働者は、地主や坊主、高官や農民、学生や浮浪者の経済的本性と社会的・政治的特性を明瞭に理解し、彼らの強味と弱点とを知り、それぞれの階級やそれぞれの層が自分の利己的な意向やほんとうの「はら」をつつみかくすのに用いている慣用文句やありとあらゆる脆弁を見きわめることができ、どういう制度や法律があれこれの利害を反映しているか、しかもまさにどのように反映しているか女見きわめることができなければならない。

ところで、こういう「明瞭な理解」は、どんな本からも借りてくることはできない。

そのような理解は、現在われわれのまわりにおきていること、だれもかれもが思いおもいに語ったり、少なくともささやきあっていること、あれこれの事件、あれこれの数宇、あれこれの裁判の判決、等々に現われていることを、生きいきと描写し、すぐその場で暴露することによってのみ、あたえることができるのである。

こうした全面的な政治的暴露こそ、大衆の革命的積極性をそだてるのに必要な基本的条件である。
(レーニン「何をなすべきか」レーニン一〇巻選書A 大月書店 p71-72)

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◎「全面的な政治的暴露こそ、大衆の革命的積極性をそだてるのに必要な基本的条件である」と。