学習通信080926
◎自分自身に「貧困証明書」……

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 目的にかなったものであるかぎり、あらゆる闘争手段、あらゆる計画と方法を原則上認めるということと、かりにも戦術を論じようと思えば、ある一つの政治的時期には、一貫して実行される一つの計画にしたがって行動する必要があるということとを、混同するのは、あらゆる治療法が医学上認められているということと、ある一つの病気を治療するときには一つの特定の方法を守る必要があるということとを、混同するのにまったくひとしい。

しかし問題は、『ラボーチェエ・デーロ』が、自然発生性への拝脆とわれわれが名づけた病気に自分でかかっていながら、この病気にたいするどういう「治療法」も認めようとしないことにある。

そこで同誌は、「計画としての戦術ということはマルクス主義の基本精神とあいいれない」とか、戦術とは、「党とともに成長する党任務の成長の過程」であるとかいう、注目すべき発見をすることになったのである、このあとのほうの格言は、名だかい格言となり、『ラボーチェエ・デーロ』の「潮流」の不朽の記念碑となる見込みが十分にある。

「どこへゆくべきか? 」という質問にたいして、指導的機関誌がこう答えるのだ。「運動とは、運動の起点と次の点とのあいだの距離の変化の過程である」と。しかし、この深遠無比な迷論は、珍妙なものというだけでなく(もしそれだけだったら、わざわざ立ちいって論じるまでもなかったであろう)、一潮流全体の綱領なのである。

それは、エル・エムが、おこないうる闘争こそ望ましく、そして現在の瞬間におこなわれている闘争こそおこないうる闘争である、ということばで表現した、まさにあの綱領である。これこそ、まさに、自然発生性に受動的に順応する、底なしの日和見主義の潮流である。

 「計画としての戦術ということはマルクス主義の基本精神とあいいれない!」と。

だが、これは、マルクス主義にたいする中傷であり、かつてナロードニキがわれわれとのたたかいにあたって描いてみせた、まさにあの戯画に、マルクス主義を変えてしまうものである。

これは、まさしく意識的活動家の創意と精力を低めるものである。

だが、マルクス主義は、それとは反対に、社会民主主義者の前に最も広大な見とおしをひらき、「自然発生的に」闘争に立ちあがってくる労働者階級の幾百万、幾千万人の強大な軍勢を彼の自由な駆使にゆだねる(もしこう言ってよければ)ことによって、社会民主主義者の創意と精力に巨大な刺激をあたえるのである! 国際社会民主主義の全歴史は、あるときは甲の、あるときは乙の政治的指導者によって提出された計画でみたされており、ある人々の政治上、組織上の見解の先見の明と正しさを実証し、他の人々の短見と政治的誤りをあからさまに示している。

ドイツが最大の歴史的急転換の一つ──帝国の成立、国会の開設、普通選挙権の付与──に臨んだとき、社会民主党の政策と活動一般とについての一つの計画をりープクネヒトがもち、別の計画をシュヴァイツァーがもっていた。

ドイツの社会主義者の頭上に例外法がおそいかかったとき、モストとハッセルマンに一つの計画があり、彼らはいきなり暴力とテロルに呼びかけることを辞さなかった。

またヘヒベルク、シュフム、そして(部分的に)ベルンシュタインに別の計画があり、彼らは、社会民主主義者にむかって、君たちが無分別にも激越で革命的だったためにこの法律の発布をまねいたのだ、だがらこんどは模範的な行状によってお許しをあがなわなければならない、と説きはじめた。さらに、非合法機関紙の発行を準備し、実現しようとしていた人々に第三の計画があった。

すすむべき道の選択の間題をめぐる闘争が終りをつげ、また選んだ道が適当であったかどうかについて、歴史がその最後の判定をくだしてから多くの年月がたったあとで、診をかえりみ、党とともに成長する党任務の成長という格言によって自分の深遠さを示すのは、もちろん、むずかしいことではない。

しかし、ロシアの「批判家」や「経済主義者」が、社会民主主義を組合主義に低めており、またテロリストが、古い誤りを繰りかえす「計画としての戦術」を採用するように、熱心に説いている混乱の時期に、このような深遠な迷論でことをすませるのは、自分自身に「貧困証明書」を発行するというものである。

ロシアの多くの社会民主主義者が、ほかならぬ創意と精力に不足し、「政治的宣伝、扇動、組織の規模」に不足し、革命的活動をいっそう広範に組織するための「計画」に不足している時期に、「計画としての戦術ということはマルクス主義の基本精神とあいいれない」などと語るのは、理論的にマルクス主義を卑俗化するだけでなく、さらに実践的に党をうしろへ引きもどすというものである。
(レーニン「なにをなすべきか」レーニン一〇巻選集A p51-53)

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あるスローガンの理解について戸木田嘉久

 統一労組懇がかかげているスローガンに、「軍事費を削り、暮らしと福祉・教育の充実を」というのがあります。さいきんは、このスローガンのもつ深い意味について、あらためて考えさせられています。

 それは、このスローガンを予算組みかえの数合せとして、いわば経済主義的に理解するのでは不十分だ、ということです。たとえば、そこに提起されている闘争課題の連鎖は、つぎのようなことになりはしないでしょうか。

 第一に、「軍事費を削り、暮らしと福祉・教育の充実を」というとき、暮らしと福祉と教育など、それぞれの分野における臨調攻撃にたいして、これらを反撃してたたがう必要があります。しかし、他方、この反撃を成果あらしめるためには、「軍事費を削り」とらねばなりません。「西側の一員」として、日本の政府・独占がアメリカの核戦略にますます深く組みこまれてきているとき、私たちは、どういう階級的力関係のもとで「軍事費を削り」とることができるでしょうか。

 この点では、国の内外にわたり壮大な反核統一戦線の流れをつくり出すという、独自の課題での主体的な力の結集がもとめられるでしょう。つまり、臨調「行革」を反撃せんとする国民生活擁護闘争と反核統一戦線をめざす反核・平和の連帯行動を結合することが、戦術上の重要な今日的課題となるでしょう。

 第二に、かかる国民生活擁護と反核・平和、この二つの課題の目的意識的な結合は、経済民主主義の道にもつながるものです。それは、資本主義諸国における経済の民主的改革や、社会主義諸国における均衡のとれた経済建設の土台を固め、発展途上国における飢餓と貧困、累積債務問題の解決、さらには「新国際経済秩序」の形成にも道をひらくことになるでしょう。

 第三に、反核・平和という人類史的な課題での、国の内外にわたる連帯行動の発展は、労働戦線の右傾化、とりわけ民間大企業における協調主義的労働組合の横暴、職場における自由と民主主義の抑圧など、先進的活動家が現在の「閉塞」状況を打破してゆくうえでも、有効な条件をうみだすものと思われます。

 いずれにせよ、「軍事費を削り、暮らしと福祉・教育の充実を」というスローガンは、すばらしい歴史的な名スローガンではないでしょうか。
(「プロレタリアートへのメッセージ184」1986年 労働旬報社 p236-237)

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分裂とのたたかい

 正副委員長の不当解雇から丸四年、組合の分裂から丸三年余。今なお敢然とたたかいつづけている日本信託銀行労組(東京都中央区日本橋通り三の二)は、不当解雇撤回闘争においても、また統一を拡大するたたかいにおいても、地道に着々と勝利への展望をきりひらいている。しかも、そのたたかいは、明らかに反撃の体制に入っているといえる。

「昇格」という名の首切り・日本信託

 ──日本信託にあらわれた不当解雇は、現役の正副委員長にたいして、「偉くなって非組合員になれ、それがいやならクビだ」という銀行側の脅しから端を発している。つまり、昇格という名の解雇なのである。

 労働組合や組合員には、手きびしい弾圧を加えながら、一方では正副委員長を昇格させて組合から引きづり落し、組織攻撃の尖兵に仕立て上げようとする銀行側の企図──その狙うところは、真剣に組織防衛を考え、たたかっている労働者には、十分過ぎるほどよく見逃せた。

 しかし、組合活動では、まだ若いサラリーマン組合であった。執拗に正副委員長の昇格=非組合員化を強要する銀行側の圧力と、言葉巧みな泣き落し戦術によって、職場は動揺をはじめた。

 「一〇年も組合のために誠心誠意をつくしてきた正副委員長だ。この際、気持よく拍手で組合から送り出し、偉くなってもらおうではないか」

 「妻も子もある二人に、もし首切りでもでたら大変だ。組合が最大の危機に立たされている現在、二人が組織に必要なことは理解できる。しかし、首を覚悟してまで二人に無理をさせては……」

 すかさず、銀行側は組合員の動揺につけこんだ。「もし組合員諸君に血があり、涙があるなら、二人の人生を決定づけるこの重大な時期に、勇をふるって二人を組合から送り出すべきではないか」。そして、追い打ちをかけるように一九六一年六月一二日──非組合員にされる昇格を拒否していた二人に「解雇」を強行したのだった。

 「せいぜい三ヵ月の短期決戦だ」──銀行側は、そう豪語した。

 若い労働組合にとって、正副委員長の「解雇」は決定的なショックであった。それに拍車をかけるように、銀行側は悪質な分裂主義者を使って祖合費不払いの攻撃をはじめたのである。

 「勇気をもって組合費不払い運動を起こし、正副委員長を追い出し、組織を混乱におとし入れ、執行部の反省を求める」──彼らは、職制を使い組合費不払い≠組合員につぎつぎ強要した。祖合費不払い者は日を追ってふえ、四ヵ月後には組合員一二〇〇名のうち四五〇名を数えるまでになった。

 分裂主義者は、第二組合を結成する前日まで、「第二組合をつくる考えは毛頭ない。われわれは組合費不払いによって執行部の反省をうながすのみだ」と組合員をだましつづけた。そして一一月六日。銀行側の至上命令を拝した分裂主義者は、四五〇名の組合費不払い者をペテンにかけ、第二組合をつくったのである。

 解雇通告から五ヵ月。組合は、動揺を包みかくそうともしない多数の組合員をかかえて、必死の解雇反対闘争と組織防衛闘争をたたかいつづけてきた。しかし、分裂という事態を目前にした重大な時期に、組合は幾つかの決定的ともいえる誤りを犯した。

 それは、分裂主義者たちのどす黒い野望を、妥協によってなんとか企業内労働組合の統一を維持しようという考え方となってあらわれた。しかし、執行部が分裂主義者との妥協によって、企業内組合の統一を求めれば求めるほど、それとは逆に統一は後を向いて走り出していた。原則からずり落ちた日和見と動揺は、銀行側と分裂主義者をますます勇気づけ、味方の混迷と意気喪失を再生産していくばかりだった。

 第二の誤りは、職場に断固とした闘争体制をつくり、そのたたかいを火だねとして、産業別共闘と地域共闘への炎に転化するという運動の原則をはき違えた点にある。

 弾圧をうけた労働組合が、与えられた情勢を十分にみきわめ、味方の総力を結集した闘争を組織することなしに、広範な産業別支援共闘や地域支援共闘で敵を包囲するといっても、それは犬の遠吠えか、ハリコの虎でしかなかった。銀行側は、組合のこの弱点をとらえ、猛烈に追い打ちをかけた。

 第三の誤りは、つぎつぎに崩れ落ちる仲間たちに追いすがり、「俺たちを見捨てて、きみたちは第二組合へ行こうというのか」とおどかしたり、「たたかいたくなければにもしなくてよい。ただ第一組合に残ってくれ」という夜を徹した説得工作の中味にあった。激しい分裂政策と弾圧の嵐の中であればあるほど、労働者の要求を組織し、職場に旗を高くかかげ、要求を踏みにじる分裂と弾圧の狂暴な攻撃を暴露してたたかうこと、が要求される。

そして、何よりも、このたたかいの先頭に立つ中核部隊にゆるがぬ確信を与え、その不動の団結を確立しなければならない緊急の任務があった。──この鉄則をはなれて、動揺する組合員を口先きだけで統一と団結の戦列におしとどめることは不可能であった。

 銀行側は第二組合を結成した翌日、第二組合に一人平均三五〇〇円の賃上げ要求と、年末一時金五〇〇〇円の増額要求を提出させた。そして、数日後には、かれらの要求のほぼ満額を受け入れ、賃上げは九月にさかのぼって支給すると発表した。

 年の瀬の生活に思い悩む組合員にとって、賃上げプラスー時金二万五〇〇〇円の臨時収入は、まさしく大きな魅力であった。しかし、この降って湧いたような臨時収入には、労働者の生命にとって致命的な猛毒がかまされていたのである。

 「金融労働組合との共闘には参加しない」「向う三ヵ年間の平和休戦協定」がそれであった。

 労働組合は、二万五〇〇〇円の臨時収入に飛びつこうとする組合員に対して、その危険性を訴えた。だが、多くの労働者はそれに耳をかそうとしなかった。銀行という金融の殿堂で、いつも下積みの生活と屈辱をなめさせられてきた用務員、守衛、運転手などの組合員たちも、懸命に抵抗しつづけてきた姿勢をたちまちにして崩し、第二組合に走った。残ったのは、用務員、運転手の組合員二名だけだった。

 だが、最後まで抵抗しつづけたこの祖合員も、その後銀行側の家庭訪問によって切りくずされてしまった。妻たちから泣くようにしてくどかれ、「二万五〇〇〇円」の臨時収入の前に屈したのだった。
(「東京争議団物語」1965年 労働旬報社 p79-83)

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◎「ある一つの政治的時期には、一貫して実行される一つの計画にしたがって行動する必要があるということ」と。