学習通信080911
◎進んだ人びとが遅れた人びとを引上げ……
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一つの組合の中にも階級意識の高い、組合運動に熱心な組合員と階級的自覚の低い、組合運動に消極的な組合員がいる。
労働組合が要求をかかげて闘争する場合、消極的な組合員が多ければ多いほど、闘争は低調になる。遅れた部分が前進する部分のおもしになるからである。
だからといって、遅れた部分をきりはなして、戦闘的な人びとだけで闘争するわけにはいかない。それでは団結がくずれ、先進的な人びとが孤立して弾圧されてしまう。進んだ人びとが遅れた人びとを引上げながら一致してたたかうよりほかに道はない。
要求を獲得した場合も、闘争に積極的だった人びとだけが利益を受けるのではなく、いちばん遅れた人びとも同じように利益を受ける。それが労働組合のありかたである。階級連帯のすがたである。
だからこそ、前にもふれたように組合員全体の利益のために、労働組合はその運営を徹底的に民主化して、遅れた組合員を組合活動に引入れ、行動をつうじて、また階級的な啓蒙と教育によって組合員の意識水準を高めなければならないのである。
(春日正一著「労働運動入門」新日本出版社 p77)
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──すなわち、およそ労働運動の自然発生性のまえに拝跪すること、およそ「意識的要素」の役割、社会民主党の役割を軽視することは、とりもなおさず−その軽視する人がそれを望むと望まないとにはまったくかかわりなく労働者にたいするブルジョア・イデオロギーの影響を強めることを意味する、ということである。
「イデオロギーの過大評価」や、意識的要素の役割の誇張、等々について論じる人々はみな、労働者が「自分の運命を指導者たちの手からもぎとり」さえすれば、純労働運動は独力で独自のイデオロギーをつくりあげることができるし、また現につくりあげつつある、と想像しているのである。
だが、これはひどいまちがいである。以上に述べたことの補足として、なおK・カウツキーがオーストリア社会民主党の新綱領草案について述べた、次の、きわめて正しくまた重要なことばを引用しよう。
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「わが修正主義的批判家たちの多くは、マルクスが、経済的発展と階級闘争とは社会主義的生産の条件をつくりだすだけでなく、さらにこの社会主義的生産が必然的だという意識をも直接につくりだす、と主張したかのように考えている。
そこで、これらの批判家たちは異議をとなえて言う。最高の資本主義的発展をとげた国であるイギリスは、どこよりもこのような意識に遠い、と。
新しい草案によると、こういうやり方で論駁された、いわゆる正統マルクス主義の見地なるものを、オーストリアの綱領の起草委員会もともにしているように、うけとられるおそれがある。
草案には次のように書かれている。『資本主義の発展がプロレタリアートを増大させればさせるほど、プロレタリアートはますます資本主義とたたかわざるをえなくなり、またたたかう能力を得る。プロレタリアートは』社会主義の可能性と必然性とを『意識するにいたる』うんぬん。
こういう文脈のうちにおかれると、社会主義的意識は、プロレタリア的階級闘争の必然的な、直接の結果であるかのようにみえる。
だが、これはまったくのまちがいである。
もちろん、学説としての社会主義は、プロレタリアートの階級闘争と同じく、今日の経済関係のうちに根ざしており、またそれと同じく、資本主義の生みだす大衆の貧困と悲惨にたいする闘争のうちから成立してくるけれども、社会主義と階級闘争は、並行して生まれるものであって、一方が他方から生まれるのではなく、またそれぞれ違った前提条件の、もとで生まれるのである。
近代の社会主義的意識は、深い科学的知識にもとづいてのみ生まれることができる。
じっさい、今日の経済科学は、たとえば今日の技術などとまったく同じように、社会主義的生産の一条件であるが、しかしプロレタリアートは、どんなにそれを望んだところで、そのどちらをもつくりだすことはできない。それらは、両方とも、今日の社会過程のうちから生まれてくる。
ところで、科学の担い手は、プロレタリアートではなく、ブルジョア・イソテリゲンツィアである。近代社会主義も、やはりこの層の個々の成員の頭脳に生まれ彼らによってまずはじめに知能のすぐれたプロレタリアに伝えられたのであって、ついでこれらのプロレタリアが、事情の許すところで、プロレタリアートの階級闘争のなかにそれをもちこむのである。
だから、社会主義的意識は、プロレタリアートの階級闘争のなかへ外部からもちこまれたあるものであって、この階級闘争のなかから自然発生的に生まれてきたものではない。
したがって、旧ハインフェルト綱領もまた、プロレタリアートのなかに自分たちの地位と自分たちの任務とについての意識をもちこむこと」(文字どおりには、「プロレタリアートを……意識でみたすこと」)「が社会民主党の任務であると、まったく正しく述べている。
もしこの意識が階級闘争のなかからひとりでに発生してくるものなら、そんな必要はないわけである。ところが、新しい草案は、この命題を旧綱領から受けついで、右に引用した命題にくっつけてしまった。だが、そのために思想の歩みはまったく断ちきられてしまった。……」
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労働者大衆自身が彼らの運動の過程それ自体のあいだに独自のイデオロギーをつくりだすことが考えられない以上(重要な注 学習通信作成者)問題はこうでしかありえない──ブルジョア・イデオロギーか、それとも社会主義的イデオロギーか、と。
そこには中間はない(なぜなら、人類はどんな「第三の」イデオロギーもつくりださなかったし、それにまた総じて階級矛盾によって分裂させられている社会に、階級外の、あるいは超階級的なイデオロギーなどは、けっしてありえないからである)。
だから、およそ社会主義的イデオロギーを軽視すること、およそそれから遠ざかることは、とりもなおさず、ブルジョア・イデオロギーを強めることを意味する。
自然発生性をうんぬんする人々がいる。しかし、労働運動の自然発生的な発展は、まさに運動をブルジョア・イデオロギーに従属させる方向にすすみ、ほかならぬ『クレード』の綱領にしたがってすすむのである。
なぜなら、自然発生的な労働運動とは組合主義であり、〔純組合主義〕であるが、組合主義とは、まさしくブルジョアジーによる労働者の思想的奴隷化を意味するからである。
だから、われわれの任務、すなわち社会民主党の任務は、自然発生性と闘争すること、ブルジョアジーの庇護のもとにはいろうとする組合主義のこの自然発生的な志向から労働運動をそらして、革命的社会民主党の庇護のもとに引きいれることである。
たとえ最も〔すぐれた理論に〕鼓舞されたイデオローグがどれほど努力しようとも、物質的諸要素と物質的環境との交互作用によって規定される道から労働運動をそらすことはできない、という『イスクラ』第一二号の「経済主義的な」手紙の筆者たちの文句は、だから、社会主義を放棄するのにまったくひとしい。
そして、もしこの筆者たちが自分の言っていることを最後まで、恐れることなく、徹底的に考えぬく能力をもっていたなら──およそ文筆活動や公共的活動の舞台に立つ者はすべて、そういうふうに自分の思想を考えぬかなければならないのだが──、彼らは「無用な手をからっぽな胸のうえに組み」、そうして……そうして、労働運動を「最小抵抗線にそって」、すなわちブルジョア的組合主義の線にそって引っぱってゆくストルーヴェやプロコポーヴィチ一派の諸氏なり、労働運動を坊主的=憲兵的「イデオロギー」の線にそって引っぱってゆくズバートフ一派の諸氏なりに、活動場面を明け渡すほかなかったはずである。
(注)
もちろん、これは、労働者がこのイデオロギーをつくりあげる仕事に参加しないということではない。ただ、彼らが参加する場合には、労働者としてではなく、社会主義の理論家として、つまりプルードンやヴァイトリングのような人として、参加するのである。
言いかえれば、彼らが、多少ともその時代の知識をもっていて、この知識を前進させることができるときにだけ、またそのかぎりでだけ、参加するのである。
だが、労働者がこういうことをもっと頻繁にやれるようにするには、労働者の意識水準を全体として高めるために極力骨をおる必要がある。
そのためには、労働者は、「労働者むきの文献」という人為的にせばめられた枠内に閉じこもらないで、ますます多く一般的な文献を摂取することを学ぶ必要がある。
「閉じこもる」というより、「閉じこめられる」といったほうが、むしろ正しいだろう。なぜなら、労働者自身は、インテリゲンツィアを対象として書かれたものでもなんでも読んでいるし、また読みたがっているのだが、ただ一部の(よくない)インテリだけが、「労働者のためには」工場内の事態を話してきかせ、とっくに人の知っていることを繰りかえして聞かせれば十分だ、と考えているのだからである。
(レーニン「なにをなすべきか」レーニン10巻選集A 大月書店 p41-44)
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◎「社会主義的イデオロギーを軽視すること、およそそれから遠ざかることは、とりもなおさず、ブルジョア・イデオロギーを強めることを意味する」と。