学習通信080910
◎ガリレイの貢献は直観説を破って……

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 唯物論や弁証法を学んでみると、「理論的に正しいとは思うが、日常の生活と結びつけて考えられない」、「日常生活は、いちいち唯物論や弁証法を意識しなくても不自由はないし、常識で用が足りる」などという意見はよく聞かれるところです。たしかに、私たちの日常生活はむずかしく哲学的に考えなくとも、常識で十分ですし、常識というのはなかなかのもので、けっして軽視できない大事なものだと思います。

▼健全な常識は唯物論と一致する

 常識というのはなかなかのもので大事なものだというのは、健全な常識は唯物論に一致するからです。だから、私たちが日常生活において、いちいち唯物論や弁証法を意識していなくても、健全な常識に従っていれば、まず用が足りるのは当然です。

 しかし、この常識というのはなになのか、まずこれを明確にしておかねばならないでしょう。

 第一に、いま「健全な常識」と書きましたように、常識がみな正しいわけではなく、健全な常識もあるが不健全な常識もある点を見ておく必要がありましょう。

 第二は、健全な常識が基本的には唯物論と一致するとしても、やはり常識には限界があり、一面的なところがある点を見ておかねばならないでしょう。

 不健全な常識というのは、世間では常識だと思われているけれど、よく考えてみるとおかしいところのある常識です。

 たとえば「勤勉に働くのはよいことだ」というのは、あたりまえで、常識だと思われますが、日本の現実をよく考えてみると、日本の労働者は働かされすぎて、「過労死」さえ起きるようになっており、欧米諸国とくらべてみても、「勤勉はよいことだ」と単純にいっていいかどうか疑問のあるところです。つまり、これは健全な常識とはもはやいえないということだろうと思われます。

 あるいは「家事や育児は妻の役目だ」というのは、これまで常識とされ、いまも一部の人びとにとって常識となっているようですが、よく考えてみるとこれも健全な常識とはいえないものです。家事や育児が妻の責任というのは古い考えであり、女性も個性を生かし社会的に働くことのなかに生きがいを見い出す権利をもっていて、家事や育児が夫と妻の共同の責任だというのが、今日の健全な常識でありましょう。

 このように、一口に常識といってもいろいろのものがあり、私たちはそのなかで健全な常識をもつべきでしょう。不健全な常識の例を述べましたが、それでは健全な常識とはなにかをもう少し明確にしておきましよう。以上の例からも推測できると思いますが、健全な常識とは事実や現実にもとづいた考え方であり、またものごとの全体・全側面を視野にいれた考え方です。つまり、自分の独りよがりの考えではなく、現実をよく観察し、事実を出発点にした考え方です。

 このようにいうと気付いてもらえると思いますが、この意味での健全な常識は唯物論的な考え方に極めて近いといえましょう。健全な常識は、究極において唯物論と一致するのです。ですから健全な常識があれば、日常生活においてとくに唯物論とか弁証法とか意識しなくても十分に用が足りるのは当然です。「日常の生活が唯物論や弁証法と結びつかない」という声も出てくるわけです。

▼常識の狭さ

 このように常識というのは、日常生活ではなかなか役に立ちますが、人生のあらゆる場面で常識で用を済ますことができるかというと、おおいに疑問です。常識には避けがたい狭さがあります。

 平凡な日常生活が変化して、転機に直面したような場面、あるいは私たちが疑問にぶつかり一歩深く考えようとするとき、常識の枠の狭さに気付かされることがあるのではないでしょうか。そんなことは、そうしばしばあるわけではありませんが、人生の曲がり角において何回かぶつかることはたしかです。

 たとえば、職場の労働強化のなかで、職業病や労働災害が多発し、友人が「過労死」ではないかと思われる死に方をしたときなど、自分はどうすべきかと深く考えざるをえないでしょう。「勤勉なのはよいことだ」という常識では、解決しない現実に気が付かないわけにはいきません。働きやすい働きがいのある職場をつくるにはどうしたらよいか、労働組合のあり方や、日本資本主義の現実を考えることになると思います。

 どれだけ深く考えられるかどうかは個人差があるとは思いますが、この場合、多かれ少なかれ常識を超えて、理論的に考える入口にさしかかっているといえるでしょう。常識を超えて、経済学や哲学や労働運動論を学ぶ必要が出てきているわけです。そのほか個人が就職や結婚や、病気や、肉親の死などに際して、ものごとを根本から考え直さねばならない場合も多々あると思われます。

▼常識を超えねばならないとき

 先にいくつかの例をあげましたが、健全な常識であっても、本来的な狭さがあり、これを乗りこえないと先が見えてこない場合が出てきます。そのとき、社会科学や哲学の学習とその学習の成果を積極的に生かす必要が出てきます。

 健全な常識でも、本来的な狭さがあるといいましたが、それはどういうことでしょうか。また健全な常識は、現実や事実から出発する考え方であり、唯物論とも一致するといいましたが、それでも狭さがあるというのはどういうことでしょうか。

 それは、現実とか事実とかいうものは、そもそもどういうものなのかということに関係しています。事実や現実というものは、まず私たちが見たり聞いたりした感覚的事実そのもののことですが、私たちの感覚(五感)は、ともすればものごとの表面的な現象にとどまりがちです。このような現象的な事実にもとづいてつくりあげられているのが常識です。したがって、常識は健全な常識であっても、浅い表面的な知識にとどまりがちです。

 たとえば、職場でおこる労働災害や職業病、さらには「過労死」などは、さしあたり本人の不注意や本人の働きすぎであり、本人の責任のように見えています。表面だけ見ていると、そのとおりです。

 しかし、私たちはそのような見方には納得できません。本人の不注意ということも、過密労働のなかで疲れきって不注意がおこるほどに労働強化があったのではないか、労働災害はたしかに本人の不注意もあるが、災害防止の施設を十分にしていない企業の金もうけ主義に真の原因があるのではないか、働きすぎも本人が好んで働きすぎたのではなく、働きすぎがおこるほどに労働強化・「合理化」をすすめてきた企業の側に問題があり、さらには、そのような企業間の競争を激化させている日本資本主義のあり方に問題があるのではないか、このように、いま日本の労働者は考えはじめているのではないでしょうか。

 これは、直接に表面的現象として見えている事実を突き抜けて、現象の背後に潜んでいる真の原因、ものごとの本質や実体を追求することにつながります。ものごとの真の原因や本質や実体が解明されてこそ現実が真に認識されたといえます。

 常識は、事実にもとづいているとしても、多くの場合、その事実は表面的な現象としての事実にとどまっています。本質まで含めて真の現実を見抜くには、常識を超えなければなりません。

 「弁証法や唯物論と日常の生活が結びつかない」と感じているのは、その人がまだ常識の範囲にとどまっているからです。普通の日常生活ではそれでいいわけです。しかし、人生の転機、あるいは激動の時代には常識では不十分な段階が必ずやってきます。そのとき弁証法や唯物論の学習が不可欠となるのだと思います。
(鰺坂真著「哲学のすすめ」学習の友社 p41-45)

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最初の手がかり

 自然という大きな謎物語を読もうとする企ては、人間の思想そのものと同じ程古くからありました。しかしその話の言葉が科学者にわかり始めたのは今から僅か三百年余り前のことに過ぎません。その時代、つまりガリレイやニュートンの時代から、この物語を読む仕事は急に進んで来ました。それ以来、調査の技術や手がかりを見出してこれを追及する系統的な方法が発達しました。自然界の謎は幾つか解かれました。もっともその解決も更に研究して見れば多くは一時的な表面的なものに過ぎぬこともわかりましたが──。

 余りに複雑であるので、数千年間全く説明のつかないでいた最も基礎的な問題は運動の問題であります。空中に投げられた石、海を走る船、道を通る車──私たちが自然界に見るすべてかかるものの運動は実は非常に錯雑しています。これらの現象を理解するためには出来るだけ簡単な例から始めて、次第に複雑な例に進むのが賢明な方法です。まず静止している物体を考えます。これには全然運動がありません。この物体の位置を変えるためには、押すとか、持ち上げるとか、あるいは馬なり蒸気機関なり、つまり他のものをこれに働かせるとか、とにかく何らかの作用を加えなければなりません。

私たちは直観的にその運動が、押すとか、持ち上げるとか、引くとかいう行為と関係があると考えます。更に、幾度も経験を繰り返せば、私たちは物体を速く動かすためには強く押さなくてはなるまいと言うようになるでしょう。物体に作用する力が強ければ強い程速さが増すと結論するに至るのは自然でしょう。四頭立の馬車は二頭立の馬車よりも速く走ります。こうして私たちは直観によって、速さは本質的に力に関係があると考えます。

 誤った手がかりが話の筋をもつれさせて解決を延ばしてしまうことは探偵小説の読者のよく知るところです。直観の命ずる推理法が誤っていて運動の間違った観念に導き、この観念が何世紀の間も行なわれたのです。このような直観が長く信じられていたおもな理由は恐らくアリストテレスの思想が全欧州に有力であったからでしょう。二千年間彼の著書と考えられて来た『力学』書の中に次のように書かれています。

運動体はこれを押す力がその働きを失った時に静止する。

 ガリレイが科学的論理を発見してこれを用いたということは思想史上の最も重要な大業の一つであって、これが真の意味における物理学の第一歩となっています。ガリレイの発見は直接の観察に基づく直観的結論は誤った手がかりに導くことがあるから、必ずしも信用が置けるものではないことを私たちに教えたのです。

 しかし直観はどこが悪いのでしょうか。四頭立の馬車が二頭立の馬車より速く走るというのが悪いのでしょうか。
 運動の基本的事実をもっと綿密に調べて見ましょう。まず激烈な生存競争から得られ、文明の初期から人類に熟知されて来ている日常経験から出発しましょう。

 誰かが平坦な道を手押車を押して行って、突然押すのを止めてしまうとします。車はある短い距離だけ運動を続けてから止まるでしょう。私たちはこう尋ねます。「この距離を増すのにはどうしたらよいでしょうか。」これにはいろいろな方法があります。例えば車に油をさしてもよいでしょうし、道を非常に滑らかにしてもよいでしょう。車の回転が容易な程、また道が滑らかなら滑らかな程、車は長く運動を続けるでしょう。だが一体油をさすとか滑らかにするとかいうことがどういう役目をしたのでしょうか。それはただ外部の影響を少なくしたというだけのことです。

摩擦と呼ばれる作用が車においても、車と道との間においても減らされたのです。これは現に、目に見える明瞭な事実の理論的説明ですが、この説朋は実はまだひとりよがりなものに過ぎません。ここでもう一歩正しく進めば正しい手がかりが得られるでしょう。道が完全に滑らかで車には全然摩擦がないと考えてごらんなさい。そうすれば何物も車を止めるものはなく、従ってそれは永久に走り続けるでしょう。この結論はただ理想化された実験を考えて始めて得られるのですが、外部的な影響を全然排除することは出来ませんから、そういう理想化された実験を現実に行なうことは決して出来るものではありません。しかし、真に運動の力学の基礎をなしている手がかりはこの理想化された実験が教えてくれるのです。

 問題に近づく二つの方法を比較すると、次の如く言われます。直感説では力が強ければ強いほど速度は大きいということになります。だから速度は外力が物体に働いているかいないかを示すのです。ガリレイの発見した新しい手がかりはこうです──もし物体が押されもせず、引かれもせず、何の作用も受けないなら、簡単に言えば、外力が全く加わらないなら、それは一様に運動する、すなわち常に等しい速さで一直線に沿って運動すると。だから、速度は外力が働いているかどうかを示すものではないのです。ガリレイのこの結論、それは正しい結論でありますが、更に後にニュートンによって慣性の法則(陰性の法則)として形式づけられました。これは通常学校の物理でまず覚え込まされるもので、多分記憶している方々もありましょう。

すべて物体はこれに加えられる力によってその状態を変えられぬ限りは、静止または一様の直線運動を続ける。

 この慣性の法則は実験から直接に導かれるものではなく、ただ、観察と矛盾しない純粋の思索によってのみ得られることは既に見た通りです。つまり理想化された実験が現実の上の実験を、よく理解させることになるのですが、この理想化された実験そのものは決して現実に行なわれるものではないのです。

 周囲の世界のさまざまな込み入った運動の中からまず最初の例として等速度運動を選びます。ここでは外力が全く働いていませんから、これが最も簡単なのであります。しかしながら等速度運動というものは実際には決して起り得ません。外力の影響を全然なくすなどということは出来ませんから、塔から投げる石も、道を押して行く車も絶対に等速度で運動することは決してありません。

 うまく仕組んだ探偵小説には、どんな明らかな手がかりによっても見当はずれの疑いをかけることが間々あります。同様に私達が自然法則を理解しようとする場合にも明々白々な直観的説明が却って間違っていることが多いのです。

 思想の進展につれて人間はこの宇宙を絶えず変った姿に描き出します。ガリレイの貢献は直観説を破ってこれを新しいものに置きかえることでした。ここにガリレイの発見の意味があるのです。

 しかしながら運動に関しては更にその先きの問題がすぐに続いて起って来ます。速度が物体に働く外力を示さないとしたら、何がこれを示すのでしょうか。この根本的な問題に対する答は、ガリレイによって、そして更に明確にはニュートンによって発見されて、私たちの研究の一段と進んだ手がかりとなっています。

 正しい答を得るために、私たちは完全に滑らかな道にある車についてもう少し深く考えて見なければなりません。理想化された実験では運動が等速度なのは外力が全然加わらないのによるとされました。そこでこの等速度運動をしている車が運動の方向に押されたと想像して見ましょう。するとどうなるでしょうか。速度が更に増すのは明らかなことです。同様にもし運動と反対の方向にこれを押せば速度の減ることも明らかです。第一の場合には押すことによって加速され、第二の場合には減速されるのです。これからすぐに、外力の働きは速度を変えるという結論が生まれます。つまり速度そのものではなく、速度の変化が押したり引いたりすることの結果となるのです。外力はそれが運動の方向に加わるか、または反対の方向に加わるかによって、速度を増したりまたは減じたりするのです。

ガリレイははっきりとこれを見定めて、その著書『二つの新科学』の中にこう書いています。

 ……加速あるいは減速の外部的原因が除かれている限りでは、一度運動体に加えられた速度は厳密に保存されます。但し外部的原因が除かれるという条件は水平面の上でのみ実現されます。なぜなら面が下り坂であればそこに既に加速の原因があり、反対に上り坂であれば減速の働きがあるからです。このことから考えれば、水平面に沿う運動は永久的であります。なぜなら速度が一様である以上、それは減少せず、すなわち遅くならないし、まして止まってしまうことはあるはずがないからです。

 この正しい手がかりをたどって行けば、私たちは運動の問題を更に深く理解することができます。直観で考えるように力と速度そのものとの関係ではなく、力と、速度の変化との関係こそ、ニュートンの組織立てた古典力学の基礎なのです。

 以上の考察にあたっては、古典力学にあって主要な役割をなす二つの概念、すなわち力と速度の変化とを利用して来ましたが、科学の進歩にともなってこれらの概念も拡張され、一般化されるので、これらについてはもう一層綿密な検討が必要とされるのです。

 力とは何か。私たちには直観的にこの言葉の意味が感じられます。この概念は、押すとか、投げるとか、引くとかいう努力──何かこういう動作をする時に伴なう筋肉感──から起るのです。しかし力の概念はこんな簡単な例とは似ても似つかぬものにまでも押し拡められます。例えば、車を引いている馬を想像しなくても力について考えることができるのです。私たちは太陽と地球との間や、地球と月との間の引力について語ったり、また潮の干満を起すような力について話します。また地球が私たち人間やその周囲のすべてのものをその勢力範囲内に引き留めておく力について、それから風が海上に波をたてたり、木の葉を動かしたりする力について話したりします。私たちが速度の変化を見るなら、それがいつどこで起っても、必ず一般的な意味で、これは外力のせいであると考えなければなりません。

ニュートンはその著書『ブリンシピア』の中で書いています。

 物体に働く力というのは静止の状態または直線的な等速度運動の状態を変えるように物体の上に働く一つの作用である。この力はただ作用のみから成立していて、作用が終った時には既にその物体に残ってはいない。なぜなら物体はそれの得た新しい状態をことごとく保有するが、これはただそれの慣性によるのであるからである。作用力は種々の起原、例えば衝突からも、圧力からも、求心力からも起る。

 塔の頂から石を落すと、その運動は決して等速度ではありません。速度は石が落ちるにつれて増して来ます。そこで私達は、外力が運動の方向に働いていると結論します。言いかえれば、地球が石を引いているのです。もう一つ別の例を取って見ましょう。石を真上に投上げたらどうなるでしょうか。石が最高の点に達するまでは速度は次第に減じ、それから落ち始めます。速度がこのように減ずるのは落ちてくる物体の速度が増すのと同じ力によるのです。初めの場合には力が運動の方向に働き、後の場合には反対の方向に働くので、力は同じですが、石が落されるか、投上げられるかによって、速度を増したり減じたりするのです。
(アインシュタイン、インフェルト著「物理学はいかに創られたか」岩波新書 p6-14)

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◎「常識は、事実にもとづいているとしても、多くの場合、その事実は表面的な現象としての事実にとどまって……本質まで含めて真の現実を見抜くには、常識を超えなければ」と。