学習通信080902
◎文化の自律性……

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(4)生産。生産諸手段と生産諸関係。生産諸関係と交易諸関係。生産諸関係と交易諸関係とにたいする関係での国家諸形態と意識諸形態。法的諸関係。家族諸関係。

 ここで触れなければならない、そして忘れられてはならない諸点に関連した注意書き──

(1)平和よりも早くから発展している戦争。戦争によって、また軍隊などのなかで、賃労働、機械類などのようなある一定の経済的諸関係が、どのようにしてブルジョア社会の内部でよりももっと早くから発展したかのその仕方。生産力と交易諸関係との関係もまた、軍隊のなかではとくに明瞭である。

(2)現実的な歴史記述にたいする従来の観念的な歴史記述の関係とりわけ、いわゆる文化史におけるそれらの関係、すなわち、すべての宗教史と国家史。(この機会に、従来の歴史記述のさまざまな仕方について若干のことを述べることもできる。いわゆる客観的歴史記述。主観的歴史記述。(道徳的歴史記述など)哲学的歴史記述。)

(3)第二次的なものと第三次的なもの。一般に、派生的な、外来的な、本源的でない生産諸関係。この場合のさまざまな国際的諸関係の影響。

(4)これらの見解をもつ唯物論にたいするさまざまな非難。自然主義的唯物論との関係。

(5)生産力(生産手段)と生産関係という諸概念の弁証法。その限界が規定されなければならない、そして現実の区別を止揚しない一つの弁証法。

(6)物質的生産の発展の、たとえば芸術的発展にたいする不均等な関係。一般に進歩の概念は、普通の抽象のかたちで把握されるべきではない。芸術などについては、この不均衡を把握することは、実践社会の諸関係そのものの内部での不均衡を把握することほどには重要でなく、また困難でもない。たとえば、アメリカ合衆国の教養とヨーロッパの教養との関係。しかしここで説明しなければならない真に困難な点は、どのようにして生産諸関係は法的諸関係とくらべて不均等な発展をとげるのか、ということである。そこでたとえば、ローマ私法(刑法と公法ではさほどあてはまらない)の近代的生産にたいする関係。

(7)この見解は必然的展開として現われる。しかしそれは偶然の役割を認める。どのように認めるか。(とりわけ自由、その他の役割も認める。)(交通通信手段の影響。世界史はいつも存在したわけではない。世界史としての歴史は結果である。)

(8)出発点は当然に自然的規定性である。主体的、および客体的自然的規定性。種族、人種など。

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(1)芸術の場合によく知られていることであるが、芸術のしかるべき最盛期は、けっして社会の一般的発展と歩調が合っていないし、したがってまた、物質的基礎の発展、いわば社会の組織の骨組みの発展とも歩調が合わない。

たとえば近代人と比較して見たギリシア人、あるいはまたシェイクスピア。

芸術の一定の諸形式、たとえば叙事詩について、次のことさえ認められる。

すなわち、そのものとしての芸術制作が起きるようになるとすぐに、そうした形式は、世界史に時代を画するようなその典型的な姿では、けっして生産されえないということ、こうして芸術そのものの領域内部では、芸術のある一定の卓越した諸制作は、芸術的発展のある未発達な段階においてのみ可能であるということである。

もしもこのことが芸術そのものの領域内部で、さまざまな芸術分野の関係にあてはまることだとすれば、芸術の全領域が社会の一般的発展にたいしてもつ関係においてもそうだということは、いまではさほど奇異なことではない。

困難は、こうした諸矛盾の一般的把握にあるだけである諸矛盾がそれぞれ個々に明らかにされるならば、それはすでに解明されていることになる。

 たとえば、現代にたいするギリシア芸術の、さらにはシェイクスピアの関係を取りあげてみよう。

ギリシア神話がギリシア芸術の武器庫であっただけでなくその土壌でもあったことは、周知である。

ギリシア人の想像力の基礎をなし、したがってまたギリシア〔芸術〕の基礎をなしていた自然観や社会関係観は、自動精紡機や鉄道や機関車や電信とともに可能であろうか?

ウルカヌスはロバーツ商会と張り合って、ユピテルは避雷針と張り合って、ヘルメスはクレディ・モピリエと張り合って、生き残れる場所がどこにあるだろうか?

すべての神話は、想像のなかでまた想像によって、自然諸力に打ちかち、これを支配し、これをかたどるのであって、したがってそれらは、自然諸力を実際に支配するようになるにつれて消え失せる。ファーマはプリンティングハウス・スクウェアとならんではどうなるか?

ギリシア芸術はギリシア神話を前提とする。

すなわち、自然と社会的諸形態それ自身が、すでに民族的空想によって無意識に芸術的な仕方で加工されていることを前提とする。これがギリシア芸術の材料である。

どんな任意の神話でもよいというわけではない、すなわち自然(ここではそのなかにすべての対象的なもの、したがって社会も含まれる)を無意識のうちに芸術的に加工したものであれば、どんな任意のものでもよいのではない。

エジプト神話は、けっしてギリシア芸術の土壌や母胎になることはできなかった。

しかし、いずれにしても一つの神話ではあった。つまり、それは、あらゆる神話的な自然との関係、すなわち神話を生みだすようなあらゆる自然との関係を排除するような社会発展ではけっしてなかったし、したがって、芸術家には神話に頼らない想像力を期待するような社会発展ではなかったのである。

 これを別の面から言えば、火薬や弾丸を駆使するなどというアキレスが考えられるだろうか?

あるいは、およそ『イーリアス』が、印刷機や、まして高速印刷機械とともに考えられるだろうか?

歌謡や物語やミューズの神は、印刷器具の出現とともにいやおうなく消え去り、したがって叙事詩の必須の諸条件は消滅するのではなかろうか?

 しかしながら困難は、ギリシアの芸術や叙事詩が、社会のある発展諸形態と結びついているということを理解する点にあるのではない。困難は、それらがわれわれにいまなお芸術の楽しみを与え、またある点では規範として、および到達できない模範として、その意義をもっているということを理解する点にある。

 おとなは二度と子供になることはできず、できるとすれば子供じみた姿になるだけのことである。とはいえ子供の天真爛漫は、おとなを喜ばせはしないだろうか?

そしておとなが、自分たち自身でこんどはより高次の段階において子供のもつ素直さを再生産することに努力してはならないだろうか?

子供の性質には、いつの時代にもその時代独自の性格がその自然にあるがままの素直さでよみがえるのではないだろうか?

なぜに、人類のもっとも美しく花開いた歴史上の幼年時代が、二度と帰らぬ一段階として、永遠の魅力を発揮してはならないだろうか?

ぶしつけな子供もいれば、ませた子供もいる。古代諸民族の多くがこうした部類にはいる。そのうちでも正常な子供だったのがギリシア人であった。

われわれにとって彼らの芸術の魅力は、それが生まれ育った社会段階が未発達であったことと矛盾するものではない。

魅力は、むしろそのような社会段階の結果にあるのであって、魅力はむしろ、その芸術を生んだ、また唯一生みだすことのできた未熟な社会的諸条件が、ふたたびもどってくることはけっしてありえないということと、わかちがたく結びついている。
(マルクス著「経済学批判 序説」新日本出版社 p78-83)

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文化に対する公的
助成と表現の自由
映画「靖国YASUKUNI」をめぐって
阪口正二郎

 芸術文化活動には金がかかる。すぐれた芸術文化活動を振興することは今日国家の重要な役割の一つである。文化庁所管の独立行政法人日本芸術文化振興会がドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」に助成金を出したことの妥当性が一部の国会議員によって問題にされたことは記憶に新しい。

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 ここ数年、税金の無駄遣いや不当な使い方が問題にされることが多い。それは一般的には望ましいことである。芸術文化活動に公的助成がなされる場合も税金が用いられるのであるから、その使い道について監視する必要がある。

 しかし、ことは芸術文化にかかわる。すぐれた芸術文化は、社会の既存の価値観に挑戦する可能性を秘めているし、そこに芸術文化の価値もある。もしも国民の多数者にとって不快な内容の作品であるというだけで助成を行うべきでないということになれば、すぐれた芸術や文化の振興という目的は達成できない。国家にとって愉快な作品にしか助成しないのであれば、結果的にわれわれは国家による洗脳の対象とされる危険性もある。

 今回の助成金は「政治的な宣伝意図を有しないもの」を対象とするとしているが、これは純粋な政治的コマーシャルには援助しないことを意味すると限定して解釈すべきである。

 国家が不快な作品であるという理由でその作品の展示を規制すれば、これは表現の自由の侵害となる。しかし、表現の自由は、芸術家に助成金を受ける権利を付与するものではない。もし芸術家の側に公的助成を受ける権利があれば、国家にとって不快であるという理由で助成を拒否すればそれは表現の自由侵害と言える。しかし、芸術家の側に公的助成金を受ける権利は存在しない。

公的助成を与えるかどうかは国家の側の裁量の問題であって、芸術家の側の権利の問題ではない。国家は公的助成制度自体を設けないこともできるし、公的助成をするにしても、財源が限られている以上、たとえば今年は音楽に援助し、翌年は絵画に援助するという決定を国家はなすことができる。

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 しかし、だからといって国家の側の裁量は無制約なわけではない。たとえば、政府の政策を批判しないことを条件に公的助成をなすというのは明らかに不合理である。なぜなら、それはすぐれた芸術や文化活動を奨励するという公的助成制度の趣旨と無関係だからである。

 もちろん何がすぐれた芸術作品かについては人の意見は異なりうる。ある人から見てすぐれた芸術作品と見えるものは、別の人からみれば愚にもつかない作品かもしれない。芸術作品の評価は当該作品の内容や観点に基づく評価を伴わざるをえず、助成するかどうかの判断もそうした評価に基づかざるを得ない。しかし、そこに世論の評価をそのまま反映させるのは望ましくない。

 こうした場合、一つの筋道は判断を政治から切り難し、何がすぐれた芸術であるかの判断は専門家に委ねるようにすることである。文化の自律性を尊重するのが賢明な選択だと思われる。
(さかぐち・しょうじろう 一橋大学大学院法学研究科教授)
(「赤旗」20080901)

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◎「芸術の場合によく知られていることであるが、芸術のしかるべき最盛期は、けっして社会の一般的発展と歩調が合っていないし、したがってまた、物質的基礎の発展、いわば社会の組織の骨組みの発展とも歩調が合わない」と。