学習通信080901
◎プロレタリア運動の一法則
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エンゲルスからマルクス(在ロンドン)ヘ
マンチェスター、六九年七月三〇日
──以上略
なんとしても不面目なのは、イギリスにおけるほとんど四〇年間にわたる政治的な労働運動ののちに、存在する唯一の労働者新聞がS・モーリのような一ブルジョアによって買い取られうる、ということだ。だが、残念ながら、どこでも労働者の指導者たちの一部分が必然的に堕落するということは、プロレタリア運動の一法則であるように思われる、ということだ。
(マルクス・エンゲルス全集32巻 大月書店 p281)
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労働組合
労働組合は日経連の歴史を語る際には欠かせない存在であり、階級的パワーと操作を取り上げたなかですでにふれた。強圧的な階級的パワーの動員の対象となった組合の一部が産業別組織であったのに対して、自ら日経連の操作の対象になった組合組織の大半は企業別組織であった。
このような構図は、敗北を喫しながらも輝かしい闘争を続けてきた産業別組合こそ、労働者の利益の真の守護者であるという印象を与えるかもしれない。
また逆に、それは、日本の労働組合の協調的な姿勢が企業別に構成された組織構造に起因するという結論を導く根拠にされるかもしれない。
すでに述べたように、日経連は他の先進諸国の産業別組合と対比させながら企業別組合を肯定的に評価するなど、後者の見解を擁護してきた。その典型的な例が「欧米の産業別、職能別組合と異なり、企業別組合の場合は、労働組合幹部が自らの体験として職場の実態および企業の立場をよく知っている」という日経連の主張にある(1981「労働問題研究委員会報告」)。
日本は例外的に協調的な労働組合と並外れて従順な労働組合幹部に恵まれていると主張してきた日経連の努力にもかかわらず、資本主義体制と労働組合との協調は、日本的というよりは、むしろ一般的な現象であるといえる。そのような協調はさまざまなかたちで現れている。労働組合幹部が会社の役員になるという日本的な慣行は、イギリスではあまり見受けられないかもしれないが、閣僚として入閣したり、下院議員になったりすることは、決して珍しいことではない。
そうだとすると、問われるべき問題は、日本だけではなく、世界各地で行われている労働組合幹部のこのような行動をどのように説明するかである。
そのためには、第一に、労働組合の究極的な目標とはなにかを確認しなければならない。組合とは賃金や労働条件の維持、できればその向上のために、労働者によってつくられた闘争機関である。
多くの国々において結成当初の組合は、一九四五年から一九六〇年にいたる時期の日本の労働組合のように、戦闘的な性格を帯びたものであった。
しかし、組織の出発点やその構造にかかわりなく、労働組合は、組合員の利害を代表するという究極目標の実現のためにも、資本主義企業の代表者と交渉しなければならない。
賃金や労働条件をめぐる企業側と組合との交渉は、ゲームのポーカーにたとえることができる。両方とも、勝つためにあらゆる戦術で相手を揺さぶる。彼らはどのカードを、どのタイミングで繰り出すかを工夫する。ポーカーをプレーしたことがある者なら誰でも、きちんと民主主義を尊重して、自分の繰り出す手について肩越しに観戦している者の承認をいちいち得ようとしたら、有利にゲームを運べないことくらいは知っている。そんなふうに行動したら、自分のゲームができないどころか、自ら勝機を逃すことになる。結局、プレーに責任をとるのは、カードを握っている本人である。
企業側と交渉する労働組合にとっても同じことがいえるだろう。企業側の利害を代弁する数人の代表者を相手に少しでも成果をあげるためには、組合側も少数の幹部に全幅の信頼を置かなければならない。交渉に際しての取引には組合員の批准が必要とされるが、それは多くの場合、民主主義的なコントロールの利かない、既定の事実を承認する形式的な手続きにすぎない。
言い換えれば、一般組合員から指導部を切り離す内的論理は、労働組合の核心的機能にすでに組み込まれているのである。組合結成の初期段階にはその溝がなかなか表面化しないが、次第に組合の指導部が独自の利害を追求する方向に向かうことは、すべての組合の歴史が物語っている。
組合員が賃上げや労働条件の向上を望んでいるとしても、幹部たちは自分たちの影響力や地位の確保に走る。利害をめぐる一般組合員と指導部との分裂こそが、一般組合員の操作という点で目的を共有している組合幹部と企業側とを接近させ、協調へと導くのである。
以上のことは、労働組合の普遍的な運命であるといえる。なぜなら、それは組織構造にかかわらず、どの組合であっても遂行しなければならない究極の目的に起因するからである。
連合やその傘下の組合は、資本との協調を鮮やかに物語るケースであるのかもしれないが、それは日本や世界の他の地域の労働組合と比べても程度の差であって、質的に区別されるべきものではない。
連合は他の組合にとって自らの協調による明るいイメージを投影できる鏡のような存在であった。もしこのイメージに違和感を抱く組合員あるいは組合リーダーがいるとしたら、彼らは、資本主義が労働力を買う人と売る人に人間を二分してきたからこそ労働組合が誕生したのであり、労使協調という慣行もまた生まれたのであることを再認識すべきである。
このような協調からの脱皮は、組合の組織構造をあれこれいじることによってではなく、資本主義の廃絶によってこそ可能になるものである。
(ジョン・クランプ著「日経連」桜井書店 p261-264)
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理論水準をたかめること
これまで、組合幹部の実務能力を身につけることについてのべましたが、もちろん、それは、実務能力だけがすぐれておればよいというのではなく、階級闘争の理論をしっかり身につけることが大切です。組合幹部はこの二つをともに身につけることができれば、それはまさしく「鬼に金棒」です。
組合幹部がいちばんなやむのは、組織力が闘争にともなわないばあいです。闘争の集約や妥結は、かならずしもいい条件ではないが、これ以上たたかいをつづけると組織そのものの団結の維持がむつかしくなるというばあいです。組織的力量がともなわないために、組合員の要求を全面的に貫徹することができないばあいは、きわめて多いわけです。
「たたかわなければ要求はとれないし、たたかえば分裂する」という両側面をどう統一的に克服するか、というむつかしい問題です。
経済闘争は改良のたたかいですから、「組織の命運をがけて、最後の一人になるまでたたかう」という路線は正しくありません。労働組合は労働者階級のたたかう部隊であり、大切な財産です。
だから、要求を実現するたたかいを通じて労働組合をつよめ、労働組合に組織されている労働者の階級的自覚をたかめ、この組織労働者の大部分が、労働者階級の歴史的使命を自覚するまでになるため、組合幹部は指導と援助をしなければなりません。
したがって、労働組合はそれぞれの条件に応じてのたたかいを通じて、階級的自覚をたかめることが大切です。たたかえるだけたたかって、あとはどうなってもしかたがない、という態度は、結果として労働者階級の利益をうらぎることになります。
このため、たたかいには節度が必要であり、たたかって集約し、集約の基礎のうえにさらに新しいたたかいを発展させるという指導が、一般的に必要です。
だがら、組合の幹部は、たたかいを組織し発展させるとき、どのような条件のもとで、どのように妥結するか、そしてそのことは、組織をつよめるためにどういう作用をおよぼすかを、判断する能力をもつことです。
また、同時に、この幹部の考えかたを組合員に説明し、さらに団結をつよめて前進することができるように、妥結を位置づける能力(ゴマカすことでなく)をもつことは、組合幹部にとってひじょうに重要です。
組合幹部がこのような能力をもつためには、みずから理論学習をふかめ、理論水準をたかめる以外にありません。
理論学習の対象は、哲学、経済学、労働運動の理論をつなげて学ぶことが基本ですが、たたかいの具体的な方法に有効なものとして、労働関係の法律の学習も必要です。
とりわけ、労働者は搾取と支配からのがれるためにたたかっているのですから、搾取の理論=経済学の理論が直接必要であり、たたかいの展望を正しくもつために、史的唯物論の学習も大切です。
また、労働組合運動を理論的に学ぶために、労働組合運動の発展を歴史的にみることが重要です。歴史的にみるということは、労働組合運動の発展を法則的・必然的にみるということであり、そのことを通じて、幹部は、現在の課題に理論的にこたえることができます。
階級闘争の理論とはなにか。
長年つみかさねられたたたかいの経験を総括し、一般化して、ふたたび実践のなかで、その実践をみちびく法則として役立ち、一層豊かになるというところにあります。
だから、理論は運動発展の必然性をあらわしたものといえるでしょう。
このため、理論を学んだからといって、それはそのまま、幹部が直面しているすべての問題に、具体的に適用できるとはかぎりません。
幹部は理論を自分の頭脳で消化し、血や肉にしなければならないわけです。そうしてこそ、具体的な問題に理論的に対処できるのです。
ですからきょう、古典を読んだことがあすはすぐ成果となってあらわれる、というわけではありません。学習の成果はすぐは目に見えません。だから、根気づよくつづけることはたいへんです。しかし、いくらたいへんでも、それをつづけなければ、労働組合の一人前の幹部になることはできません。
わたしは雪国に生まれました。夕方からふりはじめた雪が、中庭の池の水にすいこまれ、つぎからつぎへ消えてゆきます。他の周囲には雪は真白くつもっていますが、池の中ではなんの変化もありません。それがどうでしょう。朝おきてみると、池の上にも雪が真白くつもっているではありませんか。わたしは、理論学習というものはこういうものではないか、とつね日ごろ思っています。
組合幹部は暇があったら遊ぶか、ねるかだけでは、理論水準をたかめることはできません。あたたかいメシをくい、酒をのみ、あたたかいフトンに、人と同じ時間ねていたのでは、理論を身につけることはできません。なかには、オレは忙しくて勉強するにも時間がないんだ、という人がいます。わたしは、こういう人に、ねる時間はあるんですか、とたずねることにしています。
組合幹部は忙しいのはあたりまえで、もし、忙しくない幹部がいるとしたら、現在のようなきびしい情勢のもとでは、怠けているとしか思えません。忙しい人はどうして学習するか。一般的にいってねる時間を節約するしかありません。もっとも、身体の弱い人に強制するものではありませんが。
わたしのばあいを紹介しますと、わたしも理論水準はなかなかたかまらないし、肉体的疲労もかさなって、本をよむ時間、学習する時間が十分とれなくてあせりを感じています。そこで、どんなにおそく帰っても、家にいるときは、最低二時間はなにかを読むことにしています。睡眠時間は平均五時間くらいでしょう。さいきんは年齢のため、疲れるようになったので、出張のさいはできるだけねるようにしています。
(細井宗一著「労働組合幹部論」学習の友社 p95-99)
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◎「幹部は理論を自分の頭脳で消化し、血や肉にしなければならないわけです。そうしてこそ、具体的な問題に理論的に対処できる」と。