学習通信080826
◎息がとまるほどおどろかし……
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ユネスコ事務局長
現代の奴隷制#p止訴え
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の松浦晃一郎事務局長は二十三日、「奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー」に当たって声明を発表、加盟国にあらゆる形態の抑圧を終結するための新たな努力を訴えました。
同氏は、「過去の残虐行為を決して忘れてはならないのと同時に、世界の数百万の人々と子どもに被害を与えている現代的な形の奴隷制度の廃止にたゆまない努力を続けなければならない」と強調しました。同氏は国際的な人間搾取とのたたかいの取り組みと、強制労働と子どもの人身取引、売春強要への関心が高まっているにもかかわらず、人権侵害が続いていると指摘しました。
この国際デーは、一七九一年八月二十三日にカリブ海のサントドミンゴで黒人奴隷が決起し、後のハイチ革命の端緒となったことを記念するものです。また今年は米国での奴隷解放二百年です。さらに、第四条で奴隷と苦役からの解放を基本的人権として認めた世界人権宣言の六十周年に当たります。
今年に入って西アフリカのマリ、モーリタニア両国で奴隷的な使役制度が残存していることが非政府組織(NGO)などの告発で表面化。モーリタニアでは八月、奴隷制度の完全撤廃のための立法措置がとられました。
(「赤旗」20080825)
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ハイチの独立
アメリカの独立戦争は直接にはアメリカの黒人を解放しなかったが,独立戦争の勝利に刺激されたフランス革命が,くしくも西インドの黒人の戦いを成功させることになった。それは1790年から1803年の西インド諸島ハイチにおける奴隷による革命である。
ハイチは,砂糖諸島のなかでもっとも豊かな土地とされ,53万6000人の総人口の90パーセント以上がニグロ人の奴隷,ないし白人との混血であり,農園での労働はきびしく,毎年かれらの9分の1が死んでいった。
フランス革命を知ったハイチのミュラトウ(白人と黄人の混血)とニグロ人は,「自由・平等・博愛」の原則をハイチにも適用するように要求した。しかし,フランスの革命政権は,この要求を認めようとはしなかった。奴隷の子に生まれたピエール=ドミニク=トサン=ルペルテュールは,古代ローマのスパルタクスのように,50万人の奴隷たちを率いてたちあがった。
「1200のコーヒー園,300の甘蔗(かんしょう=さとうきび)園がたちまちのうちに火の海と化した。建物,農家が灰となった。地主たちは,激怒した黒人によって,捕らえられ,殺され,火のなかに投げ込まれた」。黒人軍は,島に上陸したフランス軍・イギリス軍・イスパニア軍を圧倒した。
フランス本国のジヤコバン政権は黒人解放を約束したが,ナポレオンは,豊かなハイチを失うまいとして,再び,6万3千の軍隊を派遣し,黒人を鎮圧しようとした。しかし,トサンとその後継者は,フランスの卑怯なだましうちによって,トサンがフランスに送られて獄死したにもかかわらず,ナポレオンの軍隊を打ち破った。
反乱奴隷は完全な勝利をおさめ,奴隷を解放し,全農園主の土地を没収し,黒人共和国を建設した。ハイチの独立宣言は1804年のことである。そしてこのハイチの勝利の影響は,1810年にはじまるイスパニア・ポルトガル・フランスのアメリカ植民地帝国を打ち倒して,メキシコからチリに至る全ラテンアメリカに独立国をつくるまでおわらなかった。
この動きに,アメリカ合衆国の奴隷主たちを,息がとまるほどおどろかし,さらに北部や南部諸州での奴隷廃止を促進する力となった。また,1800年のイスパニアを破ったナポレオンが,南北1000マイルにわたるルイジアナに大帝国を建設しようとしたが,その基地としてのハイチが失われたので,1803年,かれはルイジアナをアメリカに売る結果となったのである。
(「新講世界史」三省堂 p333-334)
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第二節
剰余労働にたいする渇望。工場主とボヤール
資本が剰余労働を発明したのではない。
社会の一部の者が生産諸手段を独占しているところではどこにおいても、労働者は、自由であろうと自由でなかろうと、生産諸手段の所有者のための生活諸手段を生産するために、自分の自己維持のために必要な労働時間に余分な労働時間をつけ加えなければならない。
この所有者がアテネの貴族≠ナあろうと、エトルリア〔イタリア中西部の古代国家〕の神政者であろうと、ローマの市民≠ナあろうと、ノルマン人〔中世スカンジナヴィア地方〕の領主であろうと、アメリカの奴隷所有者であろうと、ワラキア〔ルーマニア南部〕のボヤール〔ロシアやルーマニアなどの領主〕であろうと、近代のランドロード〔イギリスの地主〕または資本家であろうと、そうである。
とはいえ、ある経済的社会構成体において、生産物の交換価値ではなくそれの使用価値が優位を占めている場合には、剰余労働は、諸欲求の範囲──狭いとか、広いとかの差はあっても──によって制限されているのであって、剰余労働にたいする無制限な欲求は生産そのものの性格からは発生しないということは明らかである。
それゆえ、古典古代において、交換価値を自立的な貨幣姿態で獲得することが問題である場合に、金銀の生産において過度労働は恐るべきものとなる。
ここでは、死ぬまで労働を強制することが過度労働の公認の形態である。シチリアのディオドロスを読みさえすればよい。
それでもやはり、これは古典古代世界においては例外である。
しかし、その生産がまだ奴隷労働、夫役労働などというより低い諸形態で行なわれている諸民族が、資本主義的生産様式によって支配されている世界市場に引き込まれ、この世界市場によって諸民族の生産物を外国へ販売することが、主要な関心事にまで発展させられるようになると、奴隷制、農奴制などの野蛮な残虐さの上に、過度労働の文明化された残虐さが接木される。
それゆえ、アメリカ合衆国の南部諸州における黒人労働は、生産が主として直接的な自家需要に向けられていた限りでは、穏和な家父長的な性格を保っていた。
しかし、綿花の輸出がこれら諸州の死活の利害問題となるにつれて、黒人の過度労働が、所によっては黒人の生命を七年間の労働で消費することが、打算ずくめの制度の要因になった。黒人から一定量の有用生産物をしぼり出すことは、もう問題ではなくなった。
いまや、剰余価値そのものの生産が問題であった。夫役労働、たとえばドナウ諸侯国〔ワラキアとモルダヴィア侯国〕におけるそれについても同様である。
(マルクス著「資本論A」p399-400)
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「過去の残虐行為を決して忘れてはならないのと同時に、世界の数百万の人々と子どもに被害を与えている現代的な形の奴隷制度の廃止にたゆまない努力を続けなければならない」と……。