学習通信080825
◎同じ思いの人が……
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総合的学習で「平和」をテーマに掲げることが難しくなっている、と聞きました。公的な書類にも「平和教育」の用語は使わせない、と。東京都のある公立中学の話です
▼平和教育は「偏向教育」とでもいうのでしょうか。その地域では、修学旅行の行き先が、予算を理由に広島から奈良・京都になったといいます。一生のうちに訪れる頻度を思えば、広島を優先してほしいところ。なんとも残念です
▼しかし、現場もさすがです。奈良・京都への修学旅行で、立命館平和ミュージアム訪問を組み込み、初志≠ヘ貫徹しました。心ある教師の連帯があればこそです。逆風が強まる中、どのように平和への思いを伝えていくか。地域の平和の集いでの、現場教師の実践報告に胸が熱くなりました
▼集いには、教え子が十六人かけつけ、まるで授業のようでした。東京の公立学校で何が起きているか。一つひとつの授業に込めた思い、一人で突っ走らず、同僚や生徒と感動をともにできるように努めてきたこと。グッと言葉が詰まったのは、生徒に語りかけた場面でした
▼「あなたたちこそが、私にとっての励ましなのです」。生徒も泣きました。「先生に出会うまで世界から戦争をなくすことは無理だと思っていました。でも、五人、十人と同じ思いの人が集まれば、世の中は変わると思えるようになりました」
▼教師と生徒の響き合いは、感動的でした。子どもたちは何を知りたがっているか。おとなたちは何を伝えなければならないか。確信がもてました。
(「赤旗」20080819)
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自然を認識することと社会を認識すること
それにしても、人間がいなくても存在する自然と人間が構成する社会とを同じように扱うことができるのでしょうか。この問いにたいして、マルクス経済学は社会の法則を自然の法則と同様に認識できると答えます。この答えがまた私を惹きつけたのです。
自然を認識することと社会を認識することとの関係については、それらは別ものとみるほうが常識的な考え方でしょう。社会は多くの個人から構成されていて、個人個人はそれぞれに異なる意志をもって行動している。だから、意志をもたない物質によって構成されている自然とは異なる。
あるいは、自然の法則は繰りかえし起こる法則だけれども、人間の歴史は一回かぎりのものであり、その点でちがっている。
こういう考え方は、ウェーバーの社会学や新古典派の経済学、総じて実証主義的な歴史観・社会観の基礎をなしています。
しかし、この考え方では、人間の社会にたいする認識は、個々の歴史的出来事をたんに叙述するか、せいぜい、その出来事を理解するための主観的な認識枠組み(理念型、あるいはモデル)をつくることくらいだということになります。
私は、こういう考え方に満足できなかったわけです。
この問題について、マルクス経済学はこう考えます。
たしかに社会を構成している個々人はそれぞれに異なる意志をもって行動している。
しかし、そういう個々人の意志がそのまま実現されることはない。
個々の意志が歴史を動かすのは、それらが一定の方向に集約された集団の意志として現われるばあいだけだ。
さらに、そういう集団的な意志を奥底で突き動かしているものをみてみると、経済的な利害にいきつく。
人間が生きていくためには、ものをつくり、分配し、消費するという経済活動が不可欠であり、しかも今日の社会では、経済活動において利害の対立する集団(階級)が形成されている。
この集団的(階級的)な利害対立に突き動かされて、それぞれの集団的な意志が形成される。
もちろん、個々の歴史的な出来事は一回かぎりのものであるけれども、経済的な利害対立が奥底で大きな歴史的な動きを決めている。
経済的な関係、しくみ、利害の対立のありようを自然科学と同様に科学的に明らかにすることができるし、したがって歴史の大きな動きを自然と同様に法則的に理解することができる。
マルクス経済学のこの社会観・法則観にふれて、私は半信半疑ながらも共感しました。
個人の意志が直接に歴史を動かすのではなく、集団的な意志を介して歴史は動くという考え方は、世界の変動と自分の日常をつなげられないでいた私の感覚にあっていましたし、自分の日常と世界の変動とをつなぐものを教えてくれました。
また、経済を基礎にして考えることで世界の動きを自然と同じように知ることができるという考えは、科学的に世界をつかまえることを求めていた私に希望を与えたのです。
(上瀧真生「世界をつかむ──マルクス経済学を学ぶ」月刊『経済』08年五月号 新日本出版社 p40-41)
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◎「個人の意志が直接に歴史を動かすのではなく、集団的な意志を介して歴史は動くという考え方」と。