学習通信080818
◎労働組合……
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論点 インタビュー
憲法から考える
龍谷大学教授
脇田滋さん
「自己責任論」の誤り
派遣労働の非人間性や労働条件の過酷さを批判することに対して、「その働き方も本人の自由で選んだ。差別的待遇も、言わばいわれ≠フあるものは仕方ない」という「自己責任論」が喧伝(けんでん)されています。しかし、これは根本的に間違った議論です。
■選択肢なく
今日の非正規雇用は、財界と政府が戦略的につくりだしたものです。七〇年代には九割が正規雇用だったのを、パートタイム、派遣拡大という流れで崩し、九〇年代にはむしろ正規雇用を例外化するという経営戦略が進められました。その中で、多くの女性や若者には「非正規」以外に選択肢がない、という現実があります。
この点で、自分で選んだのだから仕方がないとする「自己責任論」は成り立ちません。
仮に「自由な意思」で選んだ結果だとしても、人間の尊厳や最低限の生活を維持できない労働条件を正当化することはできません。生活・労働のミニマム(最低基準)保障が必要です。
資本王義では、一人ひとりが自由であることを前提に、結んだ契約には縛られるとされています。しかし、社会的実態をみると契約当事者、すなわち労使間に実質的な対等性がなく、「自由意思」と言っても形式にすぎません。そんな契約に拘束されるとしたら弱い方にのみ酷な結果となります。実態を踏まえ、一定基準を満たさない契約は制限されるべきです。
憲法が個人の生存権(二五条)を保障するとともに、労働権や団結権(二七、二八条)を認めたことの重要な意義の一つはこの点にあります。
現在の派遣労働や有期雇用の多くは、フルタイムで働いても生活保護基準以下の賃金しか得られません。正規雇用との大きな格差は差別としか言えません。不安定、無権利という点でも、人間らしい雇用とは言えません。
これを「自由意思」を根拠に正当化することは、労働法の原理に反します。「契約の自由」のみを強調し、憲法の社会権や労働法の独自の存在意義を無視するのが、新自由主義の特徴です。
■労組の役割
「自己責任論」が広がって、働く者が孤立している背景には、最も弱い立場で苦悩する者に寄り添い力になるべき労働組合が本来の役割を果たしていないからだと言わざるを得ません。
「自己責任論」を否定し、どのような連帯を築くか──。いま正規・非正規の違いを超えて労働者連帯を広げる条件が客観的に拡大しています。企業別正社員組織には限界があります。それを乗り越えて、憲法が求めている「労働者全体を代表する労働組合」をどのように実現するか、労働者連帯の意味を含めて改めて問い直す必要があると思います。
(「赤旗」20080817)
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ハマンとの会話(マルクス)
もし労働組合がその任務をはたそうというのであったら、けっしてそれは、政治団体と関係したり、そうした団体に従属したりしてはならない。
こうしたことがおこると労働組合に致命的な打撃をあたえるものである。
労働組合は、社会主義のための学校である。
労働組合のなかで労働者が訓練されて社会主義者になるのは、労働組合では彼らの眼前で毎日のように闘争がおこなわれているからである。
政党は、それがどんなものであろうとも、どんなものになろうとしても、すべて例外なく、労働者大衆をほんのしばらく一時的に鼓舞するだけであるに反して、労働組合は労働者大衆を長いあいだひきつける。
ただ労働組合だけが、真の労働者党を代表し、資本の力にたいして一つの防波堤をきずくことができる。
自分たちの物質的状態を改善しなければならないという洞察には、労働者の大多数が到達しているのだ。
彼らをして、その欲する政党に所属させておこう。
しかし、物質的状態が改善されると、やがて彼はその子供たちの教育にもっと専心することができる。
妻子も工場をわたりあるかなくともよくなり、彼自身もその精神をもっと修養し、その身体をもっとだいじにすることができる。
やがて彼は、自分では気づかずに、社会主義者になるのである。
一八六九年十一月十七日付『フォルクスシュタート』所載
(マルクス・エンゲルス「労働組合論」国民文庫 p60)
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◎「労働組合は、社会主義のための学校である」と。