学習通信080805
◎運と努力……

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 社会は三つの主な状態のうちに存在しうるのであるが、われわれはこれらの状態をとり上げて、そうした状態のなかでの労働者のあり方を見てみよう。

(1)、社会の富が下り坂にあるとき、労働者が最も苦しむ。けだし、社会が結構な状態にあるとき、労働者階級は所有者の階級ほどには得るところはありえないにもかかわらず、社会の下り坂で労働者の階級ほどむごく苦しむものは他にないからである″。

(2)、こんどは、富が伸びていくような社会をとってみよう。この状態だけがただ一つ、労働者に有利な状態なのである。ここでは競争が資本家たちのあいだに起こる。労働者たちにたいする需要はその供給を上まわる。しかし、

 一つには、労賃の上昇は働きすぎを労働者たちのあいだにひき起こす。かせごうとすればするほど彼らは彼らの時間を犠牲にし、すっかりあらゆる自由を手放して貪欲のために奴隷労働をやらねばならない。そうすることによって彼らは彼らの命の時を縮める。彼らの寿命がこうして短縮されることは全体としての労働者階級にとっては好都合な事態な既である。というのは、それによってたえず新しい供給が必要となるからである。この階級はすっかり亡びきることがないためには、たえずそれ自身の一部分を犠牲にしなければならない。

 さらに、どのような場合に、社会はどんどん富んでいく状態にあるのか? 一国の諸資本と諸収入の増大とともにである。ところで、これが可能なのはただ、

@多くの労働が堆積することによってのみである。──けだし資本は蓄積された労働だからである。──それゆえに、労働者の手からますます多く彼の生産物が取り上げられること、彼自身の労働がますます他人の所有物として彼に対峙していって、彼の生存と彼の活動の諸手段がますます資本家の手のなかで集中していくことによってのみである。

A資本の累積は労働の分割、すなわち分業をふやし、分業は労働者の数をふやす。逆に労働者の数は、分業が諸資本の蓄積をふやすように、分業をふやす。一方においてはこの分業、そして他方においては諸資本の累積とともに、労働者はますます純粋に労働、しかもある特定の、ひどく一面的、機械的な労働に依存するようになる。このように彼は身心ともに機械へおし下げられて、ひとりの人間が一つの抽象的な活動と一個の胃袋となるにつれ、彼はまた市場価格、諸資本の使用および富者の気持のあらゆる変動にますます依存するようになっていく。同じようにまた、ただ労働するだけの人間たちの部類の増加によって労働者たちの競争は高まり、そのために彼らの価格は下がる。製造工業において労働者のこのあり方は頂点に達する。

B繁栄が上り坂にあるような社会においては、もはやただ富者中の富者たちしか金利で生活することはできない。爾余のすべての人々は彼らの資本で何か事業をやるか、資本を商業に投入するかしなければならない。そうなると、そのために諸資本間の競争はいっそう大きくなり、諸資本の集中はいっそう大きくなり、大きな資本家たちは小さな資本家たちをつぶし、こうして以前の資本家たちの一部は労働者の階級へ堕ち、この階級のほうは、この流入によってまたしても労賃の切り下げに遭って、なおいっそう大きな資本家たちに隷属していくはめにおちいる。資本家の数が滅ったために、彼らの競争は労働者のことにかんしてはほとんどもう存在せず、そして労働者たちの数が殖えたために、彼らのあいだの競争はそれだけ大きく、不自然かつ強引になった。それゆえに労働者層の一部は、ちょうど中程度の資本家たちの一部が労働者層へ堕ち込むのと同じように必然的に乞食状態か飢餓状態へ堕ち込む。

 そういうわけで、労働者に最も有利な社会の状態にあってですら、労働者にとっての必然的な帰結は働き過ぎと早死、機械への下落、彼に面と向かって無気味に蓄積されていくところの資本の奴隷、新しい競争、労働者たちの一部の餓死または乞食状態である。

 労賃の上昇は労働者のうちに資本家の致富欲をかき立てるが、しかしそれを彼はその身心を犠牲にすることによってでしか満足させることができない。労賃の上昇は資本の累積を前提し、そしてそれを招来し、こうして労働の産物をますます他人のものとして労働者に対置する。同様に分業は彼をますます一面的かつ従属的にするとともに、またそれはたんに人間たちの競争のみならず、また諸機械の競争をもひき起こす。労働者が機械になり下がった以上、彼に機械が競争者として対峙してくることができる。最後に、資本の累積が産業の量、したがって労働者を殖やすように、この蓄積によって同一量の産業はいっそう多量の製品をもたらし出し、これが過剰生産となって、その挙句は労働者の大きな部分が仕事を失わせられるか、さもなければ、賃金をかつかつの最少額にまで切り下げられるかのいずれかである。

 これが労働者にとって最も有利な社会状態、すなわち増進する富の状態の帰結である。

 ついにはしかしこの上り坂の状態もいずれはその頂点に達するにちがいない。この場合、労働者のあり方はどうか?

(3)、「その富が殖えうるだけ殖えきった国においては、労賃も資本利子も共にひじょうに低いであろう。職を手に入れるための労働者間の競争はひじょうに激しく、そのため、給料は同数の労働者たちを維持するに足るところへまで押し下げられているであろうし、そしてその国にはすでに十分に人口があったはずだから、この数は殖えようがないであろう。」
 それ以上の分は死なざるをえないであろう。

 そういうわけで、衰えていく社会状態においては労働者はどんどんみじめになっていくし、上り坂の状態においてはみじめさは複雑であるし、とことんまででき上がった状態においてはみじめさはそのままずっと変わらない。
(マルクス「1844年の経済学・哲学手稿」ME八巻選集 大月書店 p32-34)

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Q2 お金持ちと貧しい人が、どうしているんですか?

A2 世の中には、お金持ちの家に生まれて資産がたくさんある人もいれば、貧しい家に生まれた人もいます。貧しい家に生まれた人でも、勉強ができたりスポーツができたり、商売が上手だったり、といった才能に恵まれた場合は、お金持ちになれるかもしれません。お金持ちの家に生まれても、無駄遺いばかりして仕事をしていないと貧しくなってしまうかもしれません。

運と努力

 一所懸命仕事をしていても、会社が倒産してしまって、仕事がなくなって貧しくなることもあります。病気になって仕事ができなくなってしまうこともあります。お金を盗まれてしまうこともあるかもしれません。火事や地震でお金がなくなってしまうかもしれません。逆に、宝くじがあたってお金持ちになる人がいるかもしれません。

 才能に恵まれて生まれるのか、病気になってしまうのか、会社が倒産してしまうのか、お金を盗まれてしまうのか、宝くじにあたるのか、といった運に左右される面はあります。一方で、まじめに働いたり、勉強を続ければお金持ちになれるのに、さぼってばかりいて貧しい人もいるかもしれません。

 みなさんは、アフリカやアジアの貧しい国の人々よりも豊かな生活ができるという意味で運がよかったかもしれません。でも、しっかり勉強して技術や知識を身につける努力をしないと日本が貧しい国になってしまうかもしれません。努力して知識や技術を身につけることができるかどうかも、お金持ちと貧しい人の差の原因の一つです。

運と努力の区別難しい

 まとめると、お金持ちになるか、貧しい人になるかは、運がよかったのかどうか、ということと、努力を続けてきたかどうか、という二つのことで決まってきます。ところが、自分以外の人にはもちろん、自分自身でも、運が悪かったから貧しくなったのか、さぼってばかりいたから貧しくなったのかを区別することはとても難しいのです。貧しい人がみんな運が悪かったから貧しくなったのであれば、みんなで助けてあげるべきでしょう。貧しい人がみんなさぼっていたから貧しくなったのであれば、さぼらないような仕組みをつくっていくべきでしょう。貧しい人のなかには、運が悪かった人とさぼったから貧しくなった人の両方がいるのです。お金持ちも同じで、運がよかった人と努力を続けた人の両方がいます。

本当に困っている人を
見つけ出す方法

 本当に運が悪くて困っている人だけをうまく見つけだす方法はあるでしょうか。特別な場合には、困っている人だけを見つけだす方法があります。

 たとえば、学校で体育は嫌いだけれども、休み時間に校庭で走り回ることが大好きな小学生がいて、先生に「お腹が痛い」と嘘をついて体育を休もうとしたとします。この場合には、先生がこの子供が嘘をついているかどうかを確かめるいい方法があります。それは、「お腹が痛い人は体育を休んでいいけれども、休み時間に校庭で遊ぶことはできません」と子供にいうことです。本当にその子供のお腹が痛かったら、校庭で遊べるはずがありません。貧しい人を助ける時にも、このような方法がうまく使えればいいのですが、実際には難しいですね。
(大竹文雄著「経済学的思考のセンス」中公新書 p6-8)

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 この世界解放の事業をなしとげることは、近代プロレタリアートの歴史的使命である。この事業の歴史的条件、およびそれとともにその本性そのものを究明し、そして、行動の使命をおびた、今日のところ抑圧されている階級に、彼ら自身の行動の条件と本性とを自覚させることは、プロレタリア運動の理論的表現である、科学的社会主義の任務である。
(エンゲルス「空想から科学へ」新日本出版社 p85-86)

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◎「彼ら自身の行動の条件と本性とを自覚させることは、プロレタリア運動の理論的表現である、科学的社会主義の任務」と。