学習通信080801
◎ガラスのうさぎ……
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不戦の心
高木 敏子さんに聞く
愚かな行為 もう二度と
将来に伝える努力を
……原稿用紙十枚の戦争体験記から、いつか本を書き上げる、とノートに書きためて十五年かかった
東京大空襲で母と二人の妹を失い、終戦十日前には米軍機の機銃掃射で父も亡くなった。高木さん(旧姓江井)の十二歳から十三歳にかけての、この痛恨の記憶は「私の戦争体験」という小冊子になって一九七七年に自費出版された。これが大ベストセラー「ガラスのうさぎ」となる。
「両親(や妹たち)の三十三回忌に子どもたちができる最後の法事だから少し盛大にやろうじゃないか、その引き出物を考えろ」と兄の行雄さんに言われて、高木さんは、思い切ってこう話した。
「戦争とは何か、自分の体験と戦争とはこうなってしまうんだということを書きためてきた。それを整理して本に出したい」と。「カネがかかるよ」と言われて結婚二十周年であることを思い出した。夫にノートを見せながら「ダイヤモンドはいりません。光るものは私に似合わない。その代わりおカネを下さい」。二十万円を捻出させて五百部(八十四n)の小冊子が出来た。それが注目され九ヵ月後に加筆出版される。
冊子を作るにあたって空襲や焼け跡の場面は写真でしか表現できないと思い、新聞社など八方手を尽くしたが断られた。都庁でも「一般の人には貸し出さない」と言われたが、高本さんが粘って警視庁のカメラマンだった石川光陽さんの貴重な写真を巻頭に飾ることが出来た。「ガラスのうさぎ」で、この写真は掲載されなかったが、戦争体験を次の世代に伝えたいという思いが伝わる。
この古い体験記に歌詞カードが挟まれていた。
〔鳴る賜る鐘は 父母の
元気でいろよと 言う声よ口笛吹いて おいらは元気
〔鐘が鳴ります キンコンカンで有名なNHKラジオドラマ「鐘の鳴る丘」(一九四七年)の主題歌「とんがり帽子」(作曲古関裕而、作詞菊田一夫)である。「明るく聞こえるでしょうけれども、皆さん、お父さんもお母さんも亡くなっちゃう、ということは、どれくらい子どもにとって大変なことか。その元になったのは戦争なんだよ、という話をするために、これを謹演で歌うんです」
……いまだに花火の音が怖い。米軍機のヒューンという音を思い出す
「ガラスのうさぎ」が版を重ねること百三十五版。中学一年生の孫から「懸想文を書こうと思ったけど、よく分からない言葉がいっぱい出てくる」と言われる。その多くが戦時用語だった。
例えば学徒出陣という言葉。「前に話してあげたじゃない。繰り上げで理科系を除く大学生が軍隊に行った。その壮行会を神宮外苑でやったんだよ。文章の中に出てくるだろう」「辞書を引いても出てこない? 学徒=学究する人、出陣=戦に行くこと。それじゃ、二十歳前後の学生が学業半ばにして神宮外苑で、どしゃぶりの雨の中を校旗を掲げて死を覚悟して行進したのが分からないわね」
「じゃ、その次は、その次はと聞くと全部、戦時用語なんですよ」。鬼畜米英、武運長久、焼夷弾、闇市など戦時用語の解説を入れることにした。この作業の疲れに、加齢も加わって黄斑変性症を患い右目を失明する。版を重ねてきた本は、解説を入れることで第一刷りの新版に戻る。
「出版社側からは百三十五刷りの栄光を消すのか、といわれましたけど、私はそんなこと考えていない。ゼロにしていいから一人でも多く戦争を知らない世代に戦争というのは、悲しいとか悔しいだけでなく、本当に愚かなことで、プラスになることは何にもないんだ、ということを知ってもらいたい。だから子どもたちが読めるようにして死んでいきたいんです」
……石油も食料問題も大事 だけど、戦争なんて愚かなことをしないという祈念館をつくっておくことが大事と思いませんか
「平和の使徒」としての講演は全国千三百回。殺伐とした今の世に「戦争で無念の死を遂げた人たちのためにももっと命を大切にしてほしい」。アミロイドーシス、メニエル病、脳梗塞など命を削りながらの講演はもうできない。
一九四五年三月十日の東京大空襲では一夜にして約十万人が命を落とした。「米軍が出撃前に、商店街や木造の家、中小企業がひしめいている所を狙おうと話し合っていたという。かっていてやるんですからひどいですね。墨田も深川も軍人はいません」
「電車で隣の女の子にアメリカと戦ったこと知ってる、というとウッソーと驚きます。十二月八日(開戦、真珠湾攻撃)は何の日と聞く。すると何だっけ、誰かの誕生日?私に言わせれば、戦争というのは八月十五日をあれほど盛大にやるくらいなら十二月八日だって盛大にやってもらいたい。だって物事というのは始まりがなければ終わりはないんですから」
「開戦の朝、父もガラス工場で働いている従業員もみな万歳、万歳とやっていた。本当に洗脳されてしまうのが戦争。その前から戦争の準備は始まっていたんです」
立命館大学の国際平和ミュージアムに「高木敏子コーナーがある。「このミュージアムは被害・加害の互いの立場を昭和の初めからきちんと整理して冷静に展示している。空襲のなかった京都の人たちの寄付で建てられた。この立命館大のような東京国際平和祈念館(仮称)ができないものでしょうか。十万人も亡くなってるんですよ」
「東京には軍人、軍属をまつる施設はあっても、戦争で亡くなった一般の人たちを記録し考える施設はありません。私ももう七十六歳。昨年も、ラストメッセージという本を書いてビデオを添え、石原都知事に会いにいったんですが、この十年間、門前払いです。今度こそお会いしたい」(編集委員 工藤憲雄)
たかぎ・としこ
1932年東京・本所区緑町(現墨田区)生まれ。戦争体験を綴った「ガラスのうさぎ」(金の星社)は世代を超えて読み継がれ240万部のロングセラー。世界9カ国語に翻訳。平和の尊さを訴える講演活動は1300回でドクターストッブがかかる。ほか「ラストメッセージ」(メディアパル)など。
(「日経 夕刊」20080801)
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七月三十日、父から電報がきた。
「八ガツ四ヒムカエニユク、ジュンビセョ」
さあ大変、いよいよ新潟に引っ越しだ。父が迎えに来る日まで五日しかない。まず学校に行く。転校手続きをし、書類を受けとる。次に役場だ。移動証明書という書類を……。そして米、味噌、醤油、衣料品の各配絵所に行き、その日までどの品をどの位、配給されているかという証明書をもらった。それがないと次に住む所で、配給が受けられない。
現在のように、どこにでもスーパーストアがあり、お店があって、お金さえ出せばなんでも買えるというわけにはいかない。戦争中はなんでも証明書が必要で、人間ひとり生きて行くのに、すべて証明書によって動いていた。なにしろ女学校一年生になりたて(現在の中学校1年生)の女の子
が、その手続きをするため、一人であっちへ行き、こっちへ行きするのだから、とても大変だった。その間にも、友だちの家に別れのあいさつに行き、五日間があっという間にたってしまった。
父は八月四日の昼頃やってきた。さすがに手続きが全部終わっていたのにはびっくりし、よくやったと、ほめてくれた。これなら明日二宮を立つことができる。明朝は荷物を駅に出すだけだ。その夜は、なかなか寝つかれなかった。母と妹たちの消息は依然として不明だったが、七月のお盆に仮の葬式もしたので、父もわたしも半分あきらめの気持ちになっていた。
「お父さん、新潟にはいつごろまでいるの。東京の焼け跡には、いつごろ家が建てられるようになるの。」
「そうだなあ、戦争が終わるまで、だめだろう。でも苦しいのは、もう少しの辛抱だよ。日本は必ず勝つにきまっているんだから。」
八月五日朝からまた暑い日だった。父は朝のうち、二宮駅に小荷物を出しに行ってきた。十一時すこし前に西山さんの家族や近所の人、見送りにきてくれた友だちに別れを告げ、父とわたしは二宮駅に向かった。駅までは約二十五分かかる。
東海道のコンクリート道路の照り返しは、今日もとても強い。父とわたしは汗をふきふき歩いた。約一年間生活したこの町とも今日でお別れ。そう思うと道の両側の見なれた風景が、せつなく感じられる。空を見ると空はどこまでも真っ青で、太陽がギラギラ照りつけている。父 が、
「空襲がなければよいが……。汽車が順調に東京へ着けば、夕方には上野を立つことができる。そうすれば明日の夕方までには、新潟に着くものなあ。」
と、言った。わたしも、ああいよいよ明日の晩には新潟かと思うと、不安よりも、何か楽しいことが持っていてくれるという感じがしてきた。
こんどこそ父といっしょに毎日生活できると思うと、まだ見ぬ新潟に、子ども心にも御影で胸がいっぱいになった。知らない土地で大変だろうけど、父といっしょなんだから大丈夫と、自分にいい聞かせた。そう思うと背中いっぱいの重い荷物も、すこし軽く感じられた。
二宮駅につくと、相変わらず駅は、荷物を背負った人びとでごったがえしていた。東京、横浜方面から食糧の買い出しに来た人達だ。リュックサックを背負い、そのうえ両手に持てるだけたくさんの荷物を持ち、上りの列車を持っている。汽車はなかなかこない。遅れているのだ。予定時間はとっくに過ぎているのに。わたしはなんだか、とても心配になってきた。
「早く改札しないかしら。東京に着くのが遅くなったら大変なのにね。」
「戦争中だから仕方がないよ。どこかで空襲があって、列車を止めているのかもしれないな。でも、もうすぐだよ。」
などと父と話していた。その時、突然キューンという金属音がしたかと思うと、バリバリバリッと、耳をつんざくような音と共に、天井から雨のように何かが降ってきた。
「あっ、機銃掃射だっ!」
「伏せろっ!」
と、だれかが叫んだ。わたしは夢中で待合室のいすの下に、もぐりこんだ。そして、ふるえながら手を合わせて、
「お父さん、助けて! お母さん、助けて!」
と、くり返すばかりだった。またすぐバリバリバリッ、バリバリバリッと何回もきた。あとで聞いたのだが、この時、駅をめがけて急降下して機銃掃射をあびせていたのは、十機編成の米軍艦載機P51という小型戦闘機だった。駅すれすれに飛びまわり、何回も舞いもどってきては、猛射をあびせた。わたしは、まったく生きた心地がしなかった。しばらくして、
「もう大丈夫だぞ。P公、帰ったらしいぞ。」
との声に、わたしもやっと、いすの下からはい出した。
──ああわたしは助かったのだ。生きているんだ──。手も足も、どこにもけがしていない。胸のどうきが激しく高かっているのがわかる。まだドキドキしている。助かったと思うと、その場にへなへなと、すわりこんでしまった。ふっと前を見ると女の人が倒れている。そして背中からピューピュー血が吹き出している。わたしはびっくりして飛び上がり、後ずさりした。よく見ると五歳位の男の子が、その女の人のおなかの下で、わあわあ泣いている。女の人は目を見開いたまま死んでいた。
あっちにも、こっちにも生きているのか死んでいるのか、血を吹き出して倒れている人がいっぱい。泣き叫んでいる人、どなっている人で、待合室は騒然となってしまった。わたしはやっとわれに返ると、そばに父がいないことに気がついた。
「お父さん! お父さん!」
と、何回も大きな声で叫んだ。だんだん不安になってきで、声が小さくなり、泣き声になっ た。やっぱりいない。わたしは父がけがをしたのだと思い、駅の近くの医院にかけ出して行った。リュクは重く、手には二つの荷物。でも、もう夢中だった。もし父がけがをしていたらどうしようと、心配でたまらない。
小さな医院は、大混乱していた。わたしは大きな声で、
「江井はいませんか。お父さん、お父さんはいませんか。」
と、くり返し呼びかけたが、なんの返事もなかった。わたしはまた駅にかけもどった。不安が胸いっぱいにひろがってくる。ああ、どうしよう、どうしよう……。
改札口の方から駅員さんが戸板に人をのせ、上からむしろをかぶせて運んでくるのが見えた。わたしは、この人も死んだのかしらと思いながら、むしろからぶらさがっている足を見た。あっ、その靴、と思うと、もう夢中でむしろをめくった。
「お父さん、お父さん、どうしたの。」
と、父の肩をゆすった。でも父の大きな体は、びくっとも動かない。右のこめかみの所から、血がどくどく流れている。青黒い顔をして、目はあいたまま返事をしない。父は死んじやったのかしら。そんなはずはない。わたし一人のこして死ぬわけがない。わたしは下くちびるを痛いほどかんだ。そうしていないと、声を出して泣き出してしまいそうなのだ。でも目は、もういうことを聞いてくれない。目の底が熱くなると、涙があとから、あとから出てきてしまう。泣くなんて恥ずかしいと思っても、どうしようもない。声を出さないようにするのが精いっぱいだ。
「親が死んだらしいよ。」
「かわいそうに。」
「まだ子どもなのに、だれもいないのかね。」
という声が、聞こえてくる。わたしは自分の手をぐっとにぎりしめて、
「わたしの父です。早く病院に運んで下さい。お願いします、お願いします。」
と、頼んだ。
わたしは父をのせた戸板につきそって、一生けんめい病院へ急いだ。東海道を横切り、松林の中にある中島医院に運ばれた。運んでくれた駅員さんが、
「先生、けが人です、さっきの空襲でやられたんです。」
と、大きな声で言ってくれた。わたしも、
「お願いします。」
と叫んだ。先生は奥からすぐ飛び出してきて、
「わあー、これはひどいー。」といいながら腕をとり、脈をみた。とたんに、「だめだ。完全にこときれているよ。」
そう言って、こめかみにぶすぶすと脱脂綿をつめこんだ。
わたしは思わず目をつぶった。父がさぞ痛かろうと思うと、もう見ていられない。目をそっとあけてみると、こんどは、胸の所にも、脱脂綿をつめていた。その次は腿の所にも──。わたしは、先生のやってくださるのを、ただぼんやり眺めていた。なんだか気がぬけたみたいな変な気持ちだった。
「お嬢ちゃんかい。残念だけど、お父さんはもうだめだったよ。機銃掃射の弾丸が三発も当たっちゃあねえ。それに、こめかみに当たったのが致命傷だった。弾丸は頭の中に入ったまま、盲管銃創だ。胸と足に当たったのは貫通銃創といって、通りぬけちゃったんだよ。早くだれかに連絡しなさい。死亡診断書をすぐ書くから……。この暑さだ、早く処理しないと遺体がくさるからね。」
「だれもいないんです。東京の家は焼けちゃって、母と妹二人は、死んだらしいんです。兄たちは兵隊にいっているんですが、音信不通で、わからないんです。」
「疎開者かね。今までいた所は親戚じゃないの?」
「はい。他人です。知り合いの人の紹介で疎開してたんです。今日まで……。今日これから新潟へ行く所だったんです。」
「でも、しょうがないなあ。とりあえずその家に、遺体を運ばせてもらうんだね。」
そんなことを話している時、西山さんのお嫁さんが、隣りの石屋のおじさんと、お兄さんとで来てくれた。わたしは思わず、
「おばさん!」
と、抱きついてしまった。今まで張りつめていた気持ちが一気にゆるんでしまい。涙がほとばしるように流れた。泣くなんて泣くなんて、敏子のいくじなし──と、自分を自分でしかってみても、もうどうにもならない。
「敏子ちゃんは大丈夫だったのね。どこも、けがしていないのね。敏子ちゃんを知っている人が知らせてくれたのよ。やっぱりお父さんは、だめだったのね。」
しばらくしたあと、お医者さんが言った。
「お宅に遺体を引き取っていただけますか。」
「はい。そうさせていただきます。」
お嫁さんは、きっぱりいってくれた。うれしかった。地獄で仏とはこのことだと思った。ほんとうにわたし一人ではどうしたらよいかわからない状態だったのだから。
「おばさん、ありがとう。」
また泣き出してしまった。父を運んで来てくれた駅員さんが、
「このカバン、お父さんの遺体のそばにあったのだが、お宅のかね。」
と、父が大切にしていた黒いカバンを渡してくれた。
「はい、父のです。どうもありがとうございました。」
ほんとうにありがたかった。これがなかったら、わたしは母から預かった千円の郵便貯金だけしかなくなってしまったわけで、駅員さんが気がついて持って来てくれなかったら、どうなっていたことだろう。わたしは心からお礼をいった。
「これが死亡診断書。疎開者じゃ、遺体を骨にしなければ運べないね。役場にこの書類を持っていき、埋葬許可書と、火葬許可書をもらいなさい。火葬許可書がないと、火葬場は受け付けてくれないからね。それから火葬場は小田原で、薪を持って行かないと、火葬してくれないからね。だいたい荷馬車一台分ということだから、忘れないように……。そのほかのことは、大人の人たちとよく相談して。明日には行くだろうね。この暑さだもの……。火葬場には、わたしが連絡しておいてあげよう。」
お医者さんは親切に言ってくれた。
わたしは、お嫁さんや石屋のおじさんと相談して、わたしが役場と駅に行くことにし、みんなが父の遺体と荷物を西山さん宅に運んでくれることになった。わたしは父のカバンを胸にかかえ、そこから十五分くらいの所にある役場に向かってかけ出した。途中で六年生のとき同じクラスだった田中さんに会った。
「江井さん、お父さんどうだった。原さんに聞いたのよ。お父さんがけがしたらしいって。」
「だめだったのよ、死んじやったの。明日火葬にするの。でも荷馬車一台分の薪がいると言われて、わたし今とってもこまっているの。薪があなたの家にあったら、少しでもわけてもらえないかしら。それから、薪のことだれでもいいから知っている人に頼んでくれない。お願いよ。」
「わかったわ。すぐ家に帰って、家の人に相談してみる。そのほか、前のクラスの人たちにも連絡して、なんとかするわ。酉山さんの家に運べばいいのね。それで、あんたはどこに行くの?」
「役場へ、いろいろの手続きに。それから駅に出してある小荷物を、発送しないよう止めておいてもらいに。」
「そう。じやあくじけないで、がんばってね。なんとか夜までには薪を運ぶようにするから。しっかりしてね。」
わたしは田中さんと別れて、またかけ出した。
(高木敏子作「ガラスのうさぎ」金の星社 p53-64)
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■作品によせて
戦争を知らない子どもたちに
早乙女勝元(作家)
「私の戦争体験」といううすべったいパンフレットを、私が手にしましたのは、たしか昭和五十二年三月の中頃だったと思います。
著者は高木敏子とありましたが、もちろんはじめて目にするお名前で、見知らぬ方から、直接わが家あてに送られてきたのでした。私は七年前に、何人かの作家、評論家と「東京空襲を記録する会」を作ったものですから、そのことが新聞やテレビのニュースになって、一般にはなにやら東京大空襲の研究家のように思われているらしいのです。そのためか、あちこちからさまざまな手紙や本が送られてきます。この一冊も、おそらくそうした空襲のご体験をつづったものだろうと思いながら、手に取りました。
読みすすむうちに、やめられなくなってきました。
息もつまる思いでページをくりながら、私は何度か目がしらをぬぐわずにはいられませんでした。それほどまでにこの一冊は、読んだ人の心を強くゆすぶらずにおかぬ力を持っております。小説ではありません。実際にあった出来事なのです。
正直なところ、私は「記録する会」によせられた都民からの炎の下の証言≠整理し、編集するために、何千枚もの原稿を読みました。たった一晩で十万人もの都民が死んだのですから、生き残った人たちの記憶は鮮烈で、どれもこれもすさまじい証言ばかりでした。しかし、その私でさえも、この一冊には、思わず目を被いたくなったのです。
敏子さんは、太平洋戦争のさいごの年の昭和二十年に、十二歳の少女でした。今でいうところの小学校の六年生です。神奈川県二宮の町に疎開しているうちに、三月十日の大空襲で、二人の妹さんとお母さんとを失ってしまいます。死んだという確認はありませんが、一夜にして町の九割六分が灰になってしまった本所区(現在の墨田区)では、もはや逃げる場所もなく、きっと無念の死をとげたものでしょう。それだけでもたえがたい悲しみなのに、さらにまた、おそろしいことがかさなりました。
敗戦のわずか十日前、敏子さんはお父さんと二人で、疎開先の二宮駅の待合室に列車を待っていましたが、突如急降下してきたP51の機銃掃射で、目の前でお父さんを殺されてしまうのです。ひとり残された十二歳の少女は、泣いているゆとりもなく、血まみれの遺体を知りあいの家に運び、火葬のための薪を集め、お骨にすることになります。
戦争のあまりの残酷さに目のくらむ思いがしますが、しかし、その不幸にもめげず、涙をふりはらいながらテキパキと動く少女のけなげさ。私がいたく胸をゆすぶられたのは、そこなのです。
けなげさというなら、敏子さんが特攻隊のお兄さんに会いに、たった一人で東京から大阪まで出かけていくところにも、死んだお父さんの田舎へ引きとられていった先のきびしい生活ぶりにも、それがいじらしいほどよくにじみ出ています。しかし、なんといっても、お父さんの死は、いたいけな少女を絶望の底にうちのめしました。
同じカヤの中で遺体とならんで寝ながら、「いやだ、いやだ、わたしも死んじゃおう」と、夜中にカヤを抜けだして、まっくらな海辺をさまよった敏子さんは、「わたしが死んだら、お父さん、お母さん、信ちゃん、光ちゃんのお墓まいりはだれがするのか。わたしは生きなければ、がんばらなければ……」と、ふるい立つのです。
わが家の長男は、ちょうど今十二歳で、そのときの敏子さんとおなじ年ですが、私は息子とかさねあわせて、このくだりを読みました。さて、うちの子だったらどうしたことだろう。……しっかりとがんばってくれただろうか、と。正直なところ、かなり不安でもあり心配なのです。わが子のみならず、こんにちの子どもたちは、不幸や困難にたちむかっていくところの意志が、少々弱いように思われてなりません。
そこで私は、あえてこの一冊を、ことし中学一年生のわが子に読ませたいのです。読めばなによりも、戦争が民衆にもたらした傷の大きさと深さがわかりますし、人間の生命の尊さがわかります。さらに不幸が目の前にやってきたとき、これにどんな心がまえで立ちむかっていったらよいかということが、率直にわかるにちがいありません。
小さなパンフレット「私の戦争体験」は、何人かの人の目にとまり、その支持とはげましの中でさらに書きくわえ、充実した内容になって、とうとう一冊の本になることになりました。題名も「ガラスのうさぎ」となりました。
それやこれやの動きの中で、私ははじめて著者にお会いしましたが、とても明るくてほがらかなお母さんなのに、びっくりしました。きけば高木さんには、いま二人のお子さんがいるそうです。
そのお子さんたちのみならず、戦争を知らない日本中の子どもたちに、高木さんは、ほんとうによい本を残してくれました。読者の一人として、心からのお礼をいいたい気持ちでいっぱいです。また深い土の底にいらっしゃるお父さんとお母さん、二人の妹さんたちも、これでうかばれたかと思います。あのとき無念の死をとげた蟻牲者たちは、こんにちこの世に存在する者の心の内にしか、生き残れないのですから。
一九七七年十月
(高木敏子作「ガラスのうさぎ」金の星社 p164-167)
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殺伐とした今の世に「戦争で無念の死を遂げた人たちのためにももっと命を大切にしてほしい」……と。