学習通信080620
◎働く者の現実はどれほど変わった……

■━━━━━

ベストセラー 怪読
 千野帽子(文筆家)

『蟹工船・党生活者』
 小林多喜二著
(新潮文庫、400円)

アジテーションだけじゃない

 『蟹工船』は一九二九年、小林多喜二が二五歳のときに書いた小説です。蟹工船は捕った蟹をそのまま缶詰にする船のこと。カムチャツカ沖を舞台に、過酷な労働条件に喘ぐ船上労働者たちが、堪忍袋の緒も切れてストライキに突入する。

 本書がリヴァイヴァルしたきっかけは、作家・雨宮処凛が『蟹工船』に書かれた労働者たちに、貧困に苦しむいまの二〇代から三〇代前半のプレカリアート(非正規雇用者・失業者)の姿を見たからでした。

 プロレタリア文学というとなんだか重く貧乏臭い先入観を持ってしまいますが、本書や葉山嘉樹(「ダ・ヴィンチ」二月号で貫井徳郎が『セメント樽の中の手紙』を取り上げていた)を読むと、それが偏見であることがわかります。

 作者は映画やモダニズム文学にも通じたモダンボーイだったと言われますし、小樽高商の後輩・伊藤整が『若い詩人の肖像』で回想しているように、若き日には早熟でブリリアントな文学少年でした。そのせいか文体の切れ味がよく、場面処理も洗練されていて、小説としての技術点が高い。政治的立場がまるで違う吉田健一ですら、後年この小説を高く評価しています。

 併録の『党生活者』はほとんどクライムサスペンス。当時の共産党は犯罪組織扱いでしたから、党の活動を描けば当然、裏社会を舞台とするいわゆる「ノワール小説」と化すのです。

 アジテーション小説としてばかり読むことには疑問を感じます。小林や葉山の作品は、楽しみつつ、また批判しつつ読んでみるほうがいいのではないか。

 『党生活者』を書いた半年あまりのち、作者は築地警察署で拷問にかけられ、二九歳で命を落としました。三橋敏雄に〈多喜二忌やまだある築地警察署〉という句があります。
 ◆104刷138万部
(「読売 夕刊」20080618)

■━━━━━

波音

 ◇蟹工船

 三十数年前、ベーリング海のスケソウダラ漁を取材した。何カ月も海の上で、楽しみは家族からの便り。北の海の厳しい労働に、ふと昭和初期の『蟹工船』を思った。

 すり身に加工する母船で働く人たちは、北海道や東北からの出稼ぎ農民だった。半年後、都心の工事現場で声をかけられた。「今度は陸の仕事だよ」。寂しそうな笑顔に疲れがたまっていた。

 ワーキングプアの若い人たちが最近、『蟹工船』を読んでいるという。プロレタリア、搾取などはとっくに死語、♪聞け万国の労働者も懐メロだが、働く者の現実はどれほど変わったのだろう。(修)
(「日経 夕刊」20080609)

■━━━━━

蟹工船執筆前史

 一九二六(昭和一年年、蟹工船秩父丸の遭難事件が、ついで博愛丸、英航丸などで起きた漁夫の虐待事件が当時の「小樽新聞」「北海タイムス」などで報道されます。「秩父丸の遭難に無責任極る蚊龍丸」「蟹工船博愛丸の虐待事件 この世ながらの生地獄」などの見出しが躍ります。こうした中で多喜二は、すでに二七年三月には、これら蟹工船の調査をはじめています。彼は、拓銀の資料用の新聞から関係記事の切り抜きをはじめ、それを同僚の織田勝恵や笠原キクが居残りして手伝いました。このように多喜二にとって蟹工船執筆の構想は比較的早い時期から始まります。しかし、一九二八年に入り、一、二月は山懸をむかえた第一回男子普通選挙闘争に参加、ついで三・一五弾圧に遭遇します。その作品化は彼をして「どうしても書かざるを得ない」命題でした。蟹工船のテーマは後まわしにせざるを得なかったのです。

 この年一一月末、多喜二は風間六三の依頼をうけ海員組合に関係する北方海上属員倶楽部の「海上生活者新聞」の文芸欄を受け持ち郷利基〔ゴーリキー〕の筆名で文章を書き始めます。この時、多喜二は風間に「喜んで書くよ。オレは実は今、大作にとりくんでいるのでそれとも関係があるからだ」と語ります(風間六三「小樽にて──小林多喜ニの思い出」)。この時すでに多喜ニは『蟹工船』の執筆を始めていたのです。

乗富との協働作業

 『蟹工船』の成立は、函館で独自に調査に当たっていた乗富道夫の協力抜きには語れません。ですが、多喜二も独自にこのテーマを追跡していたのです。多喜二の強い関心と先行調査なしには『蟹工船』は存在し得なかったのです。やがてそれが大河に合流することとなるのです。

 一九二七年の準備作業の過程で多喜二は思いがけない情報に接します。函館にいる乗富が蟹工船の資料集めを精力的に行っているという情報です。函館から小樽の磯野小作争議の応援に来た村上由からもたらされたものです。

 当時、村上は小樽商工会議所会頭が富良野にもっていた小作地で起こった農民争議「磯野小作争議」の応援に函館から来ていました。農民組合に労働組合が協力するためです。村上は小樽合同労組に泊まりこんで活動していました。そこに小林多喜二がちょいちょい情報をもって来たり、ビラ書きの手伝いに来ていました。ある時、多喜二から函館のサラリーマン・ユニオンをどうやって組織したのかを聞かれ、古川友一の家に集まってサラリーマン組織化の経験を話しました。また、「多喜二に北洋漁業、カニエ船の話をしたところ、もっと聞きたいというので、相当時間をかけて、カニエ船の漁夫、雑夫の虐待の話をした。……また、函館の乗富さんのところにくわしい資料がたくさんあることも話した」のです。

 乗富の消息を聞いた多喜二はすぐさま行動を起こしました。こうして土・日を利用して多喜二の函館通いがはじまったのです。

 乗富の勤めていた安田銀行函館支店はカムチャッカのソ連国営トラスト函館支社と取引関係があり、乗富自身、北洋漁業と蟹工船問題に深い関心をもって調査していました。三年ぶりに邂逅(かいこう)した乗富は多喜二に全面的に協力して資料を提供するだけでなく、停泊中の蟹工船に乗船しての船内生活の実態調査、漁夫たちとも直接会って具体的な話を聞けるよう案内します。多喜二は、小樽の海員組合情報だけでは知れない生々しい実態をつかみ、こうした苛酷労働、搾取形態を生み出し、ソ連領海域を侵犯する漁業資本とそれを護衛する帝国海軍という構図にまで迫っていったのです。『蟹工船』の作品化はこうした協働作業があってはじめて生み出されたものです。

ノート稿「蟹工船」

 その作品化に当たっては、なお解決しなければならない問題がありました。集めた資料、聞き取りや実態をどう作品化するかという作者としての至上命題です。この「蟹工船」については二つの原稿があります。当初のノート稿の冒頭と完成した原稿の冒頭とはまるきり内容の違うものでした。まず彼のノート稿を見てみましょう。そこには、今日われわれが目にする「おい、地獄さ行ぐんだで!」という有名な書き出しとはまるきり違う内容の「蟹工船」があります。この「一九二八、一〇、二八 起稿す」としたノート稿の冒頭タイトルは「北氷洋の国際漁業戦に、巨利を漁る蟹工船」で、蟹工船の仕組みから始まっています。

 翌二九年三月三〇日深更、多喜二はこの原稿を完成させています。そして東京の蔵原惟人に送った作品につけた手紙で、その意図を「この作品は『蟹工船』という、特殊な一つの労働形態を取り扱っている、が、蟹工船とは、どんなものか、ということを一生ケン命に書いたものではない」と。そして「帝国軍隊──財閥──国際関係──労働者」を描くのに蟹工船はもっともいい舞台だった、とも。

 多喜二は、努力する人、執念の人でした。彼はまずノート稿をつくり、それを何度も書き改めています。その刻苦の推敲過程で多喜二はまったく別の角度から蟹工船を描くことに成功したのです。いま私たちが目にする『蟹工船』がそれです。

 こうして「蟹工船」は『戦旗』二九年五、六月号に掲載され、前年、発禁の弾圧をくぐって普及された『一九二八年三月十五日』に続いて、ふたたび全国的な大反響をよびました。六月号は発禁処分をうけましたが、全国につくられた支局網を経由して読者から読者へと手渡されていきました。こうした『戦旗』防衛の努力により、三〇年には二万二〇〇〇人の読者を有するところまで前進し、労働者、農民、学生、インテリ、市民などの幅広い階層に読者を獲得していったのです。多喜二の作品掲載がそれに預かって力となったのです。

三冊の『蟹工船』

 『戦旗』への「蟹工船」掲載は前作の『一九二八年三月十五日』以上の反響を呼び、一万二〇〇〇部が発行されましたが、発禁処分とされました。そこで戦旗社はこの「蟹工船」に前作「一九二八年三月十五日」の削除・伏字一三ケ所を復元、付録に加えて初版『蟹工船』を出版し短期間に一万五〇〇〇部を売りつくしました。

 この初版が発売禁止処分を受けたため、処分該当となった「一九二八年三月十五日」をはずして「蟹工船」部分だけを収録した「改訂版」を発行しましたが、またもや発禁とされたため、該当文章を削除した「改定普及版」を発行したのです。こうして独自の配布網をつくって半年間で三万五〇〇〇部という驚異的普及が実現したのです。みなさんが多喜二企画展などで目にする『蟹工船』オリジナルはそのどれでしょうか。参考になればと考えその概要を書き記しておきます。

──略──

 小林多喜二は、この作品中に皇室献上品缶詰に「石ころでも入れておけ!」と書いたことから小樽時代から官憲ににらまれ、一九三〇年の「戦旗社事件=共産党資金援助事件」で『戦旗』防衛関西巡回講演の帰路、大阪で検挙されたあと、皇室侮辱の「不敬罪」で追起訴を受け、同年八月からまるまる半年間、豊多摩刑務所に投獄されたのです。多喜二はみずからも『戦旗』防衛のために、その印税部分の大半を戦旗社の活動資金として提供しました。
(藤田廣登著「小林多喜二とその盟友たち」学習の友社 p56-60)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「アジテーション小説としてばかり読むことには疑問を感じ」ると。