学習通信080619
◎「情熱」によって突き動かされる社会……
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唯物論的歴史観はつぎの命題から出発する。
すなわち、生産が、そして生産のつぎにはその生産物の交換が、すべての社会制度の基礎であるということ、歴史上あらわれたどの社会においても、生産物の分配は、それとともにまた諸階級あるいは諸身分への社会の編成は、なにがどのように生産され、生産されたものがどのように交換されるかにしたがっておこなわれるということである。
したがって、すべての社会的変動と政治的変革の究極の原因は、人間の頭のなかに、すなわち、永遠の真理と正義についての人間の認識の発展に求めるべきでなくて、生産様式と交換様式の変化に求めるべきであり、それは哲学のなかでなくて、その時期の経済のなかに求めるべきである。
現存の社会制度が非理性的な、不正義なものであり、理性は無意味になり、幸いが災いになったということについての認識の発展は、生産方法と交換形態にいつのまにか変化がおこり、以前の経済的条件にあわせてつくられた社会制度がもはやこの変化に適合しなくなったことの、一つの兆候にすぎない。
それはまた同時に、あばき出された弊害を取り除くための手段もまた、変化した生産関係そのもののなかに──多かれ少なかれ発展して──存在しているにちがいないということを意味する。
この手段は、けっして頭のなかで考案すべきものではなくて、頭をつかって現存の生産の物質的事実のなかに発見すべきものである。
(エンゲルス著「空想から科学へ」新日本出版社 p62-63)
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前掲の歯科医や眼科医のような非科学的な論説は、発表されると多くの読者を獲得しました。この事実は、差別的な人間観を蔓延させるだけでなく、子供たちの教育にも深刻な影響を及ぼしつつあります。特にここ数年に教育現場に広がっている事例をいくつか取り上げましょう。
例えば、「ニート」などに関する青少年政策の一つとして、厚生労働省の鳴り物入りで進められている「若者自立塾」があります。これは《さまざまな要因により、働く自信をなくした若者に対して、合宿形式による集団生活の中での労働体験等を通じて、働くことについての自信と意欲を付与することにより、就労等へと導くことを目的として》いるものと説明されていますが、少なくとも検索サイトで上位に表示された数十の「自立塾」のサイトを見る限りでは、「入所者の内の何人が希望する職・あるいは安定した職に就くことができたか」は一切示されていないため、定量的な評価が難しい状況です(記載は「卒業者の体験談」くらいです。なお、「就業支援」全般については、社会経済生産性本部の「ニートの状態にある若年者の実態および支援策に関する調査研究報告書」によれば、訓練期間内に就業できたものが利用者全体の43・5%で、その中で正社員として就職できたものは19・1%。全体の約8・31%にすぎません)。
この「若者自立塾」の根底を支えていると予測されるのは、「『ニート』などの若者は、心や身体のあり方に問題がある。それを『適切な』生活環境の上で矯正しなければならない」という思想です。しかし、このような思想の蔓延は「経済問題・労働問題、所得の再配分など政治により解決すべき問題を隠蔽する恐れ」があります。また、それ以上に厄介な問題は、現代の若者の心や身体の「不健康」が問題の泉源であると認識された結果、「この問題を解決するためには、若者を取り巻く環境そのものを改善するしかない」という「情熱」によって突き動かされる社会が到来することではないでしょうか。
──略──
さまざまな政策、特に若者の教育や子育ての分野で現代日本が抱える問題の原因は、「日本人の精神や心性の変化にある」と見なす精神主義が広がっています。例えば、安倍晋三元首相は、平成18年初頭に堀江貴文(ライブドア元社長)が逮捕されたことについて、事件の原因は「教育にある」と指摘し、教育基本法の改正を進めるべきだと主張しました。あるいは少子化「対策」について《若い人たちに「家族をもつことのよさ」》《「家族がいることのすばらしさ」を教えていく必要があるのではないか》と述べています。そしてこのような思想は、教育再生会議の報告書などに反映されています。
政権に近い立場にいる人たちにより、問題の「根本的な」解決のためには、「日本人が、(経済構造を問題視するのではなく)かつての希望や伝統を取り戻さなければならない」などと「提言」されるのはよくある話ですが、本章では、元文科大臣らによる「こころを育む総合フォーラム」を取り上げます。設立趣旨文は、以下のように書かれています。
家庭や教育現場における人間関係の乱れ、公的機関や企業における不祥事、そして心の凍りつくような残虐な事件の発生など、いずれも日本人の精神の衰退、かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失を示す兆候ではないでしょうか。物質的な豊かさにともなう心の世界の空洞化が、危機的な様相を呈しているというほかはありません。
なぜ、そのようなことになったのか。むろん原因はいろいろ考えられるでしょう。だが第一に見過ごすことのできないのが、やはり教育の問題だったのではないでしょうか。戦後の教育の歩みをふり返るとわかりますが、そこではつねに知識の習得に力点がおかれ、科学技術と経済社会の進展を重視する方策がとられてきました。むろんそのこと自体は至極当然の選択でしたが、しかしそのため文化、芸術、宗教などの問題が周縁的な扱いしかうけてこなかったことも否定することができません。その結果、人間の精神性と倫理感を育む「心の教育」がおろそかにされてきたのだと思います。このような反省に立つとき、われわれは今や、自立と創造を目指す「真の知力」の重視という旗を掲げるとともに、もう一つの教育軸としてこの「心を育む」環境づくりのためわれわれの知恵と努力を結集すべき段階にきていると考えるものであります。
この「フォーラム」は、少年犯罪が急増しているなどの間違った社会認識である《かつて日本人がもっていたはずの倫理性の喪失》に基づく安直な「提言」を生みました。この「提言」には、広田照幸(日本大学教授)などから批判されているような「家庭の教育力の衰退」の盲目的な信奉や、「インターネットなどの情報環境は子供たちの精神を衰退させる」などの根拠のない俗説が見られます。
彼らが理想化する「かつて」は、本当に家庭の「教育力」は高かったのでしょうか。この点については、歴史的な研究から異議が突きつけられています。例えば広田は、明治以降のしつけに関する研究を通じて、少なくとも1950年代半ばまでの農村部においては、子供の礼儀や人間形成については家庭は無関心であり(家庭が子供に対して厳しく対応したのは「家の仕事を手伝わないこと」であったようです)、学校についても「読み書き計算といった将来役に立つかもしれない知識を教えるところ」くらいにしか認識されていなかったことを明らかにしています。
しばしば「現代家族の崩壊」を示す事例として積極的に取り上げられる「親殺し」や「児童虐待」もまた、戦前にも存在していました。
──略──
「フォーラム」の「提言」の序文には《第一、このたび「こころを育む総合フォーラム」を立ち上げましたのは、それが何よりもわれわれ自身の内心にむかって問いかける試みだったということです。このようなことはまずわれわれ自身の問題として考え、そして実践していかなければそもそもやるべきではない、というのがメンバー全員の一致した気持でした》と謳われています。しかし、そのように考えるならば、なぜ自分たちのステレオタイプな社会認識について問いかけ、批判的な考えに至らなかったのでしょうか。
政治による所得の再配分や、あるいは福祉の観点を考慮せずに日本人──若者・若い親──の精神を見直さなければ(あるいは変えなければ)日本は「再生」しないという「提言」が、次々とメディアに現れ、消費されてはまた消えています。
(後藤和智著「「若者論」を疑え」宝島新書 p181-190)
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◎「その時期の経済のなかに」と。