学習通信080613
◎『蟹工船』ブームを甘く見てはならない……
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なぜ今『蟹工船』なのか
小林多喜二にすがる
危うき現代社会
産経新聞文化部 桑原聡
ワーキングプアを中心にブームの「蟹工船」。
彼らがプロレタリア文学にひかれる理由とは……
「『蟹工船」の取材をしているんだ」
「へえ、文化面でどう扱うんですか」
「売れてるんだよ」
「私も家族で行ったことがありますが、値段もそこそこですからね」
「いったい何の話?」
「だから蟹工船でしょう」
「そう小林多喜二の『蟹工船』」
「えっ、蟹懐石の蟹工船じゃないんだ」。
会社で実際にあった会話だ。そもそも蟹懐石の蟹工船などという店は知らなかった。この店の社長がどういうつもりでこんな店名にしたのか、想像すらできない。なぜなら「蟹工船」から連想されるのは、地獄、監獄、糞壷、虱、蚤、リンチ、少年との交接といったおぞましい言葉ばかりだからだ。それが料理屋の名前になるとは。筆者は決して糞壺で食事などしたくはない。何事も水に流すと言うべきか、日本人の過去に対する関心のなさを痛切に感じないわけにはいかない。昭和は遠くなりにけり、である。
それなのに平成の日本で、七十九年前に発表された多喜二の『蟹工船』が猛烈に売れているのだ。不可解としか言いようがない。版元の新潮社によれば、文庫化した昭和二十八年以降、平均で年に五千冊を増刷するペースだった。ところが今春、七千部を増刷しても追いつかず二万、三万と計五万冊を増刷、それでも足りず、さらに五万冊を追加したという。
いったい誰が買っているのか。どうやら二十代、三十代の「ワーキングプア」と呼ばれる人々が強い関心を示しているらしい。新聞各紙はこれを現代の格差社会とリンクさせて大々的に報じた。いわく「ワーキングプアの熱い共感を集めている」と。かくいう私も産経新聞でそのように報じた。時ならぬ『蟹工船』ブームから何が見えるのか。
地獄、糞壺、リンチ……
本誌の読者には釈迦に説法だろうが、一応説明しておく。『蟹工船』はプロレタリア文学を代表するといわれる作品。海軍の保護のもとオホーツク海で操業する「博光丸」で暴力的な強制によって酷使される出稼ぎ労働者たちは、過労や病気で次々と倒れてゆく。やがて彼らは人間的な待遇を求めて団結、ストライキに踏み切るが海軍によって鎮圧される……という内容。多喜二は大正十五(一九二六)年に発生した「博愛丸事件」に触発されて取材を始め、世界恐慌の起こった昭和四(一九二九)年に発表した。
そもそも「博愛丸事件」とはどのような事件だったのか。当時の小樽新聞によれば、「博愛丸は四月十六日、函館から漁夫雑夫二百五名を載せ、カムチャッカ西海岸エッチヤ沖合で就漁していた。労働過激で、かつ食糧、飲料水の粗悪なため、二百余名漁夫雑夫の内約六割まで栄養不良、脚気患者を出した。その内二十名はほとんど重病で、とうてい労働に従事することができないのに、事業主の松崎ならびに総監督の阿部、阿部の養子で元巡査の西山等は、手に手に樫のベシ(蟹の甲を挟む道具)、ハンマーなどで、所を嫌わずなぐりつけ、ほとんど立つことも出来ぬ重病者を強いて就業させたため、青森生まれの今市某はついに死亡した。
彼らはなおあきたらず、睡眠不足のために居眠りをしていた青森生まれの雅夫、佐藤定一を発見するや、野獣のごとく暴れ出し、襟髪を掴んで引きずり倒し、棒、ハンマーで滅多打ちにした上、胴中を鉄鎖で縛し、ウインチで吊り上げ、さらに松崎は、綿にアルコールをひたして、同人の背部にあて、火をつけるなど、狂暴な振舞いをした外、その漁夫雑夫の内にもほとんど 一度としてこれ等の虐待を受けない者はいない。総監督と称する阿部は常に、『俺の養子は元函館水上署の警部だから、貴様の一人や二人を撲殺しても何でもない』と豪語していたと言われている」
松崎や阿部の取り調べを行った函館水上署から函館地裁検事局に送付された調書には「函館市弁天町大菱商会の経営になる蟹工船は、漁雑夫船員共二百五十七名を乗船させ、四月十六日、カムサッカ西海岸カフランに向け出帆したが、五月二十七日午後十一時ころ、松崎、阿部の両名は、共同して、雑夫佐藤貞一が病気のため数時間の休養を求めたのに対し、灸点をすると称して、左大腿部外側にアルコールを浸した綿に点火したものを持って、一銭銅貨大の火傷を負わせた、同月二十七日両名は、佐藤貞一を船内倉庫に午前八時より午後十一時まで自由を束縛して監禁し、さらに同夜十二時より、同人を翌朝四時半まで、製缶製造室に自由を奪って監禁した。雑夫長官下男は七月六日、佐藤貞一が疲労の表情を現すと、見せしめと称して。樫の棒で数回肩部を殴打し、さらに同人を荷物起重機に結縛し、数時間にわたって吊り下げた(以下略)」とあり、新聞報道に誇張のないことが分かる(以上は小樽商科大学「商学討究」に掲載された倉田稔「蟹工船および漁夫雑夫虐待事件」によった)。
「本物の貧乏」のリアル
虐待はもちろん博愛丸だけで起こったわけではない。英航丸では、脱走しようとした雑夫四人を半殺しにしたことがきっかけで、自然発生的なストライキが起きており、さらには、漁を優先して付近でSOSを発する秩父丸を見殺しにした。多喜二は博愛丸と英航丸の事件を入念に調べたうえで『蟹工船』の執筆にかかった。
資本主義、社会主義にかかわりなく、どこの国であろうとその工業化勃興期には、人間はモノとして扱われた。『女工哀史』しかり、『蟹工船』しかりである。多喜二は蟹工船という非人間的状況がまかりとおる労働現場を迫力ある筆致で描写したうえで、その待遇を改善するには団結しかないと訴えた。われわれは『蟹工船』を読むことによって、かつてこの日本に存在した「本物の貧乏」と、生きるために彼らが強いられた過酷な労働を知ることができる。その意味で、近現代史の生きた史料としても大きな価値を持つ作品といえる。この点はきちんと評価しておきたい。
ただ、共産党員であった多喜二は、作品に共産主義に対する夢を盛り込むことを忘れてはいなかった。大暴風雨のためにカムチャッカの岸に打ち上げられた川崎船(蟹工船に積まれている小型キャッチヤーボーート)のエピソードがそれである。
漁夫たちは四人暮らしのロシア人家族に助けられ、色々と世話をしてもらう。二日後、漁場の蟹工船に戻る段になると、支那人一人を含むロシア人のグループがやって来る。日本語が多少できる支那人が通訳となって、しきりにプロレタリアート独裁のPRをする。
「日本の国、駄目。働く人、これ(顔をしかめて、病人のような恰好、)働かない人、これ。えへん、えへん。(偉張って歩いてみせる)」「ロシアの国、この国。働く人ばかり。働く人ばかり、これ。(偉張る。)ロシア、働かない人いない。ずるい人いない。人の首しめる人いない。──分る? ロシアちっとも恐ろしくない国」
若い漁夫が「分る、本当、分る!」と反応すると「働かないで、お金を儲ける人いる。プロレタリア、いつでも、これ。(首をしめられる恰好、)──これ、駄目!」
日本の現実に対しては冷徹な目を持っていた多喜二だったが、共産主義に対してはあまりにもナイーブな幻想を持っていたことが分かる。これは現代の左翼にも通じるところだろう。とはいうものの、共産主義に夢を見ることができた多喜二は幸せだったともいえる。というのも、多喜二が虐殺された五年後、樺太の日ソ国境を越えて憧れの地であるソ連へ亡命した女優の岡田嘉子と愛人である共産主義者の演出家、杉本良吉は、スパイの嫌疑をかけられ、岡田は幽閉、杉本は無情にも銃殺される。さらには野坂参三に密告された山本懸蔵もソ連で処刑されるのだから。
日本共産党、白樺文学館、雨宮処凛……
仮眠状態にあった『蟹工船』の復活を企図したのが、日本共産党と白樺文学館であった。両者とも『蟹工船』こそが、近年の日本を覆う「自己責任論」に囚われているワーキングプアにとっての解毒剤になるという認識を持っていたように思われる。
白樺文学館で一昨年十一月に大学生や若年労働者をターゲットに『マンガ蟹工船』(東銀座出版社)を出版。さらに、多喜二の母校・小樽商科大学と共催して「蟹工船』読書エッセーコンテストを実施する。その審査員として名前を連ねているのが、「天皇の逝く国で」で知られるシカゴ大学教授、ノトマ・フィールド、朝日新聞前編集員の由里幸子らである。
日本共産党は昨年十二月八日の「しんぶん赤旗」に「小林多喜二の『蟹工船』を読んで『いまの青年の働かされ方も同じだ』という声がでたそうですが、私も何千年前に読んだ記憶ですが、場面のリアルさが胸に焼き付いています。あの小説はモデルがあったのですか?」という読者の質問に答える形で『蟹工船』について懇切丁寧に解説している。
そして一月九日の毎日新聞に「プレカリアート(不安定なプロレタリアート)のマリア」と称される雨宮処凛と作家の高橋源一郎の対談「格差社会:○八年の希望を問う」が掲載される。
三十三歳の雨宮は「昭和初期の作品ですが、たまたま昨日、『蟹工船』を読んで、今のフリーターと状況が似ていると思いました」と発言する。そして「蟹工船がリアルに感じられるほど、今の若い人の労働条件はひどい。派遣で働いて即ネットカフエ難民になる例もある。今の貧困層には、いつどん底に落ちるかわからない不安があります。アパートも敷金礼金ゼロの安い物件だと、家賃滞納があればすぐ追い出され、ホームレスになってしまう。こないだも、仕事を辞めてそのままホームレスになった元正社員に会いました。バイト先もなく、親がいないから帰る場所もなくて二週間のまず食わず。ミックスナッツだけで十日間暮らした人もいます。友達も貧乏で、友達の家に転がり込んだら二人で一気にホームレスになったり」
これに五十七歳の高橋が「僕を含めた上の世代の多くは、日本にこんな貧困層がいると実感できないのかもしれません。当事者の声を聞いても、「大げさだ。そこまで貧乏になるはずがない』との思いこみで否定してしまう。僕だって最初は雨宮さんの話をプロパガンダの一種ではないかと思っていたんです」と同調する。
雨宮の言葉にいち早く反応したのが、東京・上野の大型書店に勤める元フリーターの女性店員(二十八歳)だった。彼女は「この現状、もしや……『蟹工船』じゃないか?」と書いたポップを作り、百五十冊を仕入れ平積みにして仕掛けた。するとそれまでは週に一冊がせいぜいだった同書が二ヵ月半で約九百冊も売れたという。商業出版社である新潮社がこの動きを見逃すはずがない。メディアと全国の書店に「『蟹工船』が売れている」との情報を流すのである。一書店のブームが燎原の火のように全国に広まるのにさして時間はかからなかった。
さらに二月三日付「赤旗日曜版」は雨宮と奥原紀晴編集局長の対談を掲載する。ここでは「いま多くの青年がひどい労 働環境のなかでも、(自分の努力が足りないんだ)《自己責任だ》と思いこまされています。そうじゃないんだよ、原因はちゃんとある、それを見極めて、手を組んで一緒に変えていこうじゃないか、というメッセージを送っているんです」と話す奥原に、「私も最初は、《自己責任》という言葉に、政治の責任を覆い隠す意図があるなんて全然知らなかった。自分の状況が悪いのは全部自分のせいだから、助けられる価値がない、そんなふうに思えて……。自分の周りの人はそれを真に受けて自殺した人もいる。餓死のような自殺も結構あったんですね。本人は自分を責めちやう。政治や社会に、怒りが向かう回路が最初から絶たれてる気がするんです」と雨宮は応じ、政府の主張する「自己責任論」を手厳しく批判する。そしてその一週間後の二月十日には、『蟹工船』読書エッセーコンテストの入選作をまとめた『私たちはいかに「蟹工船」を読んだか』(遊行社)が出版される。以上が一連の流れだ。
この行き場のない感覚
ワー・キングプアたちは『蟹工船』を読み、何を感じたのか。コンテストの大賞に選ばれたのは二十五歳の女性の「二〇〇八年の『蟹工船』」だ。彼女はこう記す。
「私が『蟹工船』から受け取った第一印象は、現実世界への虚無感と絶望だった。私たちはもう立ち上がれないと思った。小林多喜二が描いた時代から遥か遠くにいるというのに、現代の目本社会の不気味な搾取構造は変わっておらず、『ロストジェネレーション』と呼ばれる私たちがその最前線で犠牲になっている。(略)小林多喜ニが生き描いた『終わった歴史』は世紀を超えて繰り返されているのに、私たちは現状への虚無感を抱えて、彼らのように立ち上がれないと思っている。この行き場のない感覚をどうしたらよいのだろうか」
彼女はこうも言う。「多分、諸悪の根源は、一九九五年の労働市場の流動施策だ。その時私は十三歳で、もちろん参政権などない。戦後日本の雇用慣行であった終身雇用が崩れていくミレニアムの幕開けは労働者派遣法の全面的な実施であった」。その結果、大学を卒業した彼女を待っていたのは「『多様な働き方』として推進されたパート・派遣・請負──という新しい雇用形態」だった。
「この行き場のない感覚をどうしたらよいのだろうか」という言葉が印象的だ。ベルリンの壁の崩壊とソ連の解体を経験し、共産主義国である中国と北朝鮮の姿を知るわれわれは、もはや共産主義に夢を見ることはできない。かといってこの格差社会の中で、底辺に落とし込まれた自分の境遇を改善する道筋はなかなか見えてこない。
このままでは「殺される」?
準大賞となったのは、ネットカフエから応募された「私の兄弟たちが、ここにいる」。これはもっと深刻だ。筆者の三十四歳の女性は「私も労基法以下の不安定労働を強いられている派遣社員なので、周旋屋の紹介で働く彼らとは立場も同じだ。中間業者がいるあたりが。当時にも、マージンをむしり取って食いつぶす業者が存在した事実は学校の歴史の授業でも習わなかった。『殺される』という言葉が作中に何回も出てくるが、私もよく、『このままでは社会に殺される!』と感じている」と、人材派遣業者への怨嗟をにじませる。
そして彼女はこう結ぶ。「『蟹工船』を読むことは、氏が埋めたタイムカプセルを掘り起こし出して、中に入っている几帳面に折りたたまれた手紙を開いて読んでみるようなものだ。手紙には、次のアドバイスとエールが書かれてあった。イ、一人で戦っては駄目だ。労働組合に加入して(なければ組織するなどして)団結してたたけ! ロ、団結する仲間は、多ければ多いほどよい! ハ、泣き寝入りしないで、最後まで諦めないで、勝つまで攻撃せよ──そうすれば、あなたは勝つ!」
彼女は多喜二のメッセージを真正面から受け止め、団結しか道のないことを訴える。ただ皮肉なことに、現代の派遣社員よりも蟹工船の労働者の方が恵まれている一面があるのである。それは蟹工船の労働者が同じ船、つまり同じ劣悪な労働環境でもがき苦しみ、敵も明確であるということだ。つまり、孤立させられている現代の派遣社員より、団結しやすいともいえる。
ここまで『蟹工船』ブームを意識的に引っ張ってきた日本共産党や左派が、こうしたワーキングプアをどう誘導していこうとするのか、要注意である。
われら保守だからこそ
識者はこのブームをどう見ているのか。精神科医の香山リカは産経新聞で「低賃金や重労働にあえぐ若者の多くは『こうなったのは自分のせい』と思い込んでいる。自己責任論の高まりや非正規雇用を正当化する社会の仕組みがおとなしいフリーター≠スちを生んできた」と分析したうえで、「『働いているのに生活できないのはおかしい』『人間扱いされているとは思えない』と気づき、社会に向けて自分たちの状況を発信し、待遇の改善を求める若者も増えつつある。この本を読むことで彼らは、いつの時代も不当な働き方を強いられる労働者がいることに痛みを感じつつ。時代を超えた連帯を、実感しているのではないでしょうか」と分析。
文芸評論家の川村湊は毎日新聞で「『蟹工船』の労働者は、形式上、本人の意思で船に乗っている。だが、そこを脱する機会がない。これは、若者をフリーターから抜け出させない今の経済構造と似ている。輸出用の缶詰を作る労働者が搾取される構図も、今の世界資本主義のあり方を先取りして表現した。現代の若い読者には、この物語のような決起への呼びかけに対する潜在的な欲求があるのかもしれない」と論評する。
高橋源一郎の言葉ではないが、大人たちはこれまで、ワーキングプアが訴える窮状を「この日本でそんなことはありえない」と考え、「世間をなめているから」「努力が足りないから」といった言葉で彼らを切り捨ててきた。われわれは、殊に保守を自負する陣営は、左派が完全に時流に乗るよりも前にワーキングプアの実態を正確に把握したうえで、彼らを救済する方策を考え実行する時期にきている。多喜二没後七十五年に起こった『蟹工船』ブームを甘く見てはならない。政府与党と財界は本気で慌てるべきだ。
(「正論 08年6月号」産経新聞社 p266-271)
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朝の風
『正論』六月号の桑原聴の「なぜ今 『蟹工船』なのか 小林多喜二にすがる危うき現代社会」に見える、「蟹工船」の読み方には特異なものがある。
桑原は、蟹工船の漁夫たちがロシア領土に漂着し、そこで現地の人たちに社会主義について感化されるというこの作品のエピソードの一つを取り上げ、多喜二を「共産主義に対してはあまりにもナイーブな幻想を持っていた」と決めつけたものだ。ここはそんな単純な話ではなかろう。
多喜二も描いたように蟹工船はおよそ航海法も工場法も無視した、監督の暴力のみが支配する無法世界だった。そうした日本の超過重労働は、当時難航していた日ソ漁業交渉でソ連側が取り上げた問題の一つである。新経済政策(ネップ)をとるスターリン圧政前のソ連が、自らの領海内での労働条件の改善を要求する、その正当なイニシアティヴの発揮に若き多喜二が希望を見い出したとしても、不思議ではない。蟹工船の母港函館では、操業先から「赤化」して帰る労働者を警察が取り締まっていたという報道記事もある。
多喜二は国際関係についても根拠をもって、この作品を書いた。『正論』の筆者の場合、社会主義への偏見が作品の「ナイーブな」読み方を妨げたのではないか。(乾)
(「赤旗」20080613)
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◎「蟹工船」の読み方……。