学習通信080604
◎「空気を読む」能力がないと……
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ケース3 「空気読めよ」
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派遣仲間でお昼を食べるとき話題になることといったら、おいしいお店とか昨夜のドラマの話みたいな、他愛もないことばかり。どうでもいいことばかりだから、適当に話ができるんだけど、どんな話題になっても、みんな「そうそう、そうだよねえ」と話を合わせる。不自然なくらい、合わせるのね。こないだ、「ペットボトルのお茶はどのメーカーがいちばんおいしいか」って話になって、一人がS社がおいしいと言ったら、みんな「そうそう私も大好きー」みたいなノリで盛り上がった。でもその一〇日くらいあと、今度はビールの話題で、だれかが「S社はビールおいしいけど、お茶はイマイテ」って言ったら、またみんな「そうそう、私もあのお茶は好きじゃないんだ」って。心の中で、「前に言ってたことと真逆じゃん」って思ったよ。
でも、その雰囲気、ある意味わかる気がする。仕事の打ち合わせなんかでも、正社員の人含めて、上司の言うことに異を唱える人はあまりいないもん。いつだったか、まだ若い正社員クンが、会議でちょっと変わったこと言ったら、あとで先輩に「空気読め」って言われたってぼやいてた。
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この事例はまず、派遣社員同士の何気ないおしゃべりについて述べています。何人かのグループなのだと思いますが、みんながその場の中でもっとも中心的な人に話を合わせている──論理矛盾があろうとお構いなしに話を合わせ、ある「多数派」のようなものが生まれているという話です。その「多数派」が共有している暗黙の中身を、ここでは「空気」と名づけていますね。それは、その「多数派」に何となく違和感を感じているこの語り手が、その状況と、派遣先の会社で見聞きしたこととの間に共通するものを感じているからです。その会社では、若い正社員が、多数派とは違う意見をいったら、「空気を読め」と圧力をかけられていたというわけです。
この比喩のもつ「重さ」のわけ
「空気を読め」というフレーズは、ごく短く、音の面でも比較的軽いため、多くの場面で使われるようになりました。しかし内容的にはむしろ逆に重いものではないでしょうか。
これはきわめて比喩的な表現なのです。物理的に考えて、「空気」は「読める」ものではありませんから。「空気」は、人にとっては、たとえば吸ったり吐いたりするものですが、その意味では、呼吸という、人が生きていくうえで最低限必要な行為と結びついています。そういう「空気」を使った比喩だけに、「空気を読め」という言葉には、「生きるか死ぬか」さえも連想させるような、ある種の重さが伴っています。
「気」という言葉は、日本語の中で様々に使われているものです。人間の外側の空気だけでなく、ある集団が何らかの気分などを共有している場合「雰囲気」といいますし、空気を吸って何かをしている場合、「元気」があるとか、「本気」だとかいう表現もします。人間の精神性や身体的状況などすべてを組み込んだ、人間の活動そのものとかかわることも多いのが「気」という言葉です。
ここでいわれている「空気」も、その場にいる人々の主張を含んだ状況の全体をさしているといっていいでしょう。文学でよく使う言葉でいえば文脈とかコンテクストといったものともいえると思います。そして、それを「読め」ということは、その「空気」が、あたかも文字テクストのように明示的に現れているはずだということを前提にした比喩的表現だといえます。つまり、この「空気」は、「文字」や「文章」みたいなものなのだという、もう一つの比喩を、「読めよ」という言葉は含んでいるのです。「空気を読め」という以上、「今、お前は空気を読めていない」ということが前提になっているわけで、この比喩に即していえば、それは「お前は字が読めていない」というのにも近い、非常に攻撃的なあるいは差別的な言葉になっているわけですね。
つまり、その人の言葉の使い方が、その場の人間たちの気持ちを把握していないだけでなく、言葉そのものが使えていない、という非難になってしまうという、比喩の重なりあいになるのが「空気を読め」という言葉なのです。この言葉は、とても強く人を傷つける力を持っています。それは、その人のその場での存在を全否定するだけの力を持つような、攻撃的な言葉だからです。なぜなら、それは「空気を読め」と言われてしまった人の、言葉の習得の過程全体を、直接に否定するような、比喩ではない現実性を持っているからです。
赤ちゃんとエピソード記憶
そうです。人間は、「空気を読む」ことによって言葉を初期段階では習得するのです。どういうことなのかを、発達段階に即して考えてみましょう。
お母さんの胎内にいるときから、赤ちゃんは、人間の言葉を聴き分ける能力と記憶を持っています。そして産まれた瞬間から、「オギャー」という泣き声で、自分のピンチを周囲の人間(大人たち)に訴えて、ケア(注意を払い、気を遣うこと。転じて、心配をする、世話をする、保護をする、介護する、監督する、管理する)を要求します。それに対し周囲の人間は、「ヨシ、ヨシ」とか「イイコネ、ナカナクテイイヨ」などの慈愛のこもった声=言葉をかけながら、赤ちゃんのピンチを取り除いてくれるわけです。
赤ちゃんにとってこの基本的なピンチは、おなかがすいておっぱいが飲みたいときと、排泄をしたときです。放置されたら死んでしまうからです。ですから授乳とおムツの取り替えがケアの中心です。この状態が生後六ヵ月までつづきます。
六ヵ月たつと、赤ちゃんは寝返りをうち、やがてハイハイができるようになります。同じころ、次第に離乳食に切り替えていきますから、赤ちゃんはおっぱいへの欲望が制限されてしまうので、口や口唇に欲求不満を抱いています。ですから、ハイハイしながら、見つけたものは何でも手でつかんで口に入れようとします。これは手を使える二足歩行動物としての人間となる第一歩でもあります。
当然、危険なものを口に入れそうになるときもあるわけですから、周囲の人間はそれを制止しようと考えます。ハイハイをして、周囲の人間から離れたところで、赤ちゃんは行動をしているわけですから、「ヤメナサイ!」「ダメョ!」といった、今まで聴いたことのないような、槍のように鋭く突き剌さる大きな声が、どんどん降ってくるようになるわけです。そのたびに、赤ちゃんはビクッとしてやろうとしていたことを止めることになります。この段階では条件反射で、言葉の意味がわかっているわけではありません。
赤ちゃんは、周囲の人間にケアされていないと生きていけないということを全身(全心)でわかっていますから、禁止されたり制止されたりすることは、やらないようになります。しばらくすると、これからやろうとしていることが禁止や制止の対象になるかどうかを、周囲の人間の反応を確かめながら判断するようになります。このことが、実は、「空気を読む」ことのはじまりなのです。
周囲の人間に見捨てられないために、〇歳児は、全身全霊で集中し、やってはいけないことを記憶に刻みこんでいきます。このとき全力で働いているのが〈エピソード記憶〉です。〈エピソード記憶〉とは、ある出来事を、はじめからおわりまでの行為のまとまりとして、挿話=エピソードのように記憶しておくことです。つまり、その場の「雰囲気」からはじまり、五感(視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚)でとらえたあらゆる情報を、その場を構成していた他の人間の動作や声をその場にいた自分のあり方とかかわらせて、一つの場面として記憶しておくわけです。この〈エピソード記憶〉が、「空気を読む」ことと言葉を習得することの前提になります。
手続き記憶と人間の社会化
〇歳児が接するのは、周囲の大人たちにケアされる際に発せられる慈愛に満ちた言葉か、禁止と制止のための槍のように鋭く突き剌さる言葉の二種類です。けれども、周囲の大人たちは、それとはまったく異なった言葉、すなわちお互いの意思を通じさせあう、いわゆるコミュニケーションのための言葉を使っています。〇歳児から見れば、それはもう魔法のようなことです(子どもたちが、魔法使いが好きで、魔法使いの呪文に魅せられるのは、この記憶があるからです)。
自分の中には、渦巻くような表現したいことの欲望があるのに、「オギャー」としか泣けない。けれども周囲の人間たちは、お互いに特別な声をそれぞれの場面で出し合って、何だかとってもよくわかりあっているようだ。言葉を、大人のように発することは、〇歳児にとってみれば、その大人たちの中で、生き延びていく最大の憧れの手段に映るのです。いつか自分も、周囲の人間たちのように、言葉としての声を発してみたい。こうした欲望に即して、言葉を操る生きものとしての人間には、遺伝子に書きこまれた言語習得能力が組み込まれているわけです。
この能力を発揮しはじめるのが一歳児です。口と口唇と喉などの筋肉が、赤ちゃん泣きの「オギャー」ではなく、言葉を操る生きものとしての人間にふさわしいかたちで調律されてくると、「マンマ」とか「ママ」「パパ」といった両唇音の噛語を発しはじめます。
次の段階で子どもたちは、〈エピソード記憶〉に基づいて、周囲の人間たちが、かつてやっていたと同じ場面状況の中で、同じ音声を発してみるわけです。最初の発話は、はじめての発声です。みんなが「バイバイ」(これも両唇音)といって、手を振っているのを見てきて、自分でも「バイバイ」と言って手を振ってみて、「ワアー、よくできたね!」と大喜びで周囲の大人たちが受け入れてくれたときに、子どもは、これで認められたと思って、そのときの口や口唇や喉の動かし方を〈手続き記憶〉として記憶し、次にも反復してみるわけです。
〈手続き記憶〉とは、人間社会の中で生きていくために必要となる一連の身体行為を、順番に即して行うことを記憶することです。自分でスプーンを握って食べられるようになる、といったことから、スポーツ選手のような高度な身体技能、あるいは銀行で預金をおろす手続きなど、ありとあらゆる人間としての社会的実践は、この〈手続き記憶〉によって支えられているのです。
言葉を発するということは、〈エピソード記憶〉に基づいて、その場の人間たちの「空気を読む」ことによって、その場にふさわしい行為として言葉を発する実践を、それが、その周囲の人々に喜びと積極的評価によって迎え入れられる、そのことを〈手続き記憶〉にとどめ、何度か同じようにして、やはり受け入れられた、という経験によって支えられているのです。もし、迎え入れられたり、受け入れられたりしなければ、子どもは必死で一度発した声音を修正し、受け入れられるまで、つまり、自分の発した声音が、人間の言葉として周囲の大人たちに受け入れられるまでがんばるわけです。
この、言葉を発して周囲の人々に受け入れられるということが、子どもが、人間になる、周囲の人間たちと関係を持つようになれるということが、社会化するということなのです。つまり、「空気を読む」能力は、その人の社会化する能力そのものなのです。だからこそ、「空気を読めよ」という言葉は、その人に「空気を読む」能力がないということをつきつける、その人の人間としての全ての経験を否定するような、排除の言葉になるのです。
(小森陽一「理不尽社会に言葉の力を」新日本出版社 p26-34)
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ロバート・オウエンは、人間の性格は一方では生まれながらの体質の産物であるが、他方ではその生涯をつうじて、とくに成長期をつうじて人間をとりまく環境の産物であるという、唯物論的啓蒙思想家たちの学説を身につけていた。
(エンゲルス著「空想から科学へ」新日本出版社 p40)
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生まれるとき、子どもは叫び声をあげる。子どもの最初の時期は泣いてすごされる。子どもをなだめようとして、人はゆすぶったり、あやしたりする。そうかと思えば、子どもを黙らせようとして、おどしたり、ぶったりする。わたしたちは子どもの気に入るようなことをするか、わたしたちの気に入るようなことを子どもにもとめるかする。子どもの気まぐれに従うか、わたしたちの気まぐれに子どもを従わせるかする。中間の道はない。子どもは命令するか、命令されなければならない。
だから、子どもが最初にいだく観念は支配と服従の観念である。話すこともできないうちに子どもは命令する。行動することもできないうちに服従する。そしてときには、自分の過失を知ることもできないのに、いや、過失をおかすこともできないのに、罰をうける。こうしてはやくから幼い心のうちに情念をそそぎこみながら、人はそれを自然のせいにする。そして、骨を折って子どもを悪くしておきながら、子どもが悪いといって嘆く。
こんなふうに、子どもは女たちのあいだで、彼女たちの気まぐれと自分の気まぐれの犠牲になって、六、七年をすごす。そしていろんなことを教えられたのちに、つまり子どもに理解できないことばや、なんの役にもたたないことを覚えこまされたのちに、人為的に生じて情念によって天性が押し殺されたのちに、この人工的なものは教師の手にあずけられ、教師はもうすっかりつくられている人工的な芽を完全に伸ばすことになり、子どもにあらゆることを教えるが、自分を知ること、自分自身から利益をひきだすこと、生きて幸福になることだけは教えない。
そして最後に、奴隷であると同時に暴君であり、学問をつめこまれていると同時に常識をもたず、肉体も精神も同じように虚弱なこの子どもは、社会に投げだされて、その無能ぶり、傲慢ぶり、そしてあらゆる悪癖をさらけだし、人間のみじめさと邪悪さを嘆かせることになる。嘆くのはまちがいだ。そういうものはわたしたちの気まぐれから生じた人間なのだ。自然の人間はそれとはちがったふうにつくられる。
だから、人間がその生来の形を保存することを望むなら、人間がこの世に生まれたときからそれを保護してやらなければならない。生まれたらすぐにかれをしっかりつかんで、大人にならないうちはけっして手放さないことだ。そうしなければとても成功はおぼつかない。ほんとうの乳母は母親であるが、同じように、ほんとうの教師は父親である。
父と母とはその仕事の順序においても、教育方法においても完全に一致していなければならない。母親の手から子どもは父親の手に移らなければならない。世界でいちばん有能な先生によってよりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子どもはりっぱに教育される。才能が熱意に代わる以上に、熱意は才能に代わることができるはずだ。
しかし、用事が、つとめが、義務が……。
(ルソー著「エミール 上」岩波文庫 p44-45)
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◎「言葉を発して周囲の人々に受け入れられるということが、子どもが、人間になる、周囲の人間たちと関係を持つようになれるということが、社会化するということ」と。