学習通信080306
◎日程表に従って、定時に……
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近代的時間秩序
軍隊の果たした役割という点て、最近注目されているのは時間秩序の問題である。成沢光によれば、近代の日本人は、「日程表に従って、定時に、集団で、定式化された行動(軍事訓練から食事・排泄・休息など生活行動まで)を一斉にすること」を「平時の軍隊生活において訓練された」のである。
確かに、近代化の初期の段階では、どこの国の経営者も、労働者の欠勤や遅刻、就業時間内の不規律に悩まされた。このため時間的規律の習慣を身につけた労働者を新たに創り出すことが経営者側の大きな課題となった。日本の場合もこの点は全く同様であり、すでに時間的規律化か達成された欧米人の眼には、日本の労働者は怠け者に映った。こうした中にあって、軍隊は、工場・学校とならんで、人間を近代的時間秩序の中に馴致してゆく重要な場となっていたのである。
こうした近代的な時間秩序は、いうまでもなく「生活の時計化」を意味している以上、少なくとも幹部の二人一人が時計(懐中時計、あるいはより機能的な腕時計)を所持しているかどうかが大きな意味を持った。日本軍の場合、すでに一九〇〇(明治三三)年の北清事変の段階で、下土官クラスまで腕時計を所持していたといわれているが、この段階での腕時計は、商品として市販されていたものではなく、普通の懐中時計を各自が改造したもののようだ。
その後、普通の兵土の間にまでしだいに時計が普及してゆくことになるが、その直接のきっかけは、日露戦争を画期とした戦術上の変化だと思われる。つまり、日露戦争における機関銃の本格的使用は戦闘の様相を一変させ、猛烈な集中火力によって死傷者が続出するという新たな状況を生み出した。このため陸軍では、第一線では分隊単位の躍進(敵に向かう前進)を原則とすることとし、広くひろがる散開隊形の場合でもできる限り万人一人の兵員の間隔をひろげるようにするなど、従来の戦術の大幅な手直しをよぎなくされた。
そして、このことは、従来のような将校の直接の掌握下にある中隊あるいは小隊単位の躍進の場合とはちがって、分隊長としての下士官にも独自の指揮能力や判断能力が要求されるだけでなく、散開隊形の中にある兵土一人一人にも、独自の状況判断能力や行動能力が要求されるようになったことを意味していた。こうした変化は、第一次世界大戦によって、いっそう加速されることになる。
事実、一九一六(大正五)年に帝国在郷軍人会本部が発行した『国民教育者必携帝国陸軍』は、「戦闘が要求する兵卒智力の程度」として、「之を要するに、今日の如く散開戦闘に於て各人の動作に自由を与へたるに於て其の各人が具備せる智力の多少こそ相集りて戦闘の勝敗に大なる影響を及ぼすべきことは、吾人(自分のこと)の固く信ぜんと欲する所なり」と指摘している。戦術上の変化がいわば兵士の自立化を促したのである。その結果として、あらかじめ命じられていた攻撃開始時刻通りに攻撃を開始したり、敵を偵察する斥候などの独立した任務につくためにも、時計は兵土にとってもしだいに必需品となっていったのだろう。
(吉田裕「日本の軍隊」岩波新書 p19-21)
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それと同様に、労働にたいする資本の指揮は、はじめは労働者が自分のためにではなく、資本家のために、それゆえ資本家のもとで労働することの形式的結果として現われたにすぎなかった。
〔しかし〕多数の賃労働者の協業とともに、資本の指揮は、労働過程そのものを遂行するための必要事項に、現実的生産条件に、発展する。
生産場面における資本家の命令は、いまや、戦場における将軍の命令と同じように不可欠なものとなる。
比較的大規模の直接に社会的または共同的な労働は、すべて多かれ少なかれ一つの指揮を必要とするのであるが、この指揮は、個別的諸活動の調和をもたらし、生産体総体の運動──その自立した諸器官の運動とは違う──から生じる一般的諸機能を遂行する。
バイオリン独奏者は自分自身を指揮するが、オーケストラは指揮者を必要とする。
指揮、監督、および調整というこの機能は、資本に従属する労働が協業的なものになるやいなや、資本の機能となる。
この指揮機能は、資本の独特な機能として、独特な特性をもつようになる。
第一に、資本主義的生産過程を推進する動機とそれを規定する目的とは、できるだけ大きな資本の自己増殖、すなわちできるだけ大きな剰余価値の生産、したがって資本家による労働力のできるだけ大きな搾取である。
同時に就業している労働者の総数が増えるとともに、彼らの抵抗が増大し、それとともに、この抵抗を抑えつけるための資本の圧力が必然的に増大する。
資本家の指揮は、社会的労働過程の本性から発生し、この過程につきものの一つの特殊な機能であるだけではなく、同時に、社会的労働過程の搾取の機能であり、それゆえ搾取者とその搾取原料〔労働者〕とのあいだの不可避的敵対によって条件づけられている。
同様に、他人の所有物として賃労働者に対立する生産諸手段の範囲が増大するとともに、生産諸手段の適切な使用を管理する必要も増大する。
さらに、賃労働者たちの協業は、資本が彼らを同時に使用することの単なる結果である。
賃労働者たちの諸機能の連関と生産体総体としての彼らの統一とは、彼らのそとに、彼らを集め結びつけている資本のなかに、ある。
それゆえ、彼らの労働の連関は、観念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自己の目的に従わせる他人の意志の力として、彼らに対立する。
それゆえ、資本家の指揮は、内容から見ればニ面的である──それは、指揮される生産過程そのものが、一面では生産物の生産のための社会的労働過程であり、他面では資本の価値増殖過程であるという二面性をそなえているためである──とすれば、形式から見れば専制的である。
協業がいっそう大規模に発展するにつれて、この専制は、それ独自な諸形態を発展させる。
資本家は、彼の資本が本来の資本主義的生産をはじめて開始するための最小限の大きさに達したときに、さしあたり、手の労働から解放されるのであるが、いまや彼は、個々の労働者および労働者群そのものを直接にかつ間断なく監督する機能を、ふたたび特殊な種類の賃労働者に譲り渡す。
軍隊と同様に、同じ資本の指揮のもとでともに働く労働者大衆は、労働過程のあいだに資本の名において指揮する産業将校(支配人、マネージャー)および産業下士官(職長、監督=jを必要とする。
監督の労働が、彼ら専有の機能に固定される。
独立農民または自立的手工業者たちの生産様式を奴隷制にもとづく植民地的大農場経営と比較するとき、経済学者は、この監督の労働を生産の空費≠ノ数える。
それに反して、資本主義的生産様式を考察するにあたっては、経済学者は、共同の労働過程の本性から生じる限りでの指揮の機能を、この過程の資本主義的な、それゆえ敵対的な性格によって条件づけられる限りでの指揮の機能と、同一視する。
資本家は、彼が産業上の指揮者であるがゆえに資本家であるのではなく、彼が資本家であるがゆえに産業上の指揮官になるのである。
封建時代に戦争および裁判における司令が土地所有に固有なつきものであったように、産業における司令は、資本に固有なつきものになる。
──『資本論』第一巻 第11章 協業──
(マルクス「資本論 B」新日本新書 p575-278)
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労働手段の画一的な運動への労働者の技術的従属と、男女両性および種々さまざまな年齢の諸個人からなる労動体の独自な構成とは、一つの兵営的規律をつくり出し、この規律が、完全な工場体制に仕上がっていき、また、すでにまえに述べた監督労働を、したがって同時に手工労働者と労働監督者とへの──すなわち産業兵卒と産業下士官とへの──労働者の分割を、完全に発展させる。
──『資本論』第一巻 第13章 機械と大工業 第四節 工場──
(マルクス「資本論 B」新日本新書 p732)
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◎「指揮、監督、および調整というこの機能は、資本に従属する労働が協業的なものになるやいなや、資本の機能となる」と。