学習通信080131
◎シシュフォスの……
■━━━━━
入門講座
神話の楽しみC
阿刀田 高
神話が巧みなストーリーを含んでいると、
──なるほどねえ──
人々に好まれ、広く伝わって現実的な効果を生む。歴史に近いものとして、なんとなく認められてしまうからである。
それを意図してかどうか(私は意図的と考えるが)権力者がこれを利用する。群雄割拠の中から一つの権力が一頭地を抜いて安定に近づいたとき、
──なぜ私たち一族だけが王者でありうるのか──
その根拠を神話に求めるわけだ。
政治と宗教の一部
どのようにしてこの世界が創られ、だれが英雄的な貢献を果して選良となり、それがどう今の為政者の血につながっているか、ほかの人たちとはちがうのだ、と世論への説得には神話がからんでいるケースが多い。〈古事記〉や〈日本書紀〉の成立にこの傾向を見るのはたやすい。大和朝廷の根拠を訴えている。その中の出雲神話をながめると、古代の日本人はもっと奔放なストーリーを育んでいたのではあるまいか、と、ないものを惜しんでしまうが、政情により消えてしまった神話も、現実にはたくさんあっただろう。
旧約聖書もユダヤ人の神話として見るならば(明白にそう考えてよい部分がある)この聖典が創られたこと自体が、ダビデ、ソロモンを擁して繁栄についたユダヤ人の王国が、どれほど神の寵愛を受け、神との約束によってなっているか、そのことをストーリー性豊かに内外に訴えている。ここでは神話は力強く政治と宗教の一部となっている。
アブラハムは神の啓示を受け、苦難のすえ地中海の東の地カナンにたどりつきそこに一族の国を創った。三千年を超えて昔のことである。神話ではなく歴史だ。という声もあろうが、
──それは、まあ、いいでしょう──
歴史を広く解釈すればこのエピソードは歴史だろうし、神話を広く解釈すれば神話である。ここではこの区分はさほど重要ではない。
当初アブラハムには子がなく、奴隷女をめとってイシュマエルをもうけるが、その後、神の加護を受けて本妻のサラが懐妊、イサクが生まれる。アブラハムは将来の諍(いさか)いを恐れてイシュマエルとその母を砂漠に追いやる。こうしてイサクが正当なユダヤの血を繋ぐこととなるが、なんと! 砂漠へ行ったイシュマエルの血が流れ流れてイスラム教の基となっているのだとか。マホメットの祖先とも言われている。
「イスラエル紛争って、もとはと言えば、異母兄弟の争いなのか」
なんて、下世話な言い方をお許しあれ。
民族の知恵生きる
要は、神話の効果はまことに馬鹿にならない、ということだ。当然だろう。民族の知恵が龍(こ)められ、歴史の中で淘汰され、生き残ったものなのだ。
ギリシャ神話が紀元前五世紀のアテネの全盛時代に至って多くのギリシャ古典劇の題材となり、演劇の揺藍期を飾ったことはよく知られている。後世への影響は計り知れない。多くの文芸がギリシャ・ローマ神話の影響を受け、養分を吸収している。これはギリシャ神話において顕著に見られる特徴だが、神話というものは、みんなこの特質を含んでいるにちがいない。
神話は世界と人間の起源にかかわるサムシングを含んでいるから新しい比喩、新しい解釈として登場することも多い。またしてもギリシャ神話の一例を挙げるが、シーシュポスは大神ゼウスをあなどった罰として無間地獄に落とされ、山の頂上へ大きな岩を押しあげることを命じられる。岩は頂上につくとゴロゴロゴロと転げ落ちる。シーシュポスはそれをまた押しあげる。永遠の労苦……。
しかしこの労働に新しい解釈を与え、二十世紀の哲学にまで高めたのがアルベール・カミュの〈シーシュポスの神話〉だった。無償の情熱にこそ二十世紀の人間は価値を見出だすべきではないのか、と。
私たち日本の神話にも汲み出すべきアイデアは充分に伏在しているにちがいない。(作家)
(「日経 夕刊」20080131)
■━━━━━
さて、工場制度のもう一つ別な側面へ、目をむけてみよう。この側面は、工場制度から生ずる病気よりも法律の規定であらためることの難しいものである。われわれはすでに労働のあり方については一般的に論じたし、また、与えられた事実からもっとつっこんだ結論をひきだすのに十分なほど詳しくのべてきた。
機械を監視し、切れた糸をつぐことは、労働者の思考を必要とするような仕事ではないが、他方では、労働者がその精神をほかのことに使うのを妨げるような種類のものである。同時に、このような労働は筋肉にたいしても、肉体的活動にたいしても、まったく活動の余地を与えないものであるということも、われわれは見た。
このように、これは本来なんら労働といえるようなものではなく、まったく退屈なもの、この世でもっとも人を押しつぶし、疲労させるものである──工場労働者はこういう退屈さのなかでその肉体的精神的な力を完全に衰えさせていく運命にあり、彼は八歳のときから一日中退屈していることが職業なのである。
さらに彼は一刻も仕事からはなれられない──蒸気機関は一日中動いているし、車輪やベルトや紡錘は絶え間なく耳もとでブンブンうなり、ガチャガチャ鳴っている。そして彼がすこしでも休息しようとすると、すぐに監督が罰金帳をもってうしろにやってくる。
このように工場に生き埋めにされ、疲れを知らない機械に絶えず注意していなければならないという青書をうけたことは、労働者にとってはきわめてきびしい拷問のように感じられる。しかしそれはさらに、労働者の肉体と同じように、精神をも極端に鈍らせるという作用をする。実際に、人間を愚鈍にするには工場労働ほど良い方法はない。
それにもかかわらず、工場労働者がその知性を腐らせないだけでなく、ほかの人以上に知性をみがきあげ、とぎすましているとすれば、それはやはり、みずからの運命とブルジョアジーとに反逆することによってのみ、可能となったのである──この反逆だけが、労働者が働きながら考え、感ずることのできた唯ーのものであった。
そしてもし、ブルジョアジーにたいするこういう怒りが労働者の支配的な感情にならないときには、その必然的な結果は飲酒であり、また一際にふつう退廃と呼ばれているすべてのものである。
肉体的疲労や、工場制度のために一般化した病気だけでも、公式の委員であるホーキンズにとっては、必然的にそこから退廃が生ずると十分に考えられることであった──これにさらに精神的疲労が加わり、またどんな労働者をも退廃させてしまうような先にのべた事情が、ここでも影響をおよぼしてくるなら、退廃の必然性はどんなに多〈なることであろうか!
したがって、とくに工場都市において飲酒癖と乱れた性関係が、すでにのべたように、ひどい状態になっていることは、まったくおどろくべきことではないのである。※
※
さらにもう一人、有能な審判者に聞いてみよう。
「もしアイルランド人の事例を、綿製造業階級全体の不断の労働と結びつけて考えてみると、彼らの恐るべき退廃についてもそれほどおどろかなくなるだろう。
毎日毎日、毎年毎年、休みなくつづく、くたびれはてる労働は、人間の知的道徳的能力を発展させることを考慮していない。
同じように機械的工程を絶えずくりかえすはてしない単調な労働というみじめな慣行はシシュフォスの苦しみと同じようなものである。
労働の重荷は、疲れはてた労働者のうえに岩のように何度も落ちてくる。
同じ筋肉を永遠に動かしているために、精神は知識も思考力もつけることができない。
理性はにぶい惰性のなかで眠っているが、われわれの本性のなかの粗暴な部分はたくましく発展する。
人間にこのような労働に服するよう宣告することは、人間のなかに動物的な資質を育てることである。
彼は無関心になり、彼の種族の特性となっている性向や徳性を軽蔑する。彼は生活の快適さや洗練された喜びを無視する。
彼は吐き気をもよおすような貧困のなかで、とぼしい食物で生活し、稼ぎの残りは放蕩に浪費する」──J・P・ヶイ博士、前掲書。
〔訳注〕シシュフォスはギリシア神話のコリントの王で、死後、地獄へおとされ、大きな石を山頂へはこびあげる罰を科せられたが、石は頂上近くなるとまたころげおち、同じ仕事を永遠にくりかえしたという。
(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態-上-」新日本出版社 p256-258)
■━━━━━
使用価値としての商品は一つの特殊な欲求を満たし、素材的富の一つの特殊な要素をなす。
ところが、商品の価値は、素材的富のあらゆる要素にたいしてその商品がもつ引力の程度をはかる尺度となり、それゆえ、その商品の所有者がもつ社会的富の尺度となる。
未開の単純な商品所有者にとっては、西ヨーロッパの農民にとってさえ、価値は価値形態とは不可分のものであり、それゆえ、金銀財宝の増加が価値の増加である。
確かに、貨幣の価値は──貨幣自身の価値変動の結果としてであれ、諸商品の価値変動の結果としてであれ──変動する。
しかし、このことは、一面では、二〇〇オンスの金が一〇〇オンスの金よりも、三〇〇オンスの金が二〇〇オンスの金よりも、依然として大きな価値を含んでいるということをさまたげないし、他面では、この物の金属的自然形態が依然としてすべての商品の一般的等価形態であり、すべての人間的労働の直接的に社会的な化身であることをさまたげるものでもない。
蓄蔵貨幣形成の衝動は、その本性上、限度を知らない。
貨幣は、どの商品にも直接的に転化されうるものであるから、質的には、あるいはその形態からすれば、無制限なもの、すなわち素材的富の一般的代表者である。
しかし、同時に、どの現実の貨幣額も、量的に制限されたものであり、それゆえまたその効力を制限された購買手段であるにすぎない。
貨幣の量的制限と質的無制限性とのあいだのこの矛盾は、貨幣蓄蔵者を、蓄積のシシュフォス労働に絶えず追い返す。
彼は、新しい国を征服するたびに新しい国境に出くわす世界征服者のようなものである。
*(シシュフォスは、地獄の急坂で岩を押し上げては転げ落ちるという、永遠に続く同じ仕事を罰として科せられたギリシア神話の人物。徒労でむなしく続く仕事の意)
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p225-226)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「それにもかかわらず、工場労働者がその知性を腐らせないだけでなく、ほかの人以上に知性をみがきあげ、とぎすましているとすれば、それはやはり、みずからの運命とブルジョアジーとに反逆することによってのみ、可能となったのである──この反逆だけが、労働者が働きながら考え、感ずることのできた唯ーのもの」と。