学習通信080124
◎欠陥が意識されていさえすれば……
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共産主義者の任務は、遅れている人たちを説得し、彼らのあいだで活動するすべを知ることにつきるのであって、頭のなかで考えだした、児戯に類する「左翼的」スローガンで、彼らと自分のあいだに垣をつくることではないからである。
(レーニン「共産主義の「左翼小児病」レーニン10巻選集H 大月書店 p186)
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自信のあるなし
私たちのまわりでは、よく、自信があるとか、自信がないとかいう表現がされろ。そして、この頃の少しものを考える若い女のひとは、何となしこの自信のなさに自分としても苦しんでいることが多いように思えるのはどういうわけだろうか。
一つには、女の与えられる教育というものが、あらゆる意味で不徹底だという理由がある。なまじい専門程度の学校を出ているということで、現実にはかえってその女のひとの心がちぢかまるということは、深刻に日本の女性の文化のありようを省みさせることなのである。
けれども、自信というものに即してみれば、そもそも自信というものは私たちの生活の実際に、どういう関係を持っているのだろう。でも自信がなくて、といわれる時、それはいつもある一つのことをやって必ずそれが成就すると自分に向かっていいきれない場合である。成就するといいきれないから、踏み出せない。そういうときの表現である。
けれども、いったい自信というものは、そのように好結果の見とおしに対してだけいわれるはずのものだろうか。成功し得る自信というしか、人間の自信ははたしてあり得ないものだろうか。
私はむしろ、行為の動機に対してこそ自信のある、なしとはいえるのだと思う。
あることに動こうとする自分の本心が、人間としてやむにやまれない力におされてのことだという自信があってこそ、結果の成功、不成功にかかわりなく、精一杯のところでやって見る勇気を持ち得るのだと思う。
その上で成功すれば成功への過程への自信を、失敗すれば再び失敗はしないという自信を身につけつつ、人間としての豊かさを増してゆけるのだと思う。
行為の動機の誠実さに自分の心のよりどころを置くのでなくて、どうして人生の日々に新しい一歩を踏んでゆかなければならない青春に自信というものがあり得よう。
(宮本百合子著「若き知性に」新日本新書 p32-33)
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──大多数の革命家が訓練を欠いていたことはまったく当然な現象であったから、なにも特別の懸念をおこさせるものではありえなかった。
任務が正しく提起されさえすれば、またこの任務の実現を繰りかえし試みるだけの精力がありさえすれば、一時の失敗はなかばの不幸でしかなかった。
革命的練達と組織者としての手腕は、おいおいに獲得できるものである。
ただ、必要な資質を自分のうちにやしなおうという意欲がありさえすればよいのだ! 欠陥が意識されていさえすればよいのだ! 革命の事業では、欠陥を意識することは、それをなかば以上訂正したにひとしいのである。
(レーニン「なにをなすべきか?」レニン10巻選集A p36-37)
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◎「共産主義者の任務は、……頭のなかで考えだした、児戯に類する「左翼的」スローガンで、彼らと自分のあいだに垣をつくることではない」と。