学習通信071221
◎無責任な弱者……

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若者のマナー悪化
京で自転車加害の事故急増
5年で倍増、ひき逃げ・死亡も

 京都府内で、自転車が歩行者を傷つける事故が増えている。若者を中心に自転車の運転マナーが悪化し、高齢の歩行者が被害に遭うケースが多い。二ヵ月前には、京都市伏見区で自転車によるひき逃げ死亡事件も起きた。「走る凶器」として加害者側は回る事故が目立ってきた自転車に対し、府警は刑事処分につながる交通切符(赤切符)で摘発するなど、取り締まりを強化している。

府警 「赤切符」で摘発強化

 死亡事故は十月二十四日未明に発生した。伏見区桃山町の外環状線の歩道で、無灯火の自転車が近くの女性(77)にぶつかった。一緒にいた長男が「待て」と叫んだが、自転車は走り去った。女性は頭を打って二週間後に亡くなった。犯人は二十歳前後とみられ、伏見署は重過失致死と道交法違反(ひき逃げ)の疑いで捜査している。

 府警交通企画課によると、自転車が歩行者をはねてけがをさせる事故は昨年、五十九件。五年間でほぼ倍増し、統計を始めた一九八九年以降で最多だった。今年も十一月末までで五十一件。被害者の四割近くが六十五歳以上の高齢者だった。

 また、警察が「若者」と分類する十六〜二十四歳が運転する自転車の事故は、昨年の五十九件の四割、今年の五十一件の三割を占めている。

 自転車の事故は全国的に問題となっており、府警は昨年から、悪質なケースには、違反が確定すれば前科となる赤切符を積極的に切っている。昨年は、商店街など通行が禁止されている場所での走行や二人乗り、酒酔い運転、無灯火などで三十三人に赤切符を切った。

 交通企画課は「従来の口頭注意やイエローカード(指導警告票)での取り締まりでは処罰がなく、抑止力が弱い。再三の警告を無視したり、深刻な事態を引き起こした場合には、赤切符で取り締まる」とマナー違反の利用者に警告している。
(「京都」20071221)

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自転車が安心して走れる道をA
NPO自転車活用推進研究会事務局長 小林 成基

歩行者との事故

 交通安全の死者数は1970年の年間1万6765人をピークに下がり続け、昨年は6352人と4割以下となった。シートベルトやエアバッグなどの装備、救急医療体制の充実等で死ぬことは少なくなったが、交通事故が減っているわけではない。なかでも最近10年間でみると、歩行者対自転車事故が約5倍と急増し社会問題化しつつある。

 ○歩道走りが常識に

 「歩行者と自転車の事故?どうしてそんな事故が起きるんだ?」と英国人の友人はけげんな顔をする。欧米では特別な場合を除いて、歩道を自転車が走ることはない。だから歩行者に自転車がぶつかる、というシーンは、歩行者が法律に反して自転車レーンに立ち入った場合にしか起きない。

 ロンドンやパリで、自転車レーンを歩いていて怒鳴られている観光客のほとんどは日本人である。本人はなぜ怒られているのかわからず、きょとんとしているのを見ると同胞としてまことに情けない思いをする。考えてみれば「車両」が歩行者専用道路である歩道を通ることが非常識なのだが、わが国では自転車が歩道を走るのが常識になってしまっているのである。

 ○「お化け」法律が

 わが国の法律にも、文明国らしく自転車は車両の一種であり、車道通行が原則、軽車両なので車道の最左端を走れ、と書いてある。ただし、この原則には例外規定がたくさんある。今回(2007年6月)の道路交通法改正で幼児・児童と政令で定める者(高齢者を想定しているらしい)に限っては歩道を通行しても良い、とする規定が追加された。

 諸外国にも、6歳児以下、あるいは8歳児以下は歩道通行を認めている例があるが、児童(13歳未満)までを認める国はない。事故の悲惨さは運転者の体重と自転車の重さ、そして速度に比例する。ぶつけられる被害者はたまったものではないが、不幸にもぶつけた子どもたちも生涯、人を傷つけた精神的な負担と、支払いきれない賠償金を背負う家族をまた背負うのである。

 すぐに無理なら、5年後、10年後を目標に、歩道から自転車を締め出す方針を示し、車道の自転車レーン整備やクルマのドライバーの教育強化を始めるべきだ。子どもたちを不幸にする政策が正しいはずがない。

 法律に例外を増やしたら子どもたちに教えにくくなるのは当然である。複雑で例外だらけの交通ルールだから周知徹底できない、知らないから守れない、事故やトラブルが減らない、なんとか事故を減らしたいので法律に例外をつくる……という悪循環を繰り返して、警察官でさえ首をかしげる「お化け」法律ができた。

 ○いい実例生かして

 法律が複雑なので、交通教育は原則として小学校高学年以上を対象にせざるを得ない。学校のグラウンドなどを借りて安全教室が開催され、年間約270万人が学んでいるという。全国民が受講するには46年かかる計算だ。欧米のように小学校のカリキュラムに取り入れる必要があるが、教師にも知識がなく、そもそも授業時間が確保できない。正しく交通ルールを学ぶことの大切さをもっと認識する必要がある。

 道交法第53条には、手信号をしながら片手運転で右左折しろという規定があるが、実行している自転車の警察官を見たことがない。警察官が実行できないことを子どもたちに教えられるものかどうか、自転車で歩道を走る警察官に聞いても答えられないだろう。

 9日から東京・世田谷区で車道の最左端を青く塗装して「自転車走行レーン」の実験を始めた。同じようなことを石川県金沢市では、恒常化している。うまくいった実例があるのだから、情報通信時代にふさわしい取り組みを求めたい。
(「赤旗」20071214)

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プロローグ
二○○七年、自転車の現状とはなにか

 自転車はかくもデタラメに扱われている

 私は自転車人である。
 毎日往復24qの通勤に自転車を使っている。

 ところが(のっけからお堅い話で恐縮なのであるが)昨年(二〇〇六年)一一月から今年の二月にかけて、一連の道路交通法改正騒ぎがあって、その提言(試案)第三項目に、自転車の車道通行を制限する〈提言四ー二ー四〉という文言があった。

 私は仰天し、やむにやまれず反対運動を展開した。こういう「市民運動」のようなものがたいそう苦手な私にとって、しんどい作業であった。集会を開き、各メディアに書き、各所各団体に働きかけ、今さらながら自転車についての法律についても精査してみた。

 結局、最終的な法案からは「自転車の車道通行制限」が撤回され、まあ、私などの自転車人たちはとりあえずほっと一息ついたのだが、自転車に関連する法を勉強してみたのは、決して無駄ではなかった、というより、一種新鮮な驚きがあった。

 分かったことで最大のことは、この日本という息苦しいまでにシステマティックな国の中で、こと自転車についてだけは、法はかくもデタラメだという事実だった。

 デタラメというだけではない。法律を守らせようとする意識も薄い。薄い? いや、有り体に言うなら「皆無と稀薄の中間」あたりだろう。さらにいえば、その自転車に関する法が、一般市民に浸透していないこと、もう甚だしいとしか言いようがない。

 だいたい法律のありようが、安全と矛盾しているのだ。

 たとえば「手信号」というものがある。自転車は右折左折をする際、右手左手を出し、その行為が完了するまで(つまり曲がり切るまで)、片手運転をしなくてはならない。これは道交法にきちんと明記されている。事実を言えば、こんなに危ないことはないのだが、一方で同法は「片手運転禁止」を定めてもいる。

 さらには自歩道規定というのがある。

 自転車は原則的に車道を通るものだ、ということは道交法の大原則なのだが、それにもかかわらず、同法の六三条に「ただし、指定された歩道だけは自転車も通行可」という項目がある。この指定された歩道こそが、いわゆる「自歩道」というヤツで、この自歩道が全国の歩道の四割を占めている。

 裏を返せば、日本の歩道の六割は「自転車で走ってはならない歩道」なのだ。

 だが、ご存じの通り、そんなことを守っている日本人はいないし、そもそもそういう規定を知る人がほぼ皆無だ。だいたいその法律を守らせなくてはならない交通警察官からして自転車で歩道を走っている。あろうことか車道の自転車に対して「歩道に上がりなさい」と言う。

 また、自転車は軽車両という名前のれっきとした車両だから(そんなことすら一般市民には浸透してはいない)、車道の左端を走るのが原則だ。

 ところが、それが守られているだろうか。どう考えても答えは否で、右も左もデタラメ。人によっては「あえて右側を通行する」という人すらいる。なぜならば「左を走っていると、後ろからクルマが来て怖いから」だそうだ。

 かくもおかしな状況の中、日本の自転車は今日も走る。

 だが、ご存じだろうか。こんな国は世界広しと言えど、日本だけなのである。この日本だけで、自転車は堂々と歩道を走っているという事実。イギリス人が来日しても、ドイツ人がやってきても、その光景を見て「野蛮ですね」という。当然だ。そもそも道路には「弱者優先の原則」というのがあるのだから。日本以外のすべての国において「歩道は歩行者の聖域」なのである。この日本だけが、そのポリシーが逆。「車道がクルマの聖域」となっている。それを称して外国人たちは野蛮と指摘する。当たり前である。この日本の状況は、「車道の危険」というリスクのしわ寄せを、歩道の弱者に押しつけているというだけなのだから。

 それを証明するように、この一〇年、歩道上での自転車対歩行者の事故は七倍にも激増した。高齢化と携帯電話の普及が主なる原因と言われているが、本質はそんなところにはない。そもそも自転車と歩行者を同じ歩道に押し込めていることの弊害が今、噴出しているということなのだ。

 浮遊の民「自転車族」

 そんな現状の中、このところ自転車は明らかに嫌われはじめている。

 歩道上では危険をもたらす路上の凶器として。車道ではクルマの通行を妨げる邪魔者として。歩道でも車道でも除け者にされる路上のボヘミアン、それが現在の日本の自転車の姿だ。

 また一方で、そこまで目くじら立てるなよ、たかが自転車だろ? という意識が相変わらず強いのも私は承知している。有り体に言って多くの日本人たちは、自転車という存在を「歩行者に毛の生えたもの」程度に認識していると思う。せいぜいママチャリに乗ってスーパーに買い物に行くぐらいのものさ、と。だいたい「大の大人」つまり「オジさん」は自転車に乗らない。

 だが、その認識は大いに間違っているのである。まあ「ママチャリ」という歩道専用車ばかりが流行る日本であって(事実、ママチャリという「規格」はジャパンオリジナル。日本と北朝鮮にしか存在しない)、そのあたりは困ったことではあるんだが、たとえばヨーロッパ諸国では、クロスバイク(クロスオーバーバイク)またはダッチバイクと呼ばれる種類の自転車が走り回り(つまりはママチャリより格段に速く、距離が走れる)、自転車は、クルマの機能の多くの部分の代用となっている。

 大まかなところ、都市内交通はクルマより自転車。これが欧州各国の流れだ。そちらの方がより環境に貢献し、健康に貢献し、渋滞解消に貢献するからだ。

 オランダやドイツが嚆矢(こうし)だった。そして、周辺諸国、デンマークやフィンランドなどへ伝播し、イギリスやフランスが真似た。昨今で言うなら、遅れてきたアメリカや、あろうことか韓国までが、自転車を中心交通手段としてフィーチャリングした都市交通を目指し始めている。

 日本だけがそれをやらない。そして、恥ずべきことに、その日本こそが先進各国の中で突出して自転車事故が多いのである。

 自転車を車道におろし、車道に自転車レーンを作る、つまりインフラを整える。それを担保する法律を整備する。歩行者の安全を保証し、自転車を円滑に走らせ、クルマの通行はある程度、制限する。

 そうしなくてはならない理由を一言でいうなら、過度のクルマ依存社会が、環境や健康に与えているネガティブな影響が、今や無視できないほど大きくなっためだ。

 なぜ日本でだけそれができないか。
 実はやればできるはずなのだ。やらないだけで。

 では、なぜやらないか。一般的に思われる自転車は、坂に弱く、雨に弱く、スピードに個人差があり、体力が要り、遅くて、長い距離が走れない。少なくともそういう風に思われているからだろう。それぞれに完全な処方箋はある。しかし、日本ではことさらにそう思われている。

 なぜか。
 私はその元凶のかなりの部分は「ママチャリ」にあるとにらんでいる。

 「ママチャリ」をはじめとする日本の自転車のいびつさ

 本来、体力のない人でも、容易に時速20qから30qを出すことのできる「自転車」というものが、この日本の中では実にゆっくりしたスピードで走っている。

 買い物のお母さんたちの自転車が乗る軽快車、いわゆる「ママチャリ」は、時速12qから15qというところがせいぜいだろう。少なくとも彼女たちは自転車の効用を「歩く倍のスピードで、買い物袋を楽に運べる」ためのもの、としてしか認識していないはずだ。そのママチャリが、日本の自転車の売り上げの実に八割以上を占めている。

 メーカー側から言わせても、そのママチャリのコンセプトは「ゆっくりしたスピードで半径2、3qの範囲を楽に走れること」だという。遅きに徹した自転車がこれだけ蔓延する。これは世界的に見てきわめて異例のことだ。

 その理由は、繰り返しになるが、先進各国の中で唯一、日本だけが自転車が歩道を走ることが許されていることにある。その理由は一九七〇年と一九七八年の道路交通法改正にあった。モータリゼーションの波が急速に訪れた当時の日本では、自動車対自転車の事故が急増し、いわば緊急避難的に自転車を歩道に上げてしまった。施行の翌年、自転車の死亡事故が約一割減り、それが恒久的に自転車を歩道で走らせる根拠となった。これは自転車の活用という見地に立つと、実に不幸なことであった。

 結果、緊急避難は緊急避難でなくなり、自転車は歩道の上を歩行者の問を縫って走ることが常態化した。

 車両というよりも、歩行者に毛が生えたものという認識しかされなくなった。

 それがゆえにスピードも抑えられ、右を走るも左を走るも勝手、交通規則は知らなくてもいい、つまり歩行者と同じ「無責任な弱者」という状態になった。ここにママチャリの蔓延という現象は発生したのである。

 そのことについて法もインフラもまったく無視を決め込んでいる。完全なる放置が三〇年以上も続いてきた。ご近所のスーパーマーケット付近にでも出向いてみればすぐに分かるが、この国での自転車の使い方は、まったくのデタラメである。

 このデタラメな状況が、本来の自転車の可能性を大いにスポイルしてきたと私は見ている。自転車を運転する側にマナーがない。これは乗る側が責められてしかるべきだと思う。だが、そうした自転車を放置してきたシステムの間題こそが現在の自転車の状況に繋がっているのだ。

 放置自転車、二人乗り、右側走行、その他諸々の「自転車間題」にそれは端的に現れている。

 国内に八〇〇〇万台もの自転車を保有する日本は、間違いなく自転車大国と言っていい。だが、その大国のあり方は、実に歪で、実に発展途上国的だ。
(疋田智著「それでも自転車に乗り続ける7つの理由」朝日新聞社 p1-4)

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◎「わが国の法律にも、文明国らしく自転車は車両の一種であり、車道通行が原則、軽車両なので車道の最左端を走れ」と。