学習通信071213
◎ショスタコーヴィチ……

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《潮流》

一九七〇年に開かれた大阪万博の、思い出の品が残っています。ソ連館で買ったレコードです

▼ショスタコービチの交響曲十二番「1917年」。表紙に、装甲車とみられる車の上に立つレーニンと彼の前を行進する兵土たちの、絵をあしらっています。旧ソ連の名指揮者ムラビンスキー率いる、レニングラード・フィルの演奏です

▼同じ指揮者と楽団のショスタコービチでは、第五交響曲のレコードをよくきいていました。深みのある哲学的ともいえる演奏です。ところが、初めて耳にする十二番は違いました。「革命のペトログラード」と題された一楽章から、活劇風にきこえたのです

▼終曲は、「人類の夜明け」の副題を持ちます。壮大に鳴りわたる大詰め。しかし、どこか煮え切らない響きをひきずりながら閉じられます。肩すかしをくったような感じをぬぐえませんでした

▼作曲家が、子どものころ目撃した十月革命とレーニンの思い出にささげると説明していた交響曲十二番。彼の死後には、頼まれてしぶしぶ作った曲という説が表れました。そして最近、いや実はスターリン告発の曲だったという説が登場します(本紙十一月二十三日付「朝の風」)

▼先日、十二番を初めて劇場でききました。井上道義さん指揮する名古屋フィルが、見事な集中力で演奏し切りました。レコードの印象は的外れではなかったようです。「人類の夜明け」への希望をはらんでいた革命からことしで九十年、願いを葬ったソ連が崩壊してはや十六年たちます。
(「赤旗」20071207)

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《朝の風》

日比谷のショスタコーヴィチ

 日比谷公会堂で十一月三日から十二月九日まで「日露友好ショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏プロジェクト2007」が開催されている。井上道義指揮で国内外の五つの楽団が参加し、八回の演奏会で十五曲すべてを演奏しようというもの。その半数近い七曲はここで日本初演されている。

 さる十日にサンクトペテルブルク交響楽団が演奏した第七番「レニングラード」も、戦禍の記憶さめやらぬ一九五〇年五月十七日、ここで初演された。残響が皆無に等しいため、かえってオーケストラ音が生々しく、ナチスドイツのソ連侵攻を扱った作品の姿が鮮明に浮かび上がった。

 このプロジェクトの共通プログラム(一部二千円)は、井上氏と音楽学者の一柳富美子氏が監修している。楽曲解説も一柳氏が担当しており、読みごたえがある。日本のショスタコーヴィチ研究に一石を投じてきた、そのユニークな見解が集大成されているからだ。

 例えば、第十二番「一九一七年」は表向きレーニンの追悼曲とされてきたが、とくに終楽章で反復される「Es─B─C」(ミ♭シド)の音階は、ヨーシフ・ヴィッサリオーノヴィチ・スターリンを象徴しており、音楽的には明らかにスターリン告発が主眼だと指摘する。

 反ユダヤ主義批判と第九番、ハンガリー事件と第十一番との関係をはじめ、他の作品解説も興味が尽きない貴重な研究文献となっている。(弩)
(「赤旗」20071123)

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 社会主義リアリズム──ショスタコーヴィチ

 革命後のソヴィエト連邦では、当初は西欧の新しい音楽が積極的に受け入れられ、自由な創作活動が繰り広げられましたが、やがて、芸術もまた革命思想を反映しなければならないとして、明確な定義が困難に思える「形式面では民族主義的、内容面では社会主義的」をスローガンとしたいわゆる「社会主義リアリズム」が党の方針として採択されたのです。

これは祖国に復帰したセルゲイ・プロコフィエフ(一八九一〜一九五三)の前衛的な音楽から大衆路線への転換に鮮やかに見て取ることができるでしょう。とにかく、一九三〇年代以降、この方針に従わないと党が考えた芸術作品は、次々と粛清されることになります。

 粛清、自己批判、そして一時的な名誉回復という「サイクル」を生涯のうちで何度か繰り返したのが、ソヴィエト最大の作曲家ディミトリー・ショスタコーヴィチ(一九〇六〜七五)でした。

初期の作品(『交響曲第一番』やオペラ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』など)は、才気がほとばしり、自由な想像力にあふれ、そして何よりも辛辣な表現を特徴としていましたが、後年の音楽は、深い悲しみと諦観に満ちた非常に苦々しいものに変わっていきました。

創作の中心は、それぞれ一五曲ずつの交響曲と弦楽四重奏曲にありますが、これらはショスタコーヴィチの音楽的自伝という性質が著しく表れています。
(山本一太著「一年でクラッシク通になる」生活人新書 p94-95)

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ショスタコーヴィチ『ムツェンスク郡のマクベス夫人』

 人間は、時代や国や、ましてやその国の政治体制を選んで生まれることはできませんが、偶然生まれた時代や国や政治体制が、その人の人生の必然的な条件として働きます。だから、ショスタコーヴィチが別の時代、別の国に生まれていたらどんな音楽を書いただろうというのは、意味のない空想でしょう。

しかし、空想は空想として、はっきりといえるのは、仮に与えられた条件が別のものであったら、彼は間違いなくオペラ史に残る傑作をいくつも残しただろうということです。風刺的オペラ『鼻』に続き、彼が書いた『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(一九三四年初演)は、その空想の裏付けになってくれるでしょう。

 ソヴィエト連邦で西欧の新しい音楽が容認どころか推奨されていた時代、弱冠一九歳のショスタコーヴィチは『交響曲第一番』で華々しく登場しました。これは、若き天才が、何にも妨げられず、また何にも頓着せず、思う存分奔放に自らの能力を開花させた傑作です。しかも、そこには、寸鉄人を刺すような鋭い諧謔性と風刺性がすでにはっきりと表れていて、彼の資質が舞台音楽にとりわけ適性のあることを示しています。

 レスコフの小説を原作とする『マクベス夫人』は、富裕な商家の妻カテリーナが情夫セルゲイと一緒になるために、舅のボリスを毒殺し、夫のジノーヴィをセルゲイに絞殺させ、二人の婚礼の日に殺害が発覚し、流刑囚となって、最後は川に身を投げて自殺するという陰惨な話です。しかし、これは「悪女」の物語などではなく、封建社会の中で虐げられてきた女の人間性回復を求める物語です。しかし、彼女を取り囲むすべてがその追求を阻むのです。

彼女に関わる男はそれぞれ、女を、性的対象として(ボリス)、男に服従すべきものとして(ジノーヴィ)、打算として(セルゲイ)見る存在の象徴として登場します。彼らには──そして警察署長を始めとする他の登場人物にも──徹底的に残酷なまでに戯画化された音楽がつけられていて、カテリーナの抒情的で真実に満ちた歌とはあまりにも鋭い、あるいは剥き出しの対照をなしています。宣伝文句風にいえば、このオペラはまさに「ロシアの『ヴォツエツク』」です。

 一九三六年、スターリンがこのオペラを観た直後、『プラウダ』に弾劾記事が載り、以後、ショスタコーヴィチの苦悩に満ちた人生が始まります。彼に関する問題は、深刻でかつ複雑ですが、『マクベス夫人』には、彼の本心が表れていると思います。
(山本一太著「一年でクラッシク通になる」生活人新書 p189-190)

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◎「「人類の夜明け」への希望をはらんでいた革命からことしで九十年、願いを葬ったソ連が崩壊してはや十六年」と。