学習通信071019
◎「存在が目障りだ」……

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 こうして労働者は、肉体的にも知的にも、さらに道徳的にも、権力をもつ階級からつきはなされ、放置されている。

彼らのことをかまってくれる唯一のものは法律であって、それは彼らがブルジョアジーを怒らせるや否や、彼らをしめつける──理性をもたない動物にたいするのと同じように、彼らにはたった一つの教育手段しか用いられない──それは鞭であり、残酷な、説得ではなくただ威嚇するだけの暴カである。

したがって、動物のようにあつかわれている労働者がほんとうに動物になったり、あるいは、権力を握っているブルジョアジーにたいして憎悪を燃やし、たえず心のなかではげしく怒っていることによってのみ、人間らしい意識と感情をもちつづけることができるのも、当然のことである。

彼らは支配階級にたいして怒りを感じているかぎりにおいて人間なのである。彼らにかけられている首かせを我慢し、その首かせを自分でこわそうとせず、首かせをつけたままの生活を快適だと思うようになるとすぐ、彼らは動物になる。

(エンゲルス著「イギリスにおける労働者階級の状態 下」新日本出版社 p176)

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過労自殺を労災認定
盛岡の男性 上司叱責はパワハラ
保険審査会

 盛岡市の自動車部品販売会社「日産部品岩手販売」に勤務していた男性=当時(三一)=が自殺したのは、過重なノルマや上司の強い叱責(しっせき)などが原因として、労働保険審査会は十八日までに、盛岡労働基準監督署長などが出した遺族補償給付の不支給処分を取り消しました。審査会は「売り上げ目標も高く、叱責による心理的負担はパワーハラスメント(職権を背景とした嫌がらせ)を受けているような状況」と認定しました。
 記者会見で男性の父親(六九)は「半分以上あきらめていたが、認められうれしい」と語りました。

 裁決書などによると、男性は一九九六年に入社。九九年八月に盛岡営業所に配属されましたが、営業経験がないにもかかわらず厳しいノルマが課され、休日出勤も強いられました。さらに上司の営業部長から、ノルマ不達成などを理由に、毎日のように「辞表を書け」「やる気があるのか」などと叱責され、重度のストレスが原因で、同年十二月に自殺しました。

 家族は二〇〇一年に労基署に労災申請しましたが認められず、〇三年三月に審査会に再審査を申し立てていました。
(「赤旗」20071019)

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編集手帳

 昭和の名人、八代目桂文楽には小言の流儀があったという。小言の種をためておき、一番小さなことで、短く、大きく叱(しか)る

◆晩年の弟子、柳家小満(こま)んさんが「べけんや わが師、桂文楽」(河出文庫)に書いている。叱られる弟子は、こんな小さなことも師匠に見抜かれていたと知り、言われずに済んだ大きな小言の種も改まると

◆「短く」にも味がある。「囲師は周するなかれ」(完全包囲するな)とは兵法の教えだが、言い募って逃げ場のない所に追い込むことはしない。叱責(しっせき)とは「いかに言わないか」の技術であるらしい

◆「存在が目障りだ」「お前は会社を食いものにしている、給料泥棒」。製薬会社に勤めていた男性(当時35歳)がうつ病になって自殺したのは、直属の上司である係長から浴びせられた暴言が原因だとして、東京地裁は労災に認定した

◆遺書にある暴言の内容を読む限り、上司が叱責によって何か良い効果の生まれることを期待していたとは考えにくい。無抵抗の者を逃げ場のない袋小路で嬲(なぶ)りものにしたような、陰惨な印象が残る

◆人を使えば苦を使う――落語「百年目」などで知られる格言にある通り、人の上に立てば気苦労が伴う。叱り、叱られる光景はどこの職場にもあろう。「苦を使う」のも管理職の給料の内、人を生かす小言の芸を磨くしかない。
(「読売」20071017)

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著者からひと言
 後藤道夫さんに聞く
「ワーキング・プアと国民の生存権」(8月号)

 ワーキングプアの多くは、そのひどい状態を〈自己責任〉と思っている。インタビューでもふれたが、日本の社会保障制度は、勤労者世帯は市場収入によって生活をなりたたせて当然、という前提で運営されてきた。

そうした何十年かを過ごしてきたのだから、社会保障や、労働規制・賃金規制の弱さが自分たちの権利を侵害している、とはなかなか思えないのかも知れない。

精一杯努力してもどうにもならない状態でも、なお、〈自己責任〉である。

結局、「努力」だけでなく、「運の悪さ」「環境の悪さ」もまた〈自己責任〉なのだ。

自分のせいであろうがなかろうが、「自分で引き受けるしかない」というこの感覚は、徹底した社会的無力と孤立感の産物であろう。

 160年前、エンゲルスは次のように述べた。

「労働者は、支配階級に怒りを感じている間だけ人間なのである。自分たちをしばりつけている首かせを辛抱づよくがまんし、その首かせを自分でこわそうとはせずに、首かせをされたままでひたすら生活を愉快にしようとしはじめると、労働者はたちまち動物になるのである」(全集A三四六頁)。

 エンゲルスにしたがえば、ひどい状態におかれながら〈自己責任〉論に呻吟し、怒りを奪われている現在のワーキングプアにも、大量の「動物」状態が伴っているのだろう。参院選で「怒り」の一端は示された。だが、まだ足りない。学校を出た若者の五割は、職業的展望を待てない状況なのだ。本人たちはもちろん、親も祖父母ももっと本気で怒っていいのではないか。(後藤)
(月刊「経済」07年11月号 p179)

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◎「動物のようにあつかわれている労働者がほんとうに動物になったり、あるいは、権力を握っているブルジョアジーにたいして憎悪を燃やし、たえず心のなかではげしく怒っていることによってのみ、人間らしい意識と感情をもちつづけることができるのも、当然のことである」と。