学習通信070426
◎……でなければできない生活経験

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雨の日の体験

 おとといも、きのうも、きょうも雨。

 2DKの小部屋で──。とじこめられた子どもが小さな壁面にぶつけようとしたボールが花びんをひっくりかえし、母親の内職の用紙をぬらしてしまいました。子どものうるささをやっとがまんしていた母親のカンシャクがばくはつ。親子ともいっそう気がくさってしまいます。

 園の保育室で──。小さな部屋におおぜいつめこんでいるので、窓をしめないと外側の子どもたちには雨がふりかかります。湿気と温度はいっそうあがり、不快指数が高くなります。子どもたちは、高くつんだ積み木の下の方をはずして、ガラガラとくずすのをくりかえしています。おおぜいのカン高い叫びと積み木のくずれる音が、とじられた部屋に反響して、保育者もやりきれない思いです。日本は雨量が多く、一ヵ月くらいの雨期があります。だから「雨の日には外に出ないように」というしつけだけでは、消極的にすぎるのではないでしょうか。

 ある園での記録──。「先生、ウソツキダゾ、コンド土手ニツレテッテクレルッテ約束シタジャナイカ」「キョウ、イコウョネ」

 「だって、約束した次の日からずっと雨でしょ。先生だって早くつれていきたいなと思っているけど、いかれないじゃないの」

 「ミンナカササシテキタンダヨ。ソレニゴム長グツダッテハイテキタシ。カササシテイコウヨ」「ソウダヨ。カサハソノタメニアルンダ」

 「かささしてかけ足するの? 虫さがせる? お天気になるまで持っていてよ」

 「片ッポノ手デカササセバ、片方ノ手デ虫サガセルヨ」
 とうとう園の庭歩きで妥協することになりました。かさをさしてみんなで歩くという経験は珍しいことです。「歩くとき、ハネをあげないようにするにはどうしたらいいか考えてね」

 「ソーット歩ケバダイジョウブダヨ」
 「はじめは先生のあとについて、水たまりにはいらないで歩く練習」「次は、水たまりを静かに歩く練習」と呼びかけると、みんな歓声をあげています。

 「先生、ハッパ光ッテイテキレイヨ」「木モ花モオ水スキダカラナ」「砂場デ遊ベナイネ。カサトシャベルモッテ穴ホレナイモノナ」
 十五分で室内にひきあげましたが、「かささし散歩どう?」 「ウン、スコシイイ気持チ」雨期でなければできない生活経験によって、エネルギーを発散させてやるのもいいことです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p136-137)

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トンボのマンボ

 私は、薩摩忠さんのいくつかの昆虫の詩をとても好きです。なかでも好きなのは「トンボ」という詩です。

水に咬まれて
トンボ

ボウフリ擢(さら)ってトンボ

泥に染まって

タンボ
殼は壊して
トンボ

空に呑まれて
トンボ
目玉腫らして
ツンボ
藪蚊掠めて
トンボ
帽子拾って
トンボ
影を落して
トンボ
思想はなくて
トンボ

トンボ

マンボ
ウッ!

 この軽快なリズム。子どももきっと好きになると思います。

 ただ、「思想はなくて トンボ」というところが妙にひっかかっていました。「思想はなくて」とはどういうことだろう、と思って。

 それこそ別に深い思想があってのことばではなく、トンボのスイスイとした身ごなしを見て、ただひょっと薩摩さんの頭にひらめいた文句にすぎなかったのかもしれません。それにしても、この詩全体のなかでこの二行がしめている位置は特別です。第一行めからずうっとつづいてきたリズムをうけながら、その内容をしめくくり、同時に一転させて、一気にむすびの三行にもっていく転回点の役わりをはたしています。それだけに、妙に気になってきたのです──「思想はなくて」とはどういうことだろう、と。

 でも、たしかに、トンボには思想はないのです。そのことから第2話をはじめたいと思います。

本能と学習

 人類がほろびてしまったあと、トンボなんかの昆虫が知的な進化をとげて地球を支配する、というマンガを見たことがあります。それなりになかなかおもしろく、人類もその知の力をバカなことにばかりつかっているとほろびるぞ、という警告もきいていたように記憶していますが、それはそれとして、昆虫が将来知的な進化をとげる、というのは、科学的にはありえない空想なんですね。

知的な進化をとげるためには、脳が大型化しなければなりませんが、昆虫の場合には、それができないしくみになっているのです。というのは、昆虫の脳のまんなかを食道がつらぬいていて、そこを食物が通るのですが、脳が大きくなると食道がしめつけられて、食物が通らなくなる。

──「昆虫の脳」といいましたが、正確には「頭部の神経節」というべきでしょう。昆虫の神経系は体節ごとに相対的に独立したはたらきができるようになっていて、いわば地方分権的状態。だから、カマキリなんか、頭をきりおとされたあとも、カマをふりあげてむかってくることができます。それぞれの神経節ごとに、刺激にたいする反応のパターンがあらかじめくみこまれているわけで、昆虫の生活はもっぱらそれにしたがっていとなまれる。それが、いわゆる本能のはたらきですね。昆虫は、もっぱら本能による行動様式を極度に発達させた、その方向への進化の頂点に位する生物なんです。

 だから、昆虫に意識を間題にすることはできません。本能のはたらきは、体にあらかじめくみこまれた無意識的なはたらきなんですから。「思想はなくて トンボ」というのは、生物学的にはこういうことなんでしょうね。

 これが、脊椎動物になると、脳による「中央集権制」が確立してきて、この脳独自のはたらきによる外界への積極的な対応が発達していきます。「学習」と呼ばれるのが、それです。

 「学習」というのは、生物の個体が生後の経験にもとづいて本能的な行動様式を修正すること、あるいは新しい行動様式をかくとくすること、というふうに定義できるでしょう。池のコイが、手をたたけばエサをもらいにあつまってくる、というのなんかは、この学習によるものです。

 この学習の能力が大になればなるほど、生物はヨリ複雑な環境にたいしてヨリ柔軟に対応できるようになります。それだけ外界にたいする能動性、主体性が確立してくる、といってもいいでしょう。

 昆虫にだって、じつは学習能力はあるのです。トンボだってチョウだって、子どもに追いかけまわされているうちに、それだけ上手に逃げるようになるみたいな気がします。

 でも、なんといっても昆虫の場合は、本能がはたす役わりが決定的です。現在、地球上に住んでいる動物は無数の種類にわかれていますが、その四分の三は昆虫がしめていて、その数およそ一〇〇万種といわれます。これは、本能による生活がもっぱら特定の環境に依存する生活であることからきているでしょう。あらかじめ体内にくみこまれた行動パターンによって生活するのですから。だから、ほんのちょっとでも環境がちがえば、そのちがいに応じたちがった種が形成されていく、というぐあいになるのです。

 人間がそんなでなくてよかったですね。田舎ぐらしと都会ぐらし、団地ぐらしと一戸建てぐらしとでまったくちがった種になってしまうのではたまりませんから。

生物学で「種がちがう」というのは、結婚しても子どもが生まれない──あるいは子どもをつくる能力のある子どもが生まれない──ものどうしのことです。その点では、どんなに住んでいる環境がちがっても、皮膚の色や目の色、髪の色・形がちがっても、ことばがちがい風俗習慣がちがっても、地球上の人類はみな、ただ一種です。
(高田求著「未来をきりひらく保育観」ささらカルチャーブックス p28-33)

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◎「「学習」というのは、生物の個体が生後の経験にもとづいて本能的な行動様式を修正すること、あるいは新しい行動様式をかくとくすること、」と。