学習通信070425
◎フランス革命の庇護のもとで……

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けいざい楽校
メートル法、仏革命が契機

 四月七日は長さや重さを表す単位として現代の日本人の生活に浸透している「メートル法」が初めてフランスで公式に制定された日にあたる。メートル法の歴史は二百十二年前、一七九五年のこの日に始まった。

 当時はフランス革命(一七八九〜一七九四年)の直後。革命以前の仏国内では長さや重さを表すため、約八百種類もの単位が地域で使われていた。同じ名前だが実際には異なっていた単位をすべて区別すると「二十五万種類という驚異的な数にのぼった」(ケン・オールダー著・吉田三知世訳『万物の尺度を求めて』)という。

 このような単位の混乱について、当時の革命指導者たちは非合理的な「アンシャン・レジーム(旧制度)」を象徴するものの一つと考えた。そこで革命直後の国民議会から、全国統一の新しい単位をつくろうという機運が盛り上がった。メートル法は合理性を重んじる市民階級の革命思想から誕生したわけだ。

 新しい単位の決め方は、最終的に「地球の子午線の四分の一(北極点から赤道まで)の距離の一千万分の一」を「一b」、「千分の一立方b(一g)の水の重さ」を「一s」と定義。正確な一bを決めるため、仏北部のダンケルクとスペインのバルセロナの距離を三角測量で測り、その値を基に一bが計算された。ただ、このときの子午線計測は実際には不正確だったことが後に判明している。

 フランスは国内だけでなく世界全体で単位を統一するという理想を掲げ、各国にメートル法の採用を働きかけた。しかし「当時、仏と対立していた英国は、仏主導で決まったメートル法の採用を拒否し、米国も別の手法の採用を主張した」(産業技術総合研究所・計量標準計画室)。

 欧州では単位統一の必要性に賛同する国も多く、一八七五年に「メートル条約」が十七カ国で締結された。しかし英国は当初不参加。米国は当初から参加したが、現在に至るまでヤード・ポンド法の使用を国内法で認めている。

 日本は一八八六年(明治十九年)、メートル条約に加盟。単位の基準となる白金イリジウム合金製のメートル原器とキログラム原器が一八九〇年にフランスから届いた。

 しかし伝統的な尺貫法が浸透していたことに加え、米英から輸入される工業製品にはヤード・ポンド法が使われていたため、メートル法はなかなか普及しなかった。一九二一年四月にはメートル法採用を決めた法律が公布されたが、実際は戦後まで尺貫法やヤード・ポンド法も使われ続けた。五九年から一部の特例を除き、ようやく法律でメートル法に統一された。

 計測の不正確さなどが生じた子午線による定義の問題を解決して正確性を高めるため、一bの定義は六〇年に「光の波長」、八三年には「光の進む距離」を基準とすることに変わった。そのためメートル原器は使命を終えた「文化遺産」となった。一方、重さのほうは、いまでも十九世紀に作られたキログラム原器が基準のままで、茨城県つくば市の産総研で厳重に保管されている。
(「日経」20070402)

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 フランス革命の理想と現実

 これまで、『レ・ミゼラブル』やサン・ジュストの言葉を材料にして、フランス革命が高い理想を掲げたことを見てきました。そういう理想を掲げたこと自体が、われわれにある種の感動を与えるとしても、ここまで読んできた皆さんは、きっとこういう疑問をもたれるでしょう。「理想を掲げるだけなら何とでも言える。問題は、その理想が実現されたかどうかではないか」と。まったくその通りです。ただの理想だけなら、画にかいた餅みたいなものです。では、現実はどうだったのでしょうか。重要なのは、次の二つの点にあるでしょう。その一つは、革命はその理想をどれだけ実現することができただろうか、という点であり、もう一つは、その理想を実現しようとする過程において、何か大きな問題は生じなかっただろうか、という点です。

 第一の点から申しましょう。フランス革命は、その理想を実現するためにさまざまな政策をうち出しました。それらの政策で何が実現されたのかは、本書の第三章「劇薬はどんな効果をあげたのか」で詳しくお話しするつもりです。ただ、ここであらかじめ申しておきたいのは、革命の理想が実現されるためには長い時間が必要だったということです。明治維新の場合でも、「五箇条の御誓文」に掲げられたような維新の理想が実現されるためには、ずいぶん長い年月がかかりました。フランスの場合には、革命が終わったあと、ナポレオンの独裁が現われ、次いで王政復古になり、いわば革命の「揺りもどし」のような時代があったのですから、革命の成果が定着するには百年ほどの時間がかかりました。そこで、この節では、百年後のフランスの様子を少し見ておくことにしましょう。

 第二の点について、皆さんは、フランス革命の過程で、「恐怖政治」と呼ばれる時期に、多くの人々が断頭台(ギロチン)で殺されたことをご存じでしょう。この世の悲惨を絶滅しようとした革命は、かえって、その過程で、悲惨な犠牲者の大量の血を流すことになったのです。この点については、本書の第四章「劇薬の痛みについて考える」で詳しくお話しするつもりです。ただ、ここでは、フランス革命の「恐怖政治」の犠牲者の一人、ラヴォワジエの運命に触れておくことにしたいと思います。

 そこで、以上の二つの点をお話しする手がかりとして、皆さんもよくご存じの科学者、キュリー夫人に登場を願うことにしましょう。

キュリー夫人を迎えたフランス

 キュリー夫人は、一生を科学の研究に捧げた人で、フランス革命とは直接の関係はありません。しかし、彼女の才能が花開いたについては、一九世紀末の、つまり革命の成果が定着した時期の、フランスの状況が大いに関係していたように思われます。

 のちにキュリー夫人になるマリヤ・スクロドフスカは、一八六七年、ポーランドのワルシャワで生まれました。そのころのポーランドはロシア帝国の領土にされており、祖国を失ったポーランド人は、公用語としてロシア語の使用を強制されるなど、ロシアのきびしい圧政のもとにありました。少女時代のマリヤとその仲間たちは、心のなかでロシアの圧政にたいする激しい反抗の気持ちを燃やしながら、自由を奪われた暗い毎日をしいられておりました。そのマリヤが、パリ大学の理学部に留学するためパリに着いたのは、一八九一年の秋、フランス革命からちょうど百年ほどたったときのことでした。

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 パリというところは、何という若々しい気持ちを起こさせてくれる町であろう! 何という力強い、心の躍るような、希望で胸が膨れるような想いをさせてくれることか! そのうえ、ポーランドの乙女にとっては、何というすばらしい解放の印象であったことか! 骨の折れた旅行で薄ぎたなく汚れたマリヤが、北停車場の煤(すす)けたプラットフォームに降りた瞬間、屈従の生活に慣れた万力が不意に弛んで、両肘がしゃんと張り、肺臓も心臓も思いのままに活動するような気がした。マリヤは、初めて、自由の国の空気を呼吸したのである(エーヴ・キュリー、川ロ篤ほか訳『キュリー夫人伝』白水柱、一九三八年、一五六頁)。
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 マリヤを屈従から解放した自由の国フランス、──そのころのフランスは、第三共和政(一八七〇〜一九四〇)という体制のもとにありました。革命のあとでたびたび政体が変わったフランスでは、一八七〇年代になってから、革命の成果としての民主的な共和政がやっと定着したのです。マリヤが入学する五年前、一八八六年には、パリ大学にフランス革命史講座が設けられ、その講座の初代担当教授になったオーラールは、革命の二大原理はデモクラシーと共和政であると述べました。

第三共和政は、その二大原理を新しい体制の基礎にすえて、革命の成果の定着をはかりました。「自由・平等・友愛」という革命の標語は、一八四八年の憲法に一度採用されながら、その後は廃止されていましたが、この第三共和政のもとで再び国の公式の標語になりました。フランス革命の記念日(バスティーユ占領の日)である七月一四日が正式に国の祭日になったのも、一八八〇年のことでありました。抑圧されていたマリヤ・スクロドフスカのすばらしい才能は、いわば、フランス革命の庇護のもとで初めて開花したのだと言ってもよいでしょう。

ラヴォワジエの運命

 では、そのマリヤ、のちのキュリー夫人自身は、フランス革命をどう見ていたのでしょうか。娘さんのエーヴ・キュリーが書いた伝記によると、キュリー夫人は、暴力的な革命に反対して、「ラヴォワジエを断頭台にかける方が有益だったとは、いくらなんとおっしやっても承服できません」と言うのが常だったそうです。

 ラヴォワジエは、一八世紀フランスの生んだ近代化学の創設者で、燃焼とは酸化であることを明らかにするなど、多くの業績をあげた学者ですから、皆さんのなかにはその名前を知っている人も多いと思います。革命前から学問を実地に応用することに熱心だった彼は、革命が始まると、その学識を生かして、火薬の製法の改善、メートル法制定作業への参加、財政改革のための国富の推計など、新しい社会の建設に積極的に協力しました。ところが、革命は、彼にとって思いもよらない運命をもたらします。わざわいのもとは、彼が、革命前に、総徴税請負組合の一員になっていたことでした。

 総徴税請負組合というのは、各種の間接税(飲料などに課される消費税)の徴収を、国家に代わって一括して請負う組合のことで、組合の利益のために税金をきびしく取り立てたため、一般国民から深く恨まれていたのです。徴税請負の制度は革命によって廃止されましたが、革命が激化した一七九三年の秋になると、もと徴税請負人だった人びとは、国民を犠牲にして利益をむさぼった者として裁判にかけられることになりました。ラヴォワジエもまた革命裁判所に引き出され、一七九四年五月八日に処刑されてしまいました。

 ラヴォワジエが、革命前には正当とされていた徴税請負の仕事についていただけなのにそれが原因で処刑されたことは、恐怖政治の暗黒面を象徴する事件でした。彼が偉大な学者であっただけに、その悲惨な運命は、フランス革命そのものにたいする嫌悪と憎悪の気持ちをもたらさずにはおきません。

革命の成果によって自由の空気を吸ったはずのキュリー夫人が、ラヴォワジエを殺した革命を許すことができなかったのも、いわば当然でありましょう。理想を掲げた革命が、一方でデモクラシーを後世にのこしながら、他方で多くの悲惨な犠牲者を生んだのはなぜでしょうか。その理由を考えることこそが、この本の全体のテーマなのです。
(遅塚忠躬著「フランス革命」岩波ジュニア新書 p17-23)

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 現代の社会主義は、その内容からいえば、まず、一方ではいまの社会にゆきわたっている、有産者と無産者、資本家と賃労働者の階級対立の直観から、他方では生産のなかにゆきわたっている無政府状態の直観から生まれた産物である。

しかしその理論的形式から言えば、それは、はじめは、一八世紀のフランスの偉大な啓蒙思想家たちがうちたてた諸原則をひきつぎ、さらにおしすすめたものとしてあらわれ、しかもいっそう徹底させたものということになっている。

あらゆる新しい理論がそうであるように、いかに深くその根が物質的な経済的事実のなかにあったにしても、それはまずすでに存在している思想上の素材に結びつかなければならなかった。

 フランスで来たるべき革命のために人びとを啓蒙した偉大な人物たちは、みずからきわめて革命的に行動した。

彼らは、たとえどんな種類のものでも、まったく外部の権威を認めなかった。

宗教、自然観、社会、国家制度などすべてのものに、容赦のない批判がくわえられた。

すべてのものが理性の審判の前でその存在の正当性を立証するか、さもなければ存在することをあきらめなければならなかった。

知性の思考が唯一のものさしとしてすべてのものにあてがわれた。

それは、ヘーゲルが言っているように、世界が逆立ちしていた〔世界が思想の上に立っていた〕時代であった。

というのは、まずはじめは、人間の頭脳とその思考によって発見された諸命題が、すべての人間の行為と社会的結合の基礎とされることを要求したという意味であり、もっとあとでは、これらの命題に矛盾する現実が、実際に上から下までひっくりかえされたというもっと広い意味ででもあった。

すべてのこれまでの社会形態と国家形態、すべての古くから伝わってきている観念は、非理性的であるとしてごみ箱のなかへ投げすてられた。

世界はこれまでまったく偏見にみちびかれてきた。

すべての過去のものはあわれみとさげすみに値するだけであった。

いまやはじめて日の光、理性の王国があらわれた。

これからのちは、迷信、不正、特権、および抑圧は、永遠の真理、永遠の正義、自然にもとづく平等、およびゆずり渡すことのできない人権によって、とってかわられなければならなかった。

 われわれはいまでは知っている。

この理性の王国はブルジョアジーの王国を理想化したものにすぎなかったこと、永遠の正義はブルジョア司法として実現されたこと、平等は法律のうえでのブルジョア的平等に帰着したこと、もっとも本質的な人権の一つとして宣言されたのは──ブルジョア的所有権であったこと、理性国家、ルソーの社会契約が実現されたが、ただブルジョア的民主共和国として実現されることができたことを。

このように一八世紀の偉大な思想家たちは、すべての彼らの先輩と同様に、彼ら自身の時代が彼らにたいしてもうけた制約をのりこえることができなかった。
(エンゲルス「空想から科学へ」新日本出版社 p23-26)

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◎「まずはじめは、人間の頭脳とその思考によって発見された諸命題が、すべての人間の行為と社会的結合の基礎とされることを要求したという意味であり、もっとあとでは、これらの命題に矛盾する現実が、実際に上から下までひっくりかえされたというもっと広い意味で」と。