学習通信070424
◎自分の好みの材料をあつめてマヨネーズをかけて飾る……
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労働者がおかれている「事実」から出発する
日本共産党の経営での活動というのは、なにも、その経営にいる労働者にむかって、日本共産党が考え出した目標や要求をむりやり押しつけて、そこへきてくれとむりやりがんばるというものではありません。
マルクス、エンゲルスは「共産主義とは教義ではない、事実から出発する運動だ」ということをくりかえし強調しましたが、経営での私たちの運動も、労働者がおかれている「事実」から出発するというところに値打ちがあります。
労働者がおかれている現実から出発して、その経営の労働者の利益の守り手として労働者とともに力をつくす、これは経営における日本共産党の存在と活動の根底をなす問題です。
もちろん、資本のほうは、日本共産党のそういう役割が、多くの労働者に理解されると困りますから、反対の宣伝をさかんにします。日本共産党に近づくと会社からひどい目にあわされる、逆に日本共産党からはなれて「インフォーマル組織」(職場の反共組織)にはいればよい待遇をうける、こんなやり方で日本共産党孤立化政策に狂奔した時代もありました。
しかし、経営者側がこういうことをやるのは、労働者を無抵抗にして、より過酷な搾取や抑圧をやるためですから、多数の労働者に「よい待遇」が保障されつづけるはずはなく、そんな宣伝がいつまでも通用するものではありません。
人間は複雑な存在ですから、自分がおかれている客観的な立場や本当の利益がすぐそのとおりに自覚されるわけではなく、それには、時間がかかります。他の資本主義国には例のないようなひどい搾取や抑圧にさらされていても、その状態を「会社意識」だとか、「企業中心主義」だとか、いろいろなものでごまかしている。
そうしたごまかしにとらわれないで、労働者が自分のおかれている地位を客観的に冷静に見て、自分の利益を本当にまもるにはこのままでよいのかということを真剣に考える──こういう階級的な自覚の発展をたすけるところに、労働者のなかでの日本共産党の役割があるわけです。
党の都合で、労働者の利益にあわない見当違いのところにひっぱってゆこうというのではなく、労働者が自分の客観的な地位、本当の利害を自覚するのをたすけようというところに、労働者階級の党としての日本共産党の役目があるのですから、そこには無理なことはなにもないのです。
ですから、どんなに困難はあっても、職場の労働者の真の利益にそくして事態を見るなら、最後に多数者の支持をえられるのは私たちだという、大局の確信をしっかりもって活動することが、まずなによりも大事だと思います。
(不破哲三著「経営のなかの日本共産党」新日本出版社 p158-160)
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かかりやすい三つの「病気」
──形而上学の影響について──
ここでとりあげる「病気」は、もちろん生理的、肉体的な病気ではない。それは医学のとりあげるテーマである。ここでいう「病気」とは、活動上、思考上のそれである。なぜ、「病気」というのかといわれれば、偏向とか誤謬といった体系的な、あるいは本質的なものでもないし、欠陥や短所というほどにはっきりとしているものでもないからだ。
人間のカラダも、完全無欠な健康体である人は、すくないといわれる。どこか、なんかしらの「病気」に類するものはまとっているそうだ。健康体とは、その病気にまけず、それにうちかっているところにあるのだろう。だから、ここでとりあげる「病気」とは、健康体の人にそなわっているもののことであって、まったく救いがたい病状のものとはことなる。だから、れほどに深刻に考えるべきものでないのかもしれないが、とにかくある「病気」にはちがいないのである。
a「感覚そう失」症
レーニンは「全面性の要求は、われわれに誤りや感覚そう失に陥らないように用心させてくれる」(『ふたたび労働祖合について』全集、第三二巻、九二ページ)と述べている。ここには、「感覚そう失」症というひとつの「病気」についての指摘がある。
感覚とは、唯物論があきらかにしているように、外界に存在するものが人間の頭脳に反映してくる直接の入口であり、それは人間の意識と意識のそとのものとの結び目≠ネのである。人間は、感覚をつうじないでは客観的なものごとをとらえることはできないし、しかもその感覚は外界のものごとを生き生きとゆたかにとらえるのである。だが、感覚は、客観的なものごとの反映が直接的であるだけに、ものごとの本質をとらえず現象や仮象をとりまぜて写しとる。
生きている人問であるかぎり、その感覚を失うことはない。活動家といえどもかわりない。レーニンが、そうした生理的な意味での「感覚そう失」症について述べたのでないことはいうまでもない。
それでは、いったいどのような症状を「感覚そう失」症というのだろうか。人間の感覚は、外的なものの刺激によって発生するわけだが、しかし、なにをどのように感覚するかは、けだものと区別される人間にそなわっている理論的認識のありかたによっておおきく左右される。労働者の内面に階級的な自覚がうちたてられているとき、仲間たちの苦しみや不幸をするどく敏感に感覚することができるが、個人主義的処世観をもつ労働者には、それが感覚にとらえられないといったようにである。
活動家が理論的な認識をたんなる知識にとどめてしまっていて、みずからの意識として血肉と融けあわしていないときには、やはり「感覚そう失」が生まれるのである。また、活動のうえで、仲間たちの現実から「離れ」、仲間たちに「おしつけ」をやっているときにも「感覚そう失」はさけられないのである。
そうしたときには、自分および自分たちにとって必要と考えられるもの、のぞましいもの、プラスと考えられるものについては、あれもこれもというぐあいに、いやになるほどひろいあげることができても、自分と自分たちにとって必要と思えぬもの、のぞましくないと思えるもの、マイナスとなると思えるもの、無関係と思われるものなどについては「感覚そう失」になるのである。これでは、仲間たちの気分、感情、心理などについて生き生きとキャッチすることができず、仲間たちの「雰囲気」からはなれたもののいいかた、問題のとらえかた、活動のしかたがへいきでとられるということになる。
こうしたことはつまり、「活動家としての感覚」の大前提となるべき「平凡な労働者としての感覚」を「そう失」しているということだ。そのために、職場や仲間たちの状態をありのままに、全面的にとらえられず、「自分の好みの材料をあつめてマヨネーズをかけて飾る」ということにえてしてなりやすいのではないだろうか。
私たちが活動のうえで対象とする問題、人びとは、すべて具体的な存在である。この具体的なものとはどのようななりたちをしているのかをはっきりさせなければ、具体的なものごとをまえにして「感覚そう失」におちいるのである。
「具体的なものは、それがおおくの規定の総括であり、したがって多様なものの統一であるからこそ具体的なものである」(マルクス『経済学批判』序説)といわれるように、多様な諸側面、諸要素がひとつにむすびついて存在しているというのが具体的なものごとのすがたなのであり、それはまた「あらゆる具体的な事物、あらゆる具体的なあるものは、……それ自身でありかつ他のものなのである」(レーニン『哲学ノート』)といえるように、対立しあう二つの側面をもってなりたっているものなのである。
したがって、ある具体的なものごとをとらえるとき「感覚そう失」におちいらないためには、それらの多様な諸側面にたいする全面的な把握をみずからに課し、さらにすすんでそのなかの矛盾をとらえるようにつとめるべきなのだ。マルクスが述べているように「具体的なものは……現実的な出発点であり、したがってまた直観と表象との出発点」(マルクス『経済学批判』序説)としなければならないものである。
こうしたとき私たちは「自分の願望、自分の思想的、政治的態度を客観的な現実ととりちがえ」ることからも、まぬがれられるであろう。私たちは、自分たちのもつただしい目的そのものが、そうした具体的な現実のなかから生みだされ、現実のなかの本質的な、必然的な側面をぬきだしたものにほかならず、その現実を前提にしてなりたっていることをふまえて、けっして目的を具体的な現実と対立させてはならないのだ。
具体的なものごとのもつ多様な諸側面を生き生きと感覚しとらえる能力をもつとき、ただしい目的は具体的な現実のなかにふかくむすびつき、現実をつきうごかしていく物質的な力となることは疑いないのである。
私たちは、いかに目的がただしいとしても、その目的を現実にたいして「観念論」的にとりあつかってはならないといえよう。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木書店 p104-109)
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実在的なものと具体的なものから、つまり現実的前提から始めること、したがってたとえば経済学では、社会的生産行為の全体の基礎であり主体である人口から始めることは、正しいことであるように見える。
しかしこれは、もっと詳しく考察してみると、まちがいであることがわかる。
人口は、もし私がたとえばそれを構成している諸階級を省略してしまうならば、一つの抽象である。
さらにこれらの階級も、もし私が階級を成り立たせている諸要素、たとえば賃労働、資本などを知らなければ、やはり空語である。
この賃労働や資本は、交換、分業、価格などを前提する。
たとえば資本は、賃労働がなければ、価値、貨幣、価格などがなければ、なにものでもない。
したがって、もし私が人口から始めるとしても、それは全体の混沌とした表象であり、もっと立ち入って規定をくわえることによって、私は分析的に、だんだんとより単純な概念にいたるであろう。
つまり、表象された具体的なものから、ますますより希薄な抽象的なものにすすみ、ついには、もっとも単純な諸規定にまで到達するであろう。
そこからこんどは、ふたたびあともどりの旅が始まるはずであって、最後にふたたび人口に到達するであろう。
だがこんど到達するのは、全体の混沌とした表象としての人口ではなく、多くの諸規定と諸関連をともなった豊かな総体としての人口である。
第一の道は、経済学が生成したころに歴史的にたどった道である。
たとえば一七世紀の経済学者たちはいつも、生きた全体である人口、国民、国家、多数の国家などから着手した。
しかし彼らはいつも、分折によって、若干の規定的な抽象的一般的諸関連、たとえば分業、貨幣、価値などをみつけだすことに終わった。
これらの個々の諸契機が多かれ少なかれ確定され抽象されるとすぐに、さまざまな経済学の諸体系が始まったのであり、労働、分業、欲求、交換価値のような単純なものから上向していって、国家、諸国民の交換、そして世界市場にまでいたった。
このあとの方が、明らかに、科学的に正しい方法である。具体的なものが具体的であるゆえんは、それが多くの諸規定の総括であり、したがって多様なものの統一だからである。
それゆえ、思考においては、具体的なものは、それが現実の出発点であり、したがってまた直観と表象との出発点であるにもかかわらず、総括の過程として、結果として現われるのであって、出発点としては現われない。
(マルクス著「『経済学批判』への序言・序説」新日本出版社 p59-60)
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◎「そうしたごまかしにとらわれないで、労働者が自分のおかれている地位を客観的に冷静に見て、自分の利益を本当にまもるにはこのままでよいのかということを真剣に考える──こういう階級的な自覚の発展をたすけるところに、労働者のなかでの日本共産党の役割があるわけです」と。