学習通信070418
◎「髭の刈り様がよろしくない」……
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《潮流》
アメリカ軍がバグダッドを陥れ、フセイン大統領の銅像を引き倒したのは、二〇〇三年の四月九日です。四年後、イラクではいまも血が流され、九日、「占領者アメリカ出て行け」の行進がありました
▼「世界中の人がみんなシェイクスピア好き≠ノなったら、この世界から戦争が消えるでしょう」。帯にこんな引用文を刷り込む本は、小田島雄志さんの『シェイクスピアの人間学』(新日本出版社)です
▼先の引用は、『お気に召すまま』のせりふを読み解く部分から。裁判官が七人かかってもねさめられなかった、けんか騒ぎ。ところが当人たちが出会ったとき、一人が「もしも」という言葉を思いつく
▼「もしもきみがこう言ったらおれもこう言ったろう」と。二人は互いに分かり合い、「『もしも』ってやつは最高の仲裁役だよ」となります。小田島さんによれば、「もしも」は「想像力」の問題です
▼小田島さんの話は、マルクスにおよびます。『資本論』などにシェイクスピア劇の言葉をよく用いたマルクス。小田島さんは、ある戯曲を「諸個人を時代精神のたんなるメガホンにしてしまうシラー式」でなく「シェイクスピア風に」と批評した、マルクスやエングルスにも注目します
▼ドイツの詩人シラーは「かくあるべき」の理念を劇にしたが、生身の人間を丸ごと描こうとするのがシェイクスピア風。そう理解していたマルクスやエンゲルスを、小田島さんが評します。「心豊かな人たちだったことを今回あらためて発見しました」
(「赤旗」20070411)
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タッチストーンとオードリーが空地に入って来る。
ジェイキス……こいつはどうも、近いうちに開闢(かいびゃく)以来二度目の大洪水があるらしい、で、このノアの方船(はこぶね)めざして番(つか)いの群れが続々詰めかけて来るという訳だな。唯今御到着の一対は世にも不思議な怪獣で、どこの国の言葉でも均しく阿呆と称されている奴だ。
タッチストーン……皆様、何とぞよろしく!
ジェイキス……公爵、良く来たと言葉をかけてやって頂きとう存じます、私が森でよく出会った脳味噌の斑(まだら)な先生がこのお方、当人の言葉によりますと、かつては官仕えした経験もあるとか。
タッチストーン……怪しいとお思いになるなら、誰方様でも、さあ、お試し下さいまし。これでも、かつては御殿で雅びな舞踏をやった事もある──甘い言葉で貴婦人の御機嫌を取った事もある──身方には策を弄し、敵には旨く取入った事もある──仕立屋は三軒も踏倒す──喧嘩口論四回、その上あわや決闘という際どいのが一度。
ジェイキス……で、どう話を附けたのだ?
タッチストーン……それがです、いざ立合いとなって、その決闘の根拠が第七原因にあるという事になりましてね。
ジェイキス……何、第七原因だと? 公爵、なかなか面白い奴でございましょう。
公爵……大いに気に入った。
タッチストーン……ありがたき仕合せ、そのお気持の変りませぬように……それがし、ここに群がる山出しのくっつきたがりの中へ割込んで参りましたのは、ほかでもない、結婚が男女を合わせ、本能が夫婦の仲を裂くに随い、臨機応変、誓いを立てたり破ったりするためでして……(オードリーの方に手を振って)まことにお祖末な乙女、至って無器量な娘にございますが、ともあれ、あれもそれがしのもの──ほかに引取り手の無いものを引取るなど、もってのほか、全くもって恋は思案のほかにございます、が、殿様、操という宝は吝嗇坊(けちんぼう)と同様、粗末なあばら屋に住んでおりますもの、見事な真珠が見ばの悪い牡蠣に心中立てしておりますようなもので。
公爵……なるほど、気のきいた名文句を矢継早にまくしたてる。
タッチストーン……阿呆の矢種は直ぐ尽きるとか、それがしのお喋りもその種の結構なお荷物でございます。
ジェイキス……それより、さっきの第七原因というのを説明しろ。どういう訳でその決闘の根拠が第七原因にあるということになったのだ?
タッチストーン……つまり、口論の手続きを七度繰返して出て来る虚偽(きょぎ)が因になっているのでして……おい、もっとしゃんとするのだ、
オードリー……それはこういう事なので、それがし、さる宮廷人に向って、その髭の刈り様が気に食わんと申しましたところ、お前がどう言おうと俺はこの髭の形が良いと思っている、とそう言葉を返して来ました、さて、これが「慇懃(いんぎん)なる口返答」というやつでございます。
そこでもしそれがしが二たび「髭の刈り様がよろしくない」そう言葉を返したとする、それに対し相手はきっと言葉を返し、自分の好きなように刈っているのだ、と申しましょう、これが「穏健なる毒舌」というやつでございます。
そこで更にこちらが「髭の刈り様がよろしくない」とやれば、相手はそれがしの見識にけちを附けて参りましょう、これが「乱暴なる逆(さか)ねじ」というやつ。
そこでもう一度「髭の刈り様がよろしくない」とやれば、お前は真実を述べていないと答えて参りましょう、これが「勇敢なる非難」というやつでございます。
続けて、「髭の刈り様がよろしくない」とやれば、お前は嘘つきだと来る、これが「攻撃的反論」というやつ、こんな調子で次は「間接的虚偽」になり、その次が「直接的虚偽」へと進む訳でございます。
ジェイキス……で、お前は何度「髭の刈り様がよろしくない」と言ったのだ?
タッチストーン……精々「間接的虚偽」の段階までで、さすがにそれ以上は進めませんでした、相手の方も及び腰で、「直接的虚偽」まではついに到り得ませんでした、という訳で、お互いに剣を合わせて長さを較べっこしただけで、お別れにしたという次第でございます。
ジェイキス……その虚偽の七つの段階をもう一度順序立てて言えるかね?
タッチストーン……そりゃあもう、手前どもの口論は版で押したように正確無比──本に書いてある通りに行われます、その点、皆様の礼儀作法と御同様でして……さて、その段階を逐一列挙して御覧に入れましょう。第一「慇懃なる口返答」、第二「穏健なる毒舌」、第三「乱暴なる逆ねじ」、第四「勇敢なる非難」、第五「攻撃的反論」、第六「間接的虚偽」、第七「直接的虚偽」……以上、すべての場合、決闘は避けられます、尤も「直接的虚偽」の場合は例外、いや、それすら逃げられる、即ち「仮りに」という一語を附け加えておきさえすればよろしい。
かつて裁判官が七人掛りでも話が附かなかった揉め事がございましたが、いよいよ当人同士が顔を合わせる段階になりまして、その一方が計らずも「仮りに」という一語に想い到りましたと思召せ、たとえば「仮りに、あなたがかくかくしかじかと言うとする、それなら吾が輩はかくかくしかじかと答える」という調子で、ついに二人は手を握り合い、兄弟の契りを結ぶに至ったという事でございます。「仮りに」こそ唯一無比の仲裁役、その徳、広大無辺なるはこの「仮りに」の一語。
ジェイキス……こんな奴は滅多におりますまい、公爵? 何を喋らせてもこめ調子で実に気がきいている、それでいて、なおかつ阿呆ときている!
公爵……己れの阿呆を隠蓑(かくれみの)に使って忍び寄り、その蔭から機智の矢を浴びせて来るという訳か。
(シェイクズピア「お気に召すまま」新潮世界文学2 p396-398)
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さて、『フランツ・フォン・ジッキンゲン』にうつろう。まず最初に僕は構成と筋とを賞めなければならない。それは近代のドイツ戯曲のどれよりもすぐれていると言える。第二に、この作品にたいする純粋に批判的な態度はさておくとして、最初に読んだときは非常に感動した。だから、僕よりもっと感情に支配される読者にたいしてなら、その及ぼす効果はずっと強いことだろう。これは第二の、非常に重要な面である。
さて今度はメダルの裏側だ。
第一に──これは純粋に形式上のことだが──君はとにかく韻文で書いたのだから、抑揚格(ヤンブス)をもうすこし芸術的に仕上げることができただろうに。
このような無頓着さは専門の詩人連中をひどく憤慨させることだろうが、わが国の亜流詩人輩は形式上の流暢さ以外にはなにも持合せがないのだから、こうした無頓着さも全体としては一つの長所だと、僕は思う。
第二に、君の意図した衝突は、たんに〔一般的に〕悲劇的であるというだけでなく、一八四八〜四九年の革命党を当然にも破滅させたあの悲劇的衝突でさえある。
だから僕は、これを一つの近代的な悲劇の中心点にすえることには絶大な賛意を表することができるだけだ。
しかし、つぎに僕は自問してみる、それでは君のあつかったテーマはこの衝突を描写するのにふさわしかっただろうか? バルタザル(※)はこう思いこんでいる、もしジッキンゲンが自分の反乱を騎士間のいさかいという仮面のもとに隠したりしないで、反皇帝の旗印ならびに諸侯への公然たるたたかいの旗印をかかげたならば、勝利を得たであろう、と。
彼が実際そう思いこむことは可能だ。だが、われわれがこんな幻想にくみすることができるであろうか? ジッキンゲンは(そして、彼とともにフッテンも、多少似ているが)抜目のなさのせいで滅亡したのではない。
彼が滅亡したのは、彼が騎士として、滅びゆく階級の代表として、現存するものに、というよりはむしろ、現存するものの新しい形態に反抗したからである。
もしジッキングンから、彼個人に属するものと、彼の特別の教養とか素質等々に属するものを取りさってしまえば、残るのは──ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンである。
この〔ゲッツという〕なさけない男のなかには、皇帝ならびに諸侯への騎士階級の悲劇的な対立が、それにふさわしいかたちで存在しているのだ。
だから、ゲーテが彼を〔自分の戯曲の〕主人公にしたのは正しかった。
ジッキンゲンが──ある程度まではフッテンさえも、もっとも、フッテンの場合にはある階級のすべてのイデオロークたちの場合と同じように、次のような言い方にはかなりの修正をしなければならないだろうが──諸侯にたいしてたたかっていたかぎりでは(〔彼が、〕皇帝〔カール五世〕にたいしてもほこ先をむけるようになるのは、皇帝が騎士の皇帝から諸侯の皇帝にと変わったからにすぎないのだから)、彼は実際に一人のドン・キホーテにすぎないのである。
もっとも、これには〔本物とちがってたんなる時代錯誤でなく〕歴史的にある種の正当さがあるとも言えようが。
ジッキンゲンが騎士の私闘という見せかけのもとに反乱を始めたことは、彼が反乱を騎士として始めたということ以上のなにものをも意味しはしない。
もしも彼が反乱を別なやり方で始めたとしたら、彼はじかに、そして、反乱の開始と同時に、諸都市と農民に呼びかけなければならなかったであろう。
すなわちそれら両階級が発展すれば、騎士階級が否定されることになるのだが、まさにそういう両階級に、呼びかけなければならなかったであろう。
*ラサールの戯曲に登場するジッキンゲンの腹心の家来。
したがって、もしも君が、この衝突をあっさりと、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンで描写されているような衝突にまで引きさげたくないのだったら──また事実このように引きさげることは君のプランではなかったのだから──、ジッキンゲンとフッテンの滅亡の理由を、彼らが頭のなかだけで革命家だと思いこんでいながら(これはゲッツについては言えない)、実際には、一八三〇年〔の独立闘争における〕ポーランドの教養ある貴族とまったく同様に、一方においては自分を近代思想の代弁者としながら、他方ではじつは反動的な階級利害を代表していたというところに求めなければならなかったのである。
だがその場合、革命の貴族階級の代表者たち──彼らのスローガンは統一と自由だが、そのスローガンのかげには依然として旧〔神聖ローマ〕帝国の夢と腕ずくの権利の夢がひそんでいるのだ──彼らはそうなると、君の戯曲で見られるようにそんなに一切合財の利害を一身に体現することは許されず、農民の代表者たち(とくにこれだ)と諸都市の革命的諸分子の代表者たちとが、とくにきわだって、積極的な背景とならなければならなかったわけだ。
そうなれば君はまさに最も近代的な諸理念を、きわめて素朴な形で、はるかに高い度合で語らせることができたであろうに。
実際に今日でも、宗教の自由のほかには依然ブルジョア的統一が主要理念となっているのだから。
君はそこで、みずからもっとシェイクスピア風に書くべきだったのだ。
ところが、君のは、諸個人を時代精神のたんなるメガホンにしてしまうシラー式だから、僕はそれを君の〔作品の〕最も重要な欠点と見なすのだ。
──君自身ある程度、君のフランツ・フォン・ジッキンゲン同様、外交官式なあやまちにおちいって、ルター的─騎士的反抗を平民的─ミュンツァー的反抗の上位においているのではないか?
(「マルクスからラサール」ME全集第29巻 大月書店 p590-593 原頁)
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◎「そうなれば君はまさに最も近代的な諸理念を、きわめて素朴な形で、はるかに高い度合で語らせることができたであろうに」と。