学習通信070413
◎石器の流れ……
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《潮流》
高松塚古墳の石室を解体する作業が始まりました。石室を形づくる十六の石を、一つずつとりはずしていきます。壁画がはがれかねない、危うい仕事です
▼高松塚の壁画は、一九七二年、千三百年の眠りからさめるように、奈良県明日香村の土中から姿を現しました。色鮮やかな服装の女性たちの像や天体図。発掘は、古代ブームを巻き起こします
▼直後、橿原考古学研究所の末永雅雄所長(当時)は、石室を閉じるよう命じました。外から入る光や空気がどんな影響をおよぼすか、分からなかったからです。末永所長は「壁画は国の宝」と語り、保存を文化庁にゆだねます
▼しかし、いま「壁画はボロボロ」(河合文化庁長官=○四年当時)に。文化庁は、カビを除くときに壁画を傷つけてもいます。加えて、劣化も損傷も隠していたのですから、「国の宝」を守れない文化庁への人々の不信感は根強い
▼壁画に、中国や朝鮮の影響がみてとれます。西壁の四人の女性は、高句麗風の衣装をまとっているそうです。高句麗は朝鮮北部にあった国。古代東アジアの文化交流や人の行き来に、興味がつのります
▼一日付本紙「科学のひろば」に載る、国立科学博物館の篠田謙一さんの話もおもしろい。人類のDNAの違いはごくわずかで、日本人のDNAのほとんどが東アジアの人に共有されている。同じ遺伝子をもつ人々に公正や信義を期待しても間違いではないはずで、他国民を信頼する平和憲法の精神の正しさを生物学の立場から保証している─。
(「赤旗」20070404)
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DNAから見た日本人の祖先
アジアの様々な地域の起源
国立科学博物館人類第一研究室長
篠田謙一さんに聞く(下)
──以上略──
──縄文人や弥生人のDNAも調べられていますね。
これまでに200体近い縄文人骨のDNA分析が行われています。いずれも北海道と関東の遺跡から出土しました。
北海道の縄文人の解析結果では、先に述べた、北から入ってきた最古の祖先集団(N9b)のDNAを持つものが6割以上を占めています。とれに対し、関東の縄文人は、特別多くの比率を占める祖先集団はなく、さまざまな祖先集団から構成されています。縄文時代までに、さまざまな祖先集団の流入があったことを示しています。
──弥生人はどうですか。
縄文人骨は貝塚の厚い貝層に守られて保存されているのですが、弥生時代の人骨は非常に少ないのです。そんななかで、北部九州を中心とした地域では、弥生人が遺体を甕棺(かめかん)という巨大な素焼きの甕に入れて埋葬する風習を持っていたために、人骨が発見されます。
これらの弥生人は、朝鮮半島や中国の江南地方から水田稲作をもたらした人たちだと考えられており、「渡来系弥生人」と呼ばれています。
現在の本土日本人(沖縄の人とアイヌ以外の日本人)と、渡来系弥生人、関東縄文人のDNA解析結果を比較すると、本土日本人に最も多い祖先集団が弥生人でも最も多くなっています。これらの解析結果は、現代日本人が在来系の繩文人と渡来系の弥生人の混血によって成立したという混血説(二重構造論)を強く支持しています。
──先生は著書(『日本人になった祖先たち』)のなかで、日本国憲法について触れてい ますね。
憲法の正しさ
憲法は、安全保障に関しては「他国民を信頼する」という精神で組み立てられています。これはある種の「覚悟」のようなものだと思うのですが、私たちの持つDNAを研究してみると、そもそも人類の持つDNAの違いはごくわずかであること、私たちの持つDNAは、ほとんどが東アジアの人々に共有されていることがわかりました。同じ遺伝子を持つ人々に公正や正義を期待することは間違いではないはずで、私は、このことが憲法前文の精神の正しさを生物学の立場から保証しているように思うのです。(おわり)
(「赤旗」20070401)
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二、私たち日本人はとこから来たのか
DNAが日本人の祖先探しの決定的な手段となった
スペシャル番組のもう一つは、八月から始まった「日本人 はるかな旅」という連続番組の第一集です(「シベリアのマンモス・ハンターたち」八月一九日放映)。そのテーマは何かといいますと、「私たち日本人はどこから来たか」という研究です。これは、昔からの大きなナゾの一つで、これまでは、日本人の生活習慣が世界のどこと似ているかとか、日本語に近い言語はどこにあるかとか、遺跡から出てくる石器の比較とか、そういうところから論じられたものでした。しかし、それだけではなかなか解決にいたらなかったのです。
ところが、科学の発展とはやはりすごいもので、新しい研究手段をえて、かなりいいところまで来たな≠ニいえる答えが、最近になって出てきました。その新しい研究手段とは何かというと、例のDNA──細胞の核のなかにある遺伝子で、いまやいろいろな分野でたいへん有名な存在ですが、そのDNAが、日本人の祖先探しの研究に威力を発揮し始めたのです。
日本の各地にある縄文時代(一万年前から紀元前四、三世紀ぐらいの時代)の遺跡から、人間の骨がいくつか見つかっています。その人骨に残っている歯からDNAがとれるとのことです。九州の佐賀大学で、この方法で縄文時代の人のDNAを二十九人分とりだし、これと同じDNAをもっている人が世界にいないかを調べました。国立遺伝学研究所のDNAデータバンクには、世界の百三十二の民族の五百万体におよぶDNAが保存されているそうで、それと照らし合わせて、同じものが見つかれば、縄文時代人がその地方からやってきたことが分かります。こういう作業をやってみたら、二十九体のうち、二十体までは同じDNAがみつかりました。一体は韓国の人、一体は台湾の人、一体はタイの人、残る十七体はなんと、シベリア中部のバイカル湖に近いところで生活しているブリヤート人だったのです。こうなると、縄文人の先祖探しとしては、決定的な有力な方向が見えてきます。
NHKの取材班がすぐブリヤート人の街にかけつけるのですが、私も、取材した情景をテレビでみて驚きました。子どもも大人も、日本人そっくりの顔をしているのです。しかし、遠いシベリアですから、いったい、こんなところから、はたして日本列島にやってきたのだろうか、と思いましたが、番組のなかでは、わが祖先たちが歩いてきた道筋が、りっぱな裏付けをもって明らかにされてゆきます。
そのなによりの裏付けとなるのは、石器の流れでした。
日本列島に渡ってきたシベリアのマンモス・ハンターたち
だいたい、現代人の最初の先祖たちはアフリカで誕生し、そこから次第に地球上に広がっていったことがわかっています。その一つの流れに、マンモスを追ってシベリアに来た狩人の集団(アノモス・ハンター)があって、二万三千年ほど前に、シベリアのこの地域に定着したようです。そのころの遺跡が発掘されていますが(マリタ遺跡)、そこから出る石器が、ほかの地域にはない、まさにマンモス・ハンター独特のものでした。
マンモスというのは、地上最大の哺乳動物といわれた巨体で、全身が長い毛でおおわれたぶ厚い皮膚で守られています。その毛皮をつらぬくために、シベリアのマンモス・ハンターたちは、独特の鋭いヤリを発明したのです。ヤリの穂先には、動物のかたい骨を使います。その骨の横腹に細いミゾをえぐって、そのミゾに、固い石を細く削り割って鋭い刃をつけた石器をはめこむのです。ちょうど、安全カミソリに薄い刃をはめこむのと同じ要領です。薄い刃になるこの石器が「細石刃(さいせきじん)」です。ヤリの穂の本体をなす骨は強いものですし、そこにつけた石の刃は鋭いですから、これならマンモスの毛皮でもぶすっとつらぬくことができる。これは、シベリアのブリヤート人たちが発明した、狩猟用の独特の石器でした。
ところが、二万年前のころ、気温が大幅に低下するという気候の大激変がおきました。マンモスたちは、より暖かい、緑のある土地を求めて東の方へ大移動を始めます。それを追って、マンモス・ハンターたちも移動を開始しました。ある集団は、ベーリング海峡をこえてアメリカ大陸に渡り、ある集団は、南下して中国方面に移動しました。また別の集団で、サハリン(樺太)を経て北海道へと渡ってきた人たちがいたのです。当時は、シベリアとサハリン、サハリンと北海道はすべて陸続きでしたから、日本列島に歩いて渡ることができました。北海道と本州のあいだは、当時すでに津軽海峡で分かたれていましたが、寒い冬には海が氷結するので、その時期に氷の上を歩いて渡ってきた、と考えられています。
これはただの推理ではありません。北海道の千歳市のあたりに、二万年ほど前の遺跡があるのですが、そこから出てきた石器のなかに、シベリアのブリヤート人たちが使っていた「細石刃」がいくつも発見されました。これは、ブリヤート人たちが二万年前にここまでやってきたことを示す、まぎれもない物的証拠です。この石器を使った人間というのは、これを発明したマンモス・ハンターたち以外にはいないのですから。
こうして、「私たち日本人はどこから来たのか」というナゾの答えが、あらまし分かってきました。シベリアから大型の動物たちを追って渡ってきた人びとがいちばん太い流れをなし、南から海をこえて日本にやってきた人たち、中国や朝鮮から渡ってきた人たちがそれにくわわって、縄文時代人が形づくられてゆく、そう考えると、初めにDNAで調べた縄文時代人の親戚筋の分かれ方も、説明がつきます。
(不破哲三著「二十一世紀と「科学の目」」新日本出版社 p27-31)
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◎「同じ遺伝子を持つ人々に公正や正義を期待することは間違いではないはずで、私は、このことが憲法前文の精神の正しさを生物学の立場から保証としている」と。