学習通信070330
◎人使いは荒くなる一方だ……

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財界の職場支配をみずから掘り崩す深刻な矛盾が

 第一は、これらの攻撃が、労働者・国民との矛盾を深めるとともに、財界・大企業の職場支配をみずから掘り崩す深刻な矛盾をつくりだしていることであります。

メンタルヘルスによる損失は年間一兆円にのぼるとの試算もあります。

労働事故・労働災害の多発も深刻です。

技術の継承ができないことによる品質の劣化が重大問題になっています。

トヨタや三菱など自動車のリコールの急増、JR西日本の尼崎での大事故、日本航空の事故の続発など、社会を揺るがす事態が繰り返されています。

 日本経団連では、毎年、『経営労働政策委員会報告』という報告書を出していますが、これをみますと、財界の危機感がリアルにのべられています。

 その二〇〇四年版では、「従来ほとんど起こらなかった工場での大規模な事故が頻発している。……一連の事故は、高度な技能や知的熟練をもつ現場の人材の減少、過度の成果志向による従業員への圧力が原因ではないか、との指摘もある」とのべています。いったい「人材の減少」をすすめ、「成果志向」をあおり立ててきたのはだれなのか、といいたくなるわけですが、こういうことを自らいわざるをえないのです。

 また二〇〇六年版では、「職場内のメンタルヘルス問題は、従業員本人のみならず、職場の作業能率・モラールの低下を招き、経営上の重要な問題となる可能性がある」「よい人間関係が存在しない荒涼たる職場に、高い生産性は望めないし、問題解決能力を期待することはむずかしい」などとのべています。

これも、自分で「荒涼たる職場」をつくりながら、よくもそんなことが言えるなというものですが、彼らの危機感が伝わってくる記述であります。

 政府の調査でも、成果主義賃金の導入後、「うまくいっている」と評価している企業は、15・9%にすぎず、手直しをはじめる企業も生まれてきています。

過酷な労働者支配が、自らの支配を掘り崩す――この矛盾を正面からとらえることが大切であります。
(「前衛」06年8月臨時増刊号 職場問題学習・交流講座への報告 幹部会委員長 志位 和夫」p17-18)

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春秋

 「およそ紡績工場くらい長時間労働を強いる処(ところ)はない」。大正期、女子工場労働者の過酷なありさまを世に知らしめたルポルタージュ『女工哀史』に、著者の細井和喜蔵はこう記した。当時の紡績工場は1日12時間勤務が原則だった。

▼しかも、「一夜に僅(わず)か金5銭くらい」の手当を得るために夜業をするのも当たり前で、睡眠時間を削って働いた。「皆は長時間の過労によって我が身のいたむことなど棚へ上げ、余分な収入を喜んでどしどし応じる」。こんな犠牲の上に日本は列強の仲間入りをするほどに発展した。80年以上も昔の話ではある。

▼そのはずなのだが、今も「哀史」は綴(つづ)られている。東京都大田区で5人が死傷する事故を起こしたトラック運転手は、3日間に9時間ほどしか眠らずにハンドルを握っていた。過労運転下命の容疑で逮捕された運送会社の配車係は「仮眠は運転席でハンドルに足を乗せて短く済ませてほしい」と求めていたという。

▼先月、大阪府吹田市でスキーバスが橋脚に激突し多数が死傷した事故も過労運転の疑いがある。それもこれも氷山の一角に違いない。景気回復を背景に運輸業界の人使いは荒くなる一方だ。規制緩和のあおりとの声もあるが、それ以前の問題だろう。こんな経営を放っておいたら輸送への信頼が崩れ去ってしまう。
(「日経」20070330)

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さいしょのストライキ
──雨宮製糸工女のたたかい

 山梨県といえば、ぶどうと水晶の名産地ということは、だれでも知っているでしょう。けれども、わたしたちはそれにもう一つ、一八八六(明治十九)年に日本でさいしょに工場労働者のストライキがおこったところ、ということをつけくわえなければなりません。

 一八八〇年代の山梨県は、長野県、岐阜県とならんで、全国有数の機械製糸業地帯でした。とくに山梨県の製糸業は、長野県のばあいにはおもに農村工業として発達していったのにたいし、甲府を中心に比較的規模の大きい工場があつまるというかたちで、都市工業として発達してきたのです。

 機械製糸は、一八五九(安政六)年に横浜、長崎、函館の三港が開港し、外国貿易がはじまったのをきっかけに生まれました。当時、輸出商品の大部分は生糸で、外国商人はさきをあらそって生糸を買いもとめました。信州(長野県)、甲州(山梨県)をはじめ製糸業のさかんな土地の商人は、生糸を馬の背にのせては横浜へはこび大もうけしました。明治維新前後の木曽路を舞台にした島崎藤村の名作『夜明け前』には、木曽中津川の商人万屋安兵衛たちが、開港まもない横浜へ生糸の売りこみにでかける場面が、つぎのようにえがかれています。

 「安兵衛等の持って行って見せた生糸の見本は、ひどくケウスキイ(外国商人)を驚かした。これほど立派な品なら何程でも買おうと言うらしいが、先方の言うことは燕のように早口で、こまかいことまでは通弁(通訳)にもよく分らない。……『糸目百匁あれば、一両で引取ろうと言っています』。この売込商の言葉に安兵衛等は力を得た。百匁一両は前代未聞の相場であった。」

 ところが、こうしてとぶように生糸が売れだすと、これまでの手繰りの製糸では生産がまにあわず、また品質もそろわないということがおこってきました。そこで考案されたのが、小規模ながら動力をつかって機械をうごかし、おおぜいで同時に糸をとれるようにした機械製糸だったのです。機械といっても本格的なものではなく、当時は器械製糸とよんでいました。

 機械製糸になってから、糸ひきはもうたのしい仕事ではなくなりました。江戸時代には、熊本藩で若い娘三〇人ばかりをあつめて糸をとらせたところ、道ゆく人はみな立ちどまって見物し、娘たちもいきいきと歌をうたいながらはたらいたという話もありますが、機械製糸の工場ではたらく娘たちは、そうはいきませんでした。

 甲府では、製糸工女の大部分は近くの農村からかよってくる通勤工女でした。山梨県はこのころ農地の四八・五パーセントが小作地という、全国でも小作地のわりあいが多い地域でもありました。工女たちの多くが明治十年代の不況で土地をうしなった小作貧農の娘たちであったことは容易にうかがえます。なかには「子持ちの婦人」=はたらく母親もいたのです。資本家である製糸業者は、生産をあげるためにようしゃなく搾取しました。ストライキのおこった雨宮製糸工場では、朝は四時半から夜七時半まではたらかされ、「水一杯さえ飲むひまのない」ありさまだったといいます。

 ところで、甲府の製糸労働者たちは、はやくからこうした搾取に抵抗してきました。彼女たちは前にあげたような年季奉公とちがって、毎日べんとうを持ってかよってくるのがふつうでしたから、それだけ自由にはたらくことができたのです。そこである工場が気にいらなければ、翌日にもほかの工場にうつることができたため、工女たちがたがいに語らいあって賃上げをやとい主にかけあうということもしばしばあったようです。製糸業者が「此ノ機二乗ジ或ハ党与ヲムスビ、シバシバ其主ニセマリ、不当ノ賃料ヲ要求シ、若シ応ゼサレバ罵言ヲ以テシ、相ヒキイテ背キ去ル」といってなげくほどでした。

 手をやいた工場主側は、一八八六(明治十九)年五月、生糸組合規約をつくり、これまで自由にどこでもはたらくことができたのを、一ヵ所の工場にかぎるとし、工女に「不都合」なことがあって解雇したばあいには、向こう一年間どこの工場でもやとわないことなどをきめました。さらに規約は、工女の罰金(糸の太さをまちがえたりするとはらわされる)を一ヵ月に本人の賃金と同額まではとりたててもよいとしたのです。雨宮製糸では、これをたてに労働時間の延長、賃金の切下げ(上等で一日三二、三銭を二二、三銭と一〇銭も引下げ)をおしつけ、すこし遅刻しても賃金をさしひき、「子持ちの婦人」は時間どおりに出勤しても、二〇分の賃金をさしひくなどの差別待遇を強行しました。

 ストライキは、この規約が実施された直後の六月におこりました。当時の新聞によると、怒った工女たちは「雇主が同盟規約という酷な規則をもうけ、わたし等を苦しめるなら、わたし等も同盟しなければ不利益なり」とさけんで一〇〇名あまりが近くの寺にたてこもったといいます。驚いた工場主側は、遠くからかよってくる工女にたいしては出勤時聞をくりさげるなど、いくつかの条件をみとめて、ようやく事態をおさめたのでした。甲府ではこの年、ほかにも四つの工場でストライキや職場放棄がおこり、さらに、こののちもさかんに争議がおこっています。

 資本主義の発達は、資本主義自身の墓掘人であるプロレタリアートを生みだし、階級闘争を発展させずにはおきませんが、日本でプロレタリアートの階級闘争の出発点をつくりだしたのは、製糸工場にはたらく若い女子労働者だったのです。もちろんこのストライキは、労働者としての自覚にもとづいた団結というよりは、自然発生的なものであり、だから工場主の側もあっさりゆずったという面があることは否定できません。

けれども、それは当然でした。労働組合も政党もなく、ストライキということばさえまだ通用しなかった時代だったのです。彼女たちはだれから教わったのでもなく、はたらくものどうしがつくりだした連帯の力で、これまでの婦人ができなかったことをやってのけ、労働者のすすむべき道をきりひらいていったのでした。
(米田佐代子著「近代日本女性史 上」新日本新書 p50-54)

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◎「過酷な労働者支配が、自らの支配を掘り崩す」と。