学習通信070626
◎日本政府の人権認識での二重基準……
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フランス
人および市民の権利宣言
(一七八九年)
国民議会として組織されたフランス人民の代表者達は、人権の不知・忘却または蔑視が公共の不幸と政府の腐敗の語原因にほかならないことにかんがみて、一の厳粛な宣言の中で、人の譲渡不能かつ神聖な自然権を展示することを決意したが、その意図するところは、社会統一体のすべての構成員がたえずこれを目前に置いて、不断にその権利と義務を想起するようにするため、立法権および執行権の諸行為が随時すべての政治制度の目的との比較を可能にされて、より一そう尊重されるため、市民の要求が以後単純かつ確実な諸原理を基礎に置くものとなって、常に憲法の維持およびすべての者の幸福に向うものとなるためである。──その結果として国民議会は、至高の存在の面前でかつその庇護の下に、つぎのような人および市民の権利を承認し、かつ宣言する。
第一条 人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存する。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる。
第二条 あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである。これらの権利は、自由・所有権・安全および圧制への抵抗である。
第三条 あらゆる主権の原理は、本質的に国民に存する。いずれの団体、いずれの個人も、国民から明示的に発するものでない権威を行い得ない。
第四条 自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する。その結果各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれら同種の権利の享有を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法によってのみ、規定することができる。
第五条 法は、社会に有害な行為でなければ、禁止する権利をもたない。法により禁止されないすべてのことは、妨げることができず、また何人も法の命じないことをなすように強制されることがない。
第六条 法は、総意の表明である。すべての市民は、自身でまたはその代表者を通じて、その作成に協力することができる。決は、保護を与える場合でも、処罰を加える場合でも、すべての者に同一でなければならない。すべての市民は、法の目からは平等であるから、その能力にしたがい、かつその徳性および才能以外の差別をのぞいて平等にあらゆる公の位階、地位および職務に就任することができる。
第七条 何人も、法律により規定された場合でがつその命ずる形式によるのでなければ、訴追され、逮捕され、または拘禁され得ない。恣意的命令を請願し、発令し、執行し、または執行さ
せる者は、処罰されなければならない。然しながら法律により召喚されまたは逮捕された市民は、直ちにしたがわなければならない。その者は、抵抗により犯罪者となる。
第八条 法律は、厳格かつ明白に必要な刑罰のみを定めなければならず、何人も犯罪に先立って制定公布され、かつ適法に適用された法律によらなければ、処罰され得ない。
第九条 すべての者は、犯罪者と宣告されるまでは、無罪と推定されるものであるから、その逮捕が不可欠と判定されても、その身柄を確実にするため必要でないようなすべての強制処置は、法律により峻厳に抑圧されなければならない。
第一〇条 何人もその意見について、それが、たとえ宗教上のものであっても、その表明が法律の確定した公序を乱すものでないかぎり、これについて不安をもたないようにされなければならない。
第一一条 思想およぴ意見の自由な伝達は、人の最も貴重な権利の一である。したがってすべての市民は、自由に発言し、記述し、印刷することができる。ただし、法律により規定された場合におけるこの自由の濫用については、責任を負わなければならない。
第一二条 人および市民の権利の保障は、一の武力を必要とする。したがってこの武力は、すべての者の利益のため設けられるもので、それが委託される人々の特定の利益のため設けられるものではない。
第一三条 武力を維持するため、および行政の諸費用のため、共同の租税は、不可欠である。それはすべての市民のあいだでその能力に応じて平等に配分されなければならない。
第一四条 すべての市民は、自身でまたはその代表者により公の租税の必要性を確認し、これを自由に承諾し、その使途を追及し、かつその数額・基礎・徴収および存続期間を規定する権利を有する。
第一五条 社会は、その行政のすべての公の職員に報告を求める権利を有する。
第一六条 権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されないすべての社会は、憲法をもつものでない。
第一七条 所有権は、一の神聖で不可侵の権利であるから、何人も適法に確認された公の必要性が明白にそれを要求する場合で、かつ事前の正当な補償の条件の下でなければ、これを奪われることがない。
(高木・末延・宮沢編「人権宣言集」岩波文庫 p130-133)
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人権の歴史………*
人権が憲法の大きな柱のひとつであることは前にのべましたが、憲法と人権についてもう少しくわしくみてみましょう。
そもそも、人権とはいったい何でしょう。人権とは人問が人間として(人間らしく)生きていくのに欠くことのできない権利のことです。
そういう意味では、一言でいうと広い意味における生存権のことであるといってもよいでしょう。また人権は法律の条文に書いてある○○権というような具体的な個々の権利のことではなくて、それがなくては人間らしい生活ができないという人間の生存の基礎を支える基本的条件であるという意味で包括的な権利でもあります。
それではまず、人権の歴史をごく簡単にふり返ってみましょう。
人権という考え方がでてきたのは市民革命の時代でした。この頃は社会はまだ農業社会であって市民の大部分は農業者その他の自営業者でありました。だから市民の人権という場合のモデルは、農民の人権ということができます。その内容としては三つの権利があります。一つは財産権の自由、つまり経済活動の自由です。第二は精神的自由です。思想の自由、言論の自由、表現の自由、あるいは信教の自由というような人間の精神活動の自由です。第三が人身の自由で、これは不当に逮捕されたり、裁判も受けないで有罪にされたりすることのない権利のことです。
このように近代の出発点において基本的人権というものは財産権の自由、精神的自由、人身の自由という三つが三位一体となった人間の包括的権利であったと考えていいでしょう。
これが第一の段階であるとすると、第二の段階は資本主義が全面的に発達をした段階であります。こういう段階の社会では、市民の大部分は労働者になっていますから、人間の基本的人権の中心は労働者の権利ということになります。労働者にとっては、労働基本権、精神的自由、それに人身の自由、の三つのうち、どの一つを欠いても人間として人間らしく生きてゆくことができませんから、この三つが三位一体になった権利が人権の中心的なものであります。
さらに第三段階、つまり現代になると、人権は単に労働者だけではなくて国民一般の基本的人権ということに広がっていきます。その中心にあるのが社会保障の権利で、その他狭い意味での生存権が全面的に出てきます。
現代では私たち国民の人権はいまのべた社会権、さらに精神的自由、人身の自由、この三つが組み合わされていると考えてよいでしょう。この現代の人権は、それ以前の人権とくらべて、その内容が違ってきています。最も大きな違いは財産権の自由という人権が、昔のような意味での、侵すことのできない人権ではなくなったことです。
(渡辺洋三著「憲法のはなし」新日本新書 p118-119)
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問われる日本政府の人権二重基準
拉致問題での立場を失う「慰安婦」問題
「安倍首相は、旧軍によって恐怖を強いられた多くの女性に、拉致被害者にたいするのと同じ同情を持てないでいる」―ロサンゼルス・タイムズ紙(三月十八日付)は、日本政府は拉致問題では「北朝鮮を非難する」が、「従軍慰安婦」問題では「強制を否定している」とのべ、拉致問題で日本政府の立場を支持する人たちを困惑させていると報じました。
日本政府は、日本人の人権侵害については声を大にするが、自国の行為による外国人の人権被害には無感覚で、これでは、人権問題での対応は二重基準(ダブルスタンダード)ではないかという批判が、世界に広がっています。日本政府が北朝鮮による日本人拉致問題を国際人権問題として国際社会に強くアピールし、その理解がひろがってきた矢先に、です。拉致問題は解決されなければならず、そのためにも、「慰安婦」問題をあいまいにしておくことはできません。
いま世界では、「従軍慰安婦」問題と拉致問題の二つは、関連(リンケージ)していると認識されるようになっています。
米紙ボストン・グローブ紙(三月八日付)の社説は、「日本の過去の誇りをよみがえらせようとする安倍(首相)の情熱は、国内政治では当初に効果を発揮したが、国外では悪いときに日本を孤立させることになった」と報道。安倍首相の発言を「日本を孤立に追い込むもの」と指摘し、拉致での北朝鮮の姿勢と「慰安婦」での日本の対応を同列に並べて論じました。
三月に日本を訪問し、日本と准同盟国の関係を確認したオーストラリアのハワード首相は、安倍首相との会談を前にして、「慰安婦」問題について「強制ではなかったなどというどのような意見も、私は完全に拒否するし、それは他の同盟国からも完全に拒否されている」(オーストラリアン紙十二日付)と言明しています。
日本政府の人権認識への深刻な提起
“日本は過去の侵略戦争を本当に反省しているのか”という批判は、これまで、直接の侵略と植民地支配を受けたアジア発でした。
しかし今回は、アメリカの議会とマスメディアが先頭をきって日本政府の対応を批判するというアメリカ発の様相をみせ、欧米諸国にひろがっています。アメリカ議会もマスメディアも、日本が自国の「同盟国」であることを意識して、対日批判にはたえず配慮がありました。この間の連続的な厳しい対日批判は、そうした「堤防」が決壊しつつあるといわれる状況です。
これまで歴代の内閣は、「慰安婦」問題を一九九三年の河野官房長官談話の立場で対応してきました。この談話は「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」こと、「慰安婦」の募集についても「甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、さらに官憲等がこれに加担した」ことを認めて、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」とし、「心からのお詫(わ)びと反省の気持ち」を表明したものです。
この談話が関係国から十分なものとみなされていなくても、安倍首相にはこの立場の継承を行動で示すことがアメリカのような「同盟国」からも求められていたのです。
しかし安倍首相は、「(河野談話について)当初定義されていた強制性を裏づける証拠がなかったのは事実だ」(三月一日、官邸での会見)とのべました。これは、河野談話を継承するといいながら、その立場を後退させているという批判となりました。加えて、「米下院で慰安婦問題の決議案が通っても謝罪しない」(三月五日、参院予算委員会答弁)と発言したことは、いっそう怒りをひろげたのです。
さらに、問題が深刻化しているさなかの十六日、「慰安婦」問題での質問主意書にたいする安倍首相名の答弁書は、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」としたのです。
ニューヨーク・タイムズ紙(十七日付)は、この答弁書をとりあげ、「日本が第二次大戦中の性奴隷への関与を再否定」と報じ、シーファー駐日米大使の「私は慰安婦の証言を信じる」「彼女たちは強制的に売春を強要されたのだと思う。つまり、日本軍にレイプされたということだ」との発言を引用して、安倍首相の立場を非難しました。
この答弁書は、河野談話の否定と受け止められ、国際世論への挑戦とみなされています。日本が植民地としていた地域で多くの女性が日本軍の「慰安婦」にされ、レイプされたという広範かつ継続的な人権侵犯は軍の強制なしにはありえないからです。
安倍政権は「人権と民主主義の普遍的な価値を追求する外交」をうたっていながら、「慰安婦」問題も拉致問題もともに同じ重大な人権侵犯問題であるにもかかわらず、日本人の人権問題にしか関心がないではないか、「慰安婦」問題にも同じように重視して対応しなければ、到底国際的な理解はえられない―という非難です。こうして、日本政府の人権認識は二重基準ではないかという深刻な疑問が提起されているのです。
この問題は日朝協議の今後にもかかわる
先月、北京での六カ国協議では、共同文書が採択され、北朝鮮の核兵器とその開発計画放棄にむけたロードマップ(行程表)実現のための具体的な措置とともに日朝協議をふくむ作業部会の設置が合意されました。日朝間の課題は、拉致、過去の清算を含む二国間の懸案解決および国交正常化です。
いま重大化している「慰安婦」問題は、北朝鮮との過去の清算と直結しています。北朝鮮には、かつて植民地支配のもとで多数の女性が「慰安婦」として戦場にかりだされた痛恨の歴史があります。日本政府が過去の清算をすすめ、拉致問題をふくめ協議を前進させるためには、日本の過去に真剣な態度で向き合うことが強く求められています。そうでなければ、拉致問題での国際的な理解は到底得られるものではありません。
拉致問題の解決には、国際社会の理解と支援が不可欠です。だからこそ、日本政府はアメリカ政府をはじめ国際社会に訴え、支援を求めてきました。
しかし、日本政府の人権認識での二重基準という批判のひろがりは、その理解と支援を後退させています。インターナショナル・ヘラルド・トリビューン紙(三月二十二日付)は、安倍政権が「従軍慰安婦」問題での謝罪を拒否したことは、日本が売り込もうとしている「普遍的人権」重視外交を困難にし、それは「もろ刃の剣」となるだろうと論評しました。
拉致問題のよき理解者としてアメリカ政府を動かしてきたシーファー大使自身が、「河野談話からの後退と米国内で受け止められることは破壊的な影響がある」とのべました。「慰安婦」問題にたいする安倍首相の対応いかんで、拉致問題提起の道義的基盤を一撃で失ってしまうという警告でもあります。
人権問題は国際基準で対応を
安倍首相は十一日、NHKのインタビューで「河野談話を継承していく。当時、慰安婦の方々が負われた心の傷、大変な苦労をされた方々にたいして心からなるおわびを申し上げている」とのべました。
しかし、アメリカのメディアはこの発言をほとんどとりあげませんでした。そんな通り一遍のことで、問題発言を帳消しにしないという強いメッセージの表明です。発言すると誤解を招くし、非生産的になるので話さないという首相の対応は、まったく通用しません。
アメリカから安倍政権に求められているのは、下院決議案にあるように、首相の公式の謝罪、性の奴隷化などなかったという主張にたいする明確な公式の否定の言明などであり、この点は、メディアの要求も共通しています。
人権が差別なく享受されるべき普遍的なものであることは当然のことです。日本政府の人権認識はそれに反していると国際社会が根本的な異議申し立てをおこなっている現状は、深刻です。この議論をきちんと受けとめて、人権問題で独りよがりに陥らず、本当の意味で国際基準の対応が求められているのです。(檀 竜太)
(「赤旗」2007326)
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◎「人権とは人問が人間として(人間らしく)生きていくのに欠くことのできない権利」と。