学習通信070323
◎企業罪悪論の再燃は杞憂(きゅう)だと信じたい……
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ルールなき資本主義≠つくってきた異常さ
次に、経済です。さきほど日本の政治の第三の異常さとして、極端な大企業応援型の政治で、ルールなき資本主義≠つくってきた異常さをあげました。ルールなき資本主義≠ニいうのは、自民党が政権党になってから五十年、大企業応援型の政治をずっと積み重ねてきた結果なのです。
ヨーロッパ諸国と日本をくらべてみますと、同じように資本主義を原理としている国でも、社会の現実はこんなに違うのかと驚かざるをえないぐらい、国民の暮らしと権利を守るルールが、日本では、あらゆる分野で決定的に弱いのです。
実際、残業時間に法律、あるいは法律に代わる制限がないという国は、どこにもありません。過密労働で過労死≠ェ起きる国も世界にありません。だから過労死≠ニいう言葉は外国では翻訳のしようがなくカロウシ〃という日本語のままで世界中通用しています。リストラの時に、これを規制する本格的な法律がなく、企業が自由勝手にできる、こういう国もありません。それから派遣労働者などの不安定雇用がこんなに膨れ上がっても、それに歯止めがかけられない、失業保険や年金など社会保障の水準がこんなに低いのに、さらに切り下げで脅かされている、こういう国もありません。環境を守るルールがこれぐらい未確立な国もないし、納税者の権利を決めた法律がない国もありません。教育でも、大学での学費が、こんなに高い国もありません。
どの分野をとっても、国民のいのちと暮らしを守るルール、権利を守るルールが、こんなに不足している国はないのです。それが、自民党政治がずっと大企業応援型の政治をやってきた到達点なんですね。
実は、この政治は、八○年代になってからとりわけひどくなったのです。七〇年代という時代には、「高度経済成長」のもとで公害が日本中に広がり、イタイイタイ病などの公害裁判で企業の責任が明るみに出ました。石油ショックで日本経済も国民生活も困り抜いた時に、一部の石油関連企業が、いまこそ「千載一遇」の好機だと言って、悪徳商法に走ったことが国会で摘発される、さらにロッキード事件では、アメリカ企業を中心とする海を越えての汚職事件に日本の大企業もくわわったことが明らかになる。こういう諸事件が重なって、犯業悪≠ニ言いましょうか、大企業が引き起こす社会悪に対する警戒心が日本の社会に大きく広がった時代でした。こういう状況のもと、政治の上でも、露骨な大企業応援型の政治は、やりにくくなったものでした。
それが、八○年代にガラッと変わりました。何がその転換の中心となったのか。私は、こんど戦後史をずっとふり返る機会があって、なるほどこれだったかと俯(ふ)に落ちたのですが、その転機になったのは、八○年代前半のいわゆる臨調行革≠ナした。表向きの任務は「行政の改革」でしたが、政府がその総大将に財界の大御所、財界団体・経団連の会長だった土光敏夫さんを任命しました。それで、この時期に民間大企業こそ、その仕事ぶりでも、生活ぶりでも、日本社会の模範だ≠ニいった大宣伝を、マスコミ総動員で何年にもわたって展開したのです。
なかでも象徴的だったのは、NHKが放映した土光さんに密着したドキュメント番組で、土光さんと奥さんが二人でメザシをおかずに食事をしている風景に焦点があてられたことでした。それ以来、メザシの土光さん≠ェ合言葉になって、民間大企業というのは、あんなに質素な暮らしをして、苦労して日本の経済を支えている、この大企業に学べということになる。
こんな調子で、いつの間にか、七〇年代の大企業への警戒心が打ち消され、逆に、民間大企業を日本社会の模範としてもち上げる風潮が強まり、大企業応援型の政治がふたたび天下御免でまかり通るという状況がつくりだされました。それから、現在までの約二十年間、大企業中心主義の政治が、年ごとにひどくなってきたのです。
私は、この点では、臨調行革≠ニいうのは、大企業・財界の名誉回復♂^動という側面をもっていた、と思います。
(不破哲三著「日本の前途を考える」新日本出版社 p150-153)
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大磯 小磯
企業罪悪論再熱は杞憂か
経済産業省の幹部が嘆いていた。「去年は法人税率引き下げも時間の間題だと思っていたのに、状況ががらりと変わった。いまの雰囲気なら減価償却制度の見直しさえ危なかった。企業減税はしばらく難しいかもしれない」
企業を見る世間の目が厳しくなっている。談合や会計不正、製品安全がらみの不祥事だけが原因ではない。グローバル化を背景に企業が分配構造を大きく変えていることへの批判も強まっている。
この批判は左からも右からもある。左は従業員より株主への配分を優先し格差を広げているというし、右は拝金主義をあおり公共精神や文化を破壊していると主張する。市場主義への反発と共通する文脈で政治的に広く受け入れられやすい批判だ。グローバル競争で勝ち抜くには株主重視はやむを得ないし、労働分配率は簡単に上げられないという企業の声は、ほぼ一色に染まった社会的空気のなかでかき消されてしまう。
経済的な格差の話だけならデータで反証もできる。日本の格差など、国際的にはまだ小さい。だが、データだけで割り切れない面もある。
日本の企業は戦後、多くの人々が帰属意識を抱く対象になってきた。いわゆる会社共同体である。分配構造の変化や終身雇用のゆらぎはこうした共同体の崩れにつながる。自分がどこに帰属すべきなのかわからないという不安が、企業批判や市場主義批判の背景にあるのではないか。
むろん、グローバル化や市場化は現実であり、逃げることはできない。人口減少の国内市場から一歩外に出れば、世界経済は歴史的な大成長期ともいえる局面に突入している。そこでの競争に勝ち残っていくことでしか、日本経済の未来はない。どの従業員にも優しい、なれ合いの分配構造の復活は考えにくい。
必要なのはまず経済成長を持続させることだろう。成長さえ続ければ労働需給が引き締まり、賃金は上がる。国が再分配政策を強化するより、市場メカニズムに委ねたほうが格差対策になる。人的資産を活性化し、成長力を高める観点から、新しい会社共同体のありかたを模索する企業も出てきてほしい。
企業は経済成長のエンジンである。だから欧米もアジアも法人税減税などで企業活動を支援する。一九七〇年代のような企業罪悪論の再燃は杞憂(きゅう)だと信じたい。(眠り独楽)
(「日経」20070301)
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◎「臨調行革≠ニいうのは、大企業・財界の名誉回復♂^動という側面をもっていた」と。