学習通信070319
◎支配と搾取のもっともゆたかな経験者……

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おじさんのNOTE

コペル君
 昨日、君が興奮して話してくれた「油揚事件」は、僕にもたいへん面白かった。君が、北見君の肩をもち、浦川君に同情しているのを聞いて、あたりまえなことだけど、僕はやっぱりうれしかった。まあ、かりに君が山口君の仲間で、叱られて出て来た山口君といっしょに、コソコソと運動場の隅に逃げていったのだとして見たまえ。お母さんや僕は、どんなにやり切れないか知れやしない。

 お母さんも僕も、君に、立派な人になってもらいたいと、心底から願っている。君のなくなったお父さんの、最後の希望もそれだった。だから、君が、卑劣なことや、下等なことや、ひねくれたことを憎んで、男らしい真面(まっす)ぐな精神を尊敬しているのを見ると、──なんといったらいいか、ホッと安心したような気持になるんだ。君にはまだ話さなかったけれど、君のお父さんは、なくなる三日前に僕をそばへ呼んで、君のことを頼むとおっしゃった。そして、君についての希望を僕に言いおいておかれた。

「わたしは、あれに、立派な男になってもらいたいと思うよ。人間として立派なものにだね。」

 この言葉を、僕は、ここにしっかりと書きとめておく。君は、これをおなかの中にちゃんと畳みこんで、決して忘れちゃあならない。僕も、この言葉だけは、おなかの底にグッと収めて、決して忘れまいと考えているんだ。こうして、このノートブックに、いつか君に読んでもらうつもりで、いろんなことを書いておくのも、実は、お父さんのこの言葉があるからなんだ。

 君も、もうそろそろ、世の中や人問の一生について、ときどき本気になって考えるようになった。だから、僕も、そういう事柄については、もう冗談半分でなしに、まじめに君に話した方がいいと思う。こういうことについて、立派な考えをもたずに、立派な人間になることは出来ないのだから。

 そうはいっても、「世の中とはこういうものだ。その中に人間が生きているということには、こういう意味があるのだ。」などと、一口に君に説明することは、誰にだって出来やしない。よし、説明することの出来る人があったとしても、このことだけは、ただ説明を聞いて、ああそうかと、すぐに呑みこめるものじゃあないのだ。英語や、幾何や、代数なら、僕でも君に教えることが出来る。

しかし、人間が集まってこの世の中を作り、その中で一人一人が、それぞれ自分の一生をしょって生きてゆくということに、どれだけの意味があるのか、どれだけの値打があるのか、ということになると、僕はもう君に教えることが出来ない。それは、君がだんだん大人になってゆくに従って、いや、大人になってからもまだまだ勉強して、自分で見つけてゆかなくてはならないことなのだ。

 君は、水が酸素と水素から出来ていることは知ってるね。それが一と二との割合になっていることも、もちろん承知だ。こういうことは、言葉でそっくり説明することが出来るし、教室で実験を見ながら、ははあとうなずくことが出来る。ところが、冷たい水の味がどんなものかということになると、もう、君自身が水を飲んで見ない限り、どうしたって君にわからせることが出来ない。

誰がどんなに説明して見たところで、その本当の味は、飲んだことのある人でなければわかりっこないだろう。同じように、生れつき目の見えない人には、赤とはどんな色か、なんとしても説明のしようがない。それは、その人の目があいて、実際に赤い色を見たときに、はじめてわかることなんだ。──こういうことが、人生にはたくさんある。

 たとえば、絵や彫刻や音楽の面白さなども、味わってはじめて知ることで、すぐれた芸術に接したことのない人に、いくら説明したって、わからせることは到底出来はしない。殊に、こういうものになると、ただ眼や耳が普通に備わっているというだけでは足りなくて、それを味わうだけの、心の眼、心の耳が開けなくてはならないんだ。しかも、そういう心の眼や心の耳が開けるということも、実際に、すぐれた作品に接し、しみじみと心を打たれて、はじめてそうなるのだ。

まして、人間としてこの世に生きているということが、どれだけ意味のあることなのか、それは、君が本当に人間らしく生きて見て、その間にしっくりと胸に感じとらなければならないことで、はたからは、どんな偉い人をつれて来たって、とても教えこめるものじゃあない。

 むろん昔から、こういう事について、深い智慧のこもった言葉を残しておいてくれた、偉い哲学者や坊さんはたくさんある。今だって、本当の文学者、本当の思想家といえるほどの人は、みんな人知れず、こういう間題について、ずいぶん痛ましいくらいな苦労を積んでいる。そうして、その作品や論文の中に、それぞれ自分の考えを注ぎこんでいる。たとえ、坊さんのようにお説教をしていないにしても、書いてあることの底には、ちゃんとそういう智慧がひそめてあるんだ。

だから、君もこれから、だんだんにそういう書物を読み、立派な人々の思想を学んでゆかなければいけないんだが、しかし、それにしても最後の鍵は、──コペル君、やっぱり君なのだ。君自身のほかにはないのだ。君自身が生きて見て、そこで感じたさまざまな思いをもとにしてはじめて、そういう偉い人たちの言葉の真実も理解することが出来るのだ。数学や科学を学ぶように、ただ書物を読んで、それだけで知るというわけには、決していかない。

 だから、こういう事についてまず肝心なことは、いつでも自分が本当に感じたことや、真実心を動かされたことから出発して、その意味を考えてゆくことだと思う。君が何かしみじみと感じたり、心の底から思ったりしたことを、少しもゴマ化してはいけない。そうして、どういう場合に、どういう事について、どんな感じを受けたか、それをよく考えて見るのだ。そうすると、ある時、ある所で、君がある感動を受けたという、繰りかえすことのない、ただ一度の経験の中に、その時だけにとどまらない意味のあることがわかって来る。それが、本当の君の思想というものだ。

これは、むずかしい言葉でいいかえると、常に自分の体験から出発して正直に考えてゆけ、ということなんだが、このことは、コペル君! 本当に大切なことなんだよ。ここにゴマ化しがあったら、どんなに偉そうなことを考えたり、言ったりしても、みんな嘘になってしまうんだ。
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p49-54)

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b 事実と経験にたいする見かた

 労働者の階級的成長を助けるときに、決定的にたいせつな唯物諭的な原則は、事実と経験を重視することである。

 経験とは、人びとが外部のものごとにはたらきかけ実践するなかでたくわえられる、社会的な実践の総和といえよう。

 労働者とは、資本主義社会の支配と搾取のもっともゆたかな経験者だ。それはどのような理論家・指導者といえどもおよばない! ここで、労働者よりも資本主義の搾取の実体を「知っている」そぶりで立ちあらわれる理論家、指導者たちがいるとしたら、もうそこに労働者に学ぶことを自覚しない「思いあがり」ぶりを見てとれるとさえいえよう。

 経験には、直接的経験と間接的経験とがある。直接的経験とは、自分がじかに経験したことをさし、間接的経験とは、他人の直接的経験をさすわけだ。もし、だれかが、自分の直接経験しか信用しないとするならば、その人は、いまライターを用いていることさえもただちにやめなければならないということになる。

なぜなら、自分の直接経験しかみとめないとすると、火をおこすために石をすりあわせる直接経験から始めなければならないからである。つまり、私たちのこんにちの生活は、祖先や先人の歴史的経験から学びとり、他の人びとの直接的経験の概括のうえになりたっているわけだし、それらの経験を概括し体系化したものとして、理論的知識が成立していることをみとめなければならないのである。

 だが、階級的に成長していない労働者は、みずからの直接的経験をみとめ信じるが、ひとたび間接的経験とその概括としての理論になると、たやすくはうけつけようとしないのである。そこで活動家が、「理論の重要性」をいくら強調してもカラまわりを感じるということになるのである。

 いったい、こうしたときになにがたいせつなのだろうか。それはつまり、労働者のもつ直接的経験をあきらかにし、それに労働者自身が目をむけて、みずからの直接的経験をはっきりととらえることを助けるべきである。直接的経験をつうじてはじめて、現実を反映する道がひらかれる以上、私たちはそうせねばならないのだ。また、直接的経験がゆたかであるかどうかが、間接的経験をうけいれ、ふかく吸収するかどうかを左右するものでもある以上、私たちは、労働者のもつ直接的経験を重視しなければならないのである。たとえば、搾取の直接的経験をもつ労働者こそが、階級闘争の理論の吸収を正確にふかくなしうるといえるようにである。

 しかし私たちは、この直接的経験には、そこの具体的な、したがって特殊的な、偶然的な草案がからみついていることをあきらかにすることを忘れてはならない。そのことがらに共通するもの、そのことのなかにある本質とはなにかをさししめすには、直接的経験だけでは限界があり、せまさのあることをしめし、他の仲間の経験に目をむけ、そこから共通する本質をつかみとり、そのうえにすすんで理論的把握をもてるように助けていかねばならないのである。

直接的経験をとらえることだけにとどまることを「経験主義」とよべるならば、経験を無視して「かくかくしかじかこそが、本質だ」と本質議論だけをくりひろげるのを「教条主義」ということができよう。こうして私たちに必要なのは、労働者の直接的経験に根ざし結びついて、科学的理論で本質をあきらかにするというはたらきかけ、活動である。

 私たちは、事実というものをもっと重視せねばならない。事実とは、客観的に存在する現象、過程そのものである。したがって労働者の認識は、この事実を正しくとらえることによって高められるのである。なぜなら、階級社会のさまざまな事実は、階級的性格をもっているからだ。

 ところで、事実というものは、二つの側面、つまり外的な側面と内的な側面、現象と本質とに分けられる。労働者は、さまざまな事実に直面しているわけだが、しばしば現象的なものに目をしばりつけられているのが実状だ。しかし、労働者の目にうつっている現象を否定してかかり、本質だけをぬきだした「解明」に終始するのでは、労働者のもっている「事実」についての感覚との「くいちがい」をうめることになかなかなりにくい。

たとえば、生活の「近代化」という現象だけに目がとまっている労働者に、搾取という本質ばなしだけでは「ピンとこない」のひとことで片づけられることになるといったようにだ。ここで、よく活動家が手をあげてしまうか、みずからがとらえていた本質について懐疑的な気分におちいることもありうるのだ。問題は、自分が現象と本質をただしく統一的にとらえなかったことにあるとは気づかずにである。

 レーニンは、現象と本質について「たとえば、川の運動──泡は表面に、そして深い流れは下に。しかし泡もまた本質の一表現である」(『哲学ノート』)とのべている。そのように、現象とは、たえずうごきうつりかわる。ある現象は泡のように消えさり、また別の現象が生まれてくる。現象とは多様なものだ。

だがそれらの現象はさまざまな角度、側面から本質を表現し、本質をその一部にふくんでいるわけである。そうした現象のなかにも、比較的に本質を正面からあらわしている現象──たとえば、資本による労働強化の目に見えるかたちでの実施──と、側面から本質をあらわしている現象──たとえば、一定の賃あげを譲歩によって資本が支払うといったこと──と、まったく本質を逆立ちさせてあらわす仮象──資本があたかも労働者に対等な人間関係を求めているかのようなよそおいをとる──といったものなどがある。これらのさまざまな性質をもった現象全休をつらぬいているのが、資本の労働者にたいする搾取という本質である。

しかし、おおくの労働者は、たとえば、仮象から資本を判断したり、一、二の現象から資本をとらえたりしがちなのである。しかもそれは不可避なのだ。というのは、現象は直接的に感覚にうつしだされ、本質は現象をつうじてしかあらわされず、人間は、現象をつうじてしか本質へ接近できないものであるからだ。

 したがって私たちは、労働者がどのような現象について、どのような感じをもっているのかをつまびらかにせねばならないのである。そうして、そのような現象には、本質がどのような条件・環節を媒介としてあらわされているかをあきらかにせねばならないのである。現象だけにかかずらわっているとき、なにがなんだかとらえどころのない「袋小路」におちいるが、また、本質だけを現象から切り離してとりあつかうとき、その本質論は生命力をもたないものにおちいるのである。

 私たち活動家は、理論を学び、ものごとの本質をわきまえている。しかし、その理論や本質の認識は、それをふりまわすためにあるのではなく、多様な諸現象をすきとおるようにあきらかにできるというところに力を発揮すべきものなのである。そうしてこそ、おおくの労働者たちが、現象から本質へと認識をすすめるよう助けられる。

私たちが確信してよいのは、労働者はかならずそのように前進できるし、また、ひとたび本質的認識をもった労働者は、つぎにはどのような現象にもまどわされることなく、階級的に成長していくであろうということである。

おおくの活動家たちがあゆんできた道を、さらにおおくの労働者が同じようにあゆむにとはまちがいないのである。ただ、そのために先導者が、おおくの労働者の意識の段階と成長にピッタリとつきそった役割をはたすことが必要なのである。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p67-72)

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◎「私たちが確信してよいのは、労働者はかならずそのように前進できるし、また、ひとたび本質的認識をもった労働者は、つぎにはどのような現象にもまどわされることなく、階級的に成長していくであろうということである」と。