学習通信070313
◎「ぐち」や「怒り」をまとめた仲間がいた……
■━━━━━
事実と経験をおもんじること
──自然発生的なものから階級的自覚ヘ──
唯物論にもとづく私たちの活動のありかたは、まずなによりも「事実と経験をおもんじる」のでなければならない。
エンゲルスが述べているように「有産階級を権力の座から追いだすためには、われわれはまず労働者大衆の頭脳における変革を必要とする」(「オッペンハイムヘの手紙」)のである。活動家はその活動のうえでおおくの仲間たちの考えを変革する仕事を背おっているといえよう。だが、その「頭脳における変革」とは、どのようにして実現されるかを唯物論にもとづいてはっきりさせておかなければ、観念論的にやりとげようとすることにもなりかねないのである。
たとえば、ふるい「頭脳」をいっきょにつくりかえようとのぞんで、草を根もとからひきぬくように一気にそれを仕上げようとしてもうまくいくわけはないし、また、あたらしい考えを頭脳のなかにさしいれようと、田植えでもするように外部的力でぎゅうぎゅうおしこむ努力をはらっても、けっして成功するわけはない。
こうしたように、労働者の頭脳のなかの世界を他から切り難し「独立」させてとりあつかおうとするならば、それは唯物論的な見かた、態度とはいえないのだ。そこで生まれるのは、せいぜい観念とことばが乱舞する「空中戦」か、あるいは外見上での「変革」にとどまり頭脳のなかみはいぜんとして、ふるい認識がコビリついているということになるだろう。さらにはなはだしいときには「おくれた」労働者の頭脳の変革は不可能にちかいと見なすような、仲間たちをべっ視した見かたにおちいることだろう。
労働者の頭脳の変革は、唯物論と弁証法にもとづかねばならないのである。この頭脳の変革という活動のうえにも、弁証法的唯物論をつかいこなさなければならないのだ。
その活動ではまず第一に、労働者の意識を、弁証法的唯物論の反映論の見地に立ってとらえることがたいせつだ。
a 自然発生的な意識に目をむけること
どんなに「おくれた」労働者ではあっても、その存在をうつしだしたところの自然発生的な意識をかならず頭脳のなかにかたちづくっているものである。それを私たちは敏感に惑じとらなければならない。
労働者の自然発生的な意識といわれるものは、その労働者にとって明瞭に自覚されたものとしてあるのではない不平不満、気分としてあらわされ、行動のうえでは絶望的行為、復しゅう心とそれにもとづく行動、自然発生的なサボタージュ・抵抗というあらわれをとるものだ。レーニンは、自覚していない労働者のなかでの不満とそれにもとづく闘争を自然発生的なものとみなし、階級的な意識は「われわれがもちこまなければならないものだ」ということを指摘し、それを明確に区別しなかったプレハーノフの見解を批判している。私たちもその区別をはっきりとつかまねばならないのである。
こんにち、おおくの労働者たちが自分たちの低賃金、きびしい労働と生活条件の悪化に不満をもっていることはうたがいない事実だ。しかし、この不満の段階のばあいは、一般的にいってその不満をぶつける対象がはっきりとせず、その不満そのものも体系的にみずから考えてはいない。だからときには「忘れ」たりもする。しかし、不満はその問題のつづくかぎりつづくという根づよさをもっているものである。
私たちは、労働者のなかに生まれている自然発生的な意識と自然発生的な抵抗や闘争に、もっと気をくばり、それを発見しなければならないのである。ある自動車工場のベルトコンベアーの上に、「オレたちは人間だ!」という落書きが紙きれにかかれて部品とともに流されてきたり、職制の監視の目をぬすんで若い労働者がマンガをまわし読みしたり、トイレに憤まんを落書きしていること……それらがまさにそうなのだ。ここに見られるように、自然発生的な意識とは、職場の現実を無自覚的に反映して生まれているのである。
こんにち、日本の労働組合のかなりの部分が、官僚主義的な運営や指導におちいっている傾向をもっているだけに、私たちは、そこの労働者と労働組合のたたかうエネルギーをどのように見つけひきだすかということを真剣に検討しなければならないわけだが、そのためには、職場に働いている労働者の自然発生的な意識やそれから生まれているさまざまな抵抗、闘争にこそ根をおろし、それを意識的なものに発展させていくようにしなければならないのである。
だが自然発生的な意識については、もう一つの面に注意をはらう必要がある。それは、自然発生的な意識は、そのままひとりでに、つまり自然成長的に階級的な自覚へとすすむことはありえないということだ。それはレーニンによると、階級的に自覚していく「萌芽」であり「基礎」であるといえるにしても、その自然成長がたどりつくさきは、ブルジョア・イデオロギーの影響のもとであり、「組合主義的」意識にほかならない。
つまり、その自然成長の結果としてのたたかう対象のとらえかたは、せいぜい企業の雇い主どまりであり、経済的要求だけに目を釘づけにされ、労働組合が経済的利益のために政府から有利な法令をかちとるといったことにしか到達しないのである。こんにち、おおくの労働組合と労働者が、ここにいう「組合主義的」意識とその影響をうけていることは、いなめない事実である。自然発生的意識にもとづくばあいも、また、「組合主義」的意識にもとづくばあいにも、たたかいはおきる。
しかし、私たちは、このような意識とそれにもとづく行動を、階級的に自覚した労働者としてのものと見なすわけにはいかないのである。現に、独占資本とその政府も、労働者と労働組合を、そのような意識と行動のワク内にとどめることを積極的に支持しているように、そのような意識は、日本の支配勢力にとっての許容範囲内のものなのである。労働者の意識の自然成長性が、こうした「ブルジョアジーによる労働者の思想的奴隷化」しかもたらさないといいうるのは、労働者の全生活を包囲しているのが、「精練された」ブルジョア・イデオロギーであることからして当然である。
また、自然発生的な意識は、その認識の特徴からするならば、個別のことがら、現象的なことがらを直接的に反映しているといえよう。したがって、その内容は、ひじょうに具体的で生き生きとし、感覚的でありするどいものだといえる。だがまた、それが敵の出かたによって現象が変われば、それに幻惑され「雲散霧消」されやすいものであるともいえるのである。
こうしたことから私たちは、自然発生的な意識についてどのような見かたと態度をとるべきなのだろうか。自然発生的な意識や行動にどういう見かたをとるかは、職場の仲間たちから「浮く」か、あるいは仲間たちと「結びつく」かの分岐点であると、私たちは考えなければならないのである。そうして、自然発生的なものにたいする私たちの見かたと態度の原則は、それを重視するが、しかしそれに追随しふりまわされてはならないということであり、それをふまえて労働者の階級的な成長を助けるということになるだろう。
具体的に考えると、つぎのようになる。
まず、自然発生的な意識がどのように(どんな内容について、どんなふうに)発生しているか、どの程度の強さをもつものなのかをしっかりとらえなければならない。この自然発生的な意識を正確にとらえるためには、職場にどのような具体的な問題が生まれているかという、生きた事実を正確につかむようにすることだ。そしてそれが、広はんな労働者の頭脳のなかにどのように反映され、自然発生的な不平不満・気分となっているかを、客観的な現実を基礎にありのままにつかまなければならない。
もしも、活動家たちが、職場の仲間たちのなかに広く生まれている自然発生的な意識や抵抗、闘争に「無関心」であり、それらと無関係に「階級的意識」を注入しようとするならば、おおくの労働者たちから「浮かない」ほうが不思議だといわねばなるまい。
自然発生的なものを階級的に成長させるには、自然発生的な憤まんを憤激にかえることが欠けてはならない。私たちは、ともすれば「階級的」「政治的」観点をせっかちにあきらかにしようと思いがちではないのだろうか。「政治的な意識」とは、理論的な性格をもつものである。
だが、自然発生的な意識は、感覚的であり、しかもじゅうぶん整理されないバクゼンとしたものである。そのような意識の段階にある労働者たちにとって政治的な観点はなじみにくく、さらには理論的見かたのうえで労働者にあたえられているあやまった認識が活動家の主張とのあいだに「対立」「へだたり」を生じさせる結果さえひきおこしやすいのである。
必要なことは、労働者の自然発生的な意識に基礎をおきながら、その内容は、他のどのような事実とかかわりがあるのか、それらを解決していくためにだれに目をむけねばならないかということを、労働者の感覚的認識にとってうけいれられるよう気をくばりつつあきらかにし、憤まんを憤激にかえ、そこから組織的に要求をかかげて行動するようにすることだ。ここで欠けてならないのは、活動家自身が、資本の支配と搾取に「憤激」をもち、自分自身も一人の労働者として発言し行動することだ。
「意識注入係」「階級教育係」として労働者の前にたちあらわれるべきではないのである。くりかえしていえば、ここで必要なのは、事実と経験をおもんじた活動家の姿勢であり、「政治的」先ばしりは、そこの労働者の状態からしては一種のハネ上がりにつうじるものであるということである。
(森住和弘・高田求著「実践のための哲学」青木新書 p59-66)
■━━━━━
徳島の仲間たちがたたかいに立ち上がったきっかけは、何よりも、「将来の見えない働き方」に対して、「なんとかしなければ」という思いである。何年働いても、時給は1、100円、3ケ月更新の雇用契約、ボーナスなし、退職金なし、そして低賃金を補う長時間残業である。5年も6年もこのような働き方をしながら、仕事についても熟練していき、正社員に対して仕事を教えるようになっていた。
にもかかわらず、賃金は年収で正社員の半分から3分の1であり、入社のときには光洋シーリングテクノが面接をし、「がんばれば正社員になれる」というような話もされた仲間もいた。これでは、労働者が頭に来るのも当たり前である。こういうなかで、「ぐち」や「怒り」をまとめた仲間がいたのである。いくら怒りや要求があっても、それをまとめる人がいなければたたかいや組織はできない。そして、インターネットでたどりついたJMIU徳島地本によって、組織化とたたがいが準備されたのである。
このときの労働者の要求は、「労働条件向上」と「雇用の安定」である。もちろん、光洋シーリングテクノヘの「直接雇用」を要求し団体交渉申し入れもおこなったが、光洋シーリングテクノは拒否してきた。JMIUは、当面の要求実現に努力した。その結果、派遣元企業との間で、勤続年数により時給を10円〜30円アップさせることができた。そのなかでわかったことは、「請負=派遣会社」との関係では、将来が見える要求については基本的に解決しないということであった。「請負会社」と光洋シーリングテクノの契約は、ひとりあたり1時間1、700円であり、経費等を考えると、ボーナスや退職金は実現できないというものだった。
こういうなかで、「光洋シーリングテクノとの直接雇用、正社員化」しか、解決の道はないという要求に高まっていったのである。これは、従来の派遣労働者の直接雇用実現のとりくみとは、大きく質的な違いがあった。それは、ラインの労働者の多数を組織化したしたなかで、労働者の団結力の発揮ができる、そして一定の熟練労働者が多いことから、直接生産に大きな影響をもつたたかいという、新たなたたかいを前進させる条件が生まれた。しかしいっぽうでは、個別労働者の問題解決にとどまらない「多くの労働者の直接雇用、正社員化」という大きな課題に直面することになったのである。
「違法だからたたかう」のではなく、あくまでもたたかう土台は要求であり、要求実現めざしてたたかううえで「違法」を告発するということが、大きなたたかいの武器になるということではないかと私は考えている。
(「偽装請負」から直接雇用をかちとった経験 生熊茂実JMIU中央執行委員長 「労働総研ニュース NO.203」)
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「自然発生的な意識は、その認識の特徴からするならば、個別のことがら、現象的なことがらを直接的に反映し……その内容は、ひじょうに具体的で生き生きとし、感覚的でありするどいものだといえる」と。