学習通信070306
◎穴のなかにとどまっているかぎり……
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黙って見おろしているうちに、コペル君には、一つ一つの自動車が何か虫のように思われて来ました。虫とすれば甲虫です。甲虫の群が大急ぎで追って来るのです。用のすんだ虫は、また大急ぎで戻ってゆきます。何か知れませんが、彼らにとって大事件が起こっているにちがいありません。──そういえば、銀座通りが次第に遠く狭くなっていって、やがて左に折れて、高いビルディングの間にかくれてしまう京橋のあたりは、彼らの巣の出入口のように見えるではありませんか。大急ぎで戻っていったやつは、そこで一つ一つ姿をかくします。すると入れちがいに、新しいやつが、あとからあとから、急いで繰りだして来ます。黒いやつ、黒いやつ、また黒いやつ、今度は青いやつ、灰色のやつ……
粉のような霧雨は、相変わらず静かに降りつづけていました。奇妙な想像にふけりながら、コペル君はしばらく京橋のあたりを見つめていましたが、やがて顔をあげました。眼の下には、──雨に濡れた東京の街が、どこまでも続いて、霧雨の中に茫々とひろがっていました。
それは、見ているコペル君の心も沈んで来るような、暗い、寂しい、果もない眺めでした。眼のとどく限り、無数の小さな屋根が、どんよりとした空の明るさを反射しながら、どこまでもつづいていました。その平らな屋並を破って、ところどころにビルディングの群がつっ立っています。それは、遠いものほどだんだんに雨の中に煙っていって、しまいには空と一色の霧の中にぼんやりと影絵になって浮かんでいました。なんという深い湿気でしたろう。何もかも濡れつくし、石さえも水が浸みとおっているかと思われました。東京は、その冷たい湿気の底に、身じろぎもしないで沈んでいるのでした。
東京に生まれで東京に育ったコペル君ですが、こんなまじめな、こんな悲しそうな顔をしている東京の街を見たのは、これがはじめてでした。しめっぽい空気の底から、絶えず街の雑沓が湧きあがって来て、七階の上の屋上までのぼって来ましたが、それも耳にとまるのか、とまらないのか、コペル君はじっと瞳を投げたまま、そこに立ちつくしてしまいました。なぜか、眼が離せなくなってしまったのです。すると、コペル君の心の中に、今までにはなかった一つの変化が起こって来ました。
──実は、「コペル君」という名の起りも、このときコペル君の心に生じた、その変化に関係があるのです。
最初にコペル君の眼に浮かんで来たのは、雨に打たれている、暗い、冬の海でした。それはコペル君がお父さんといっしょに、冬休みに伊豆に出かけたときの思い出が、よみがえって来たのかも知れません。霧雨の中に茫々とひろがっている東京の街を見つめているうちに、眼の下の東京市が一面の海で、ところどころに立っているビルディングが、その海面からつきでている岩のように見えて来たのでした。海の上には、雨空が低く垂れています。コペル君は、その想像の中で、ぼんやりと、この海の下に人間が生きているんだ、と考えていました。
だが、ふとその考えに自分で気がつくと、コペル君は、なんだか身ぶるいがしました。びっしりと大地を埋めつくしてつづいている小さな屋根、その数え切れない屋根の下に、みんな何人かの人間が生きている! それは、あたりまえのことでありながら、改めて思いかえすと、恐ろしいような気のすることでした。現在コペル君の眼の下に、しかもコペル君には見えないところに、コペル君の知らない何十万という人間が生きているのです。どんなにいろいろな人間がいることか。こうして見おろしている今、その人たちは何をしているのでしょう。何を考えているのでしょう。それは、コペル君にとって、まるで見とおしもつかない、混沌とした世界でした。眼鏡をかけた老人、おかっぱの女の子、まげに結ったおかみさん、前垂をしめた男、洋服の会社員、──あらゆる風俗の人間が、一時にコペル君の眼にあらわれて、また消えてゆきました。
「叔父さん。」
と、コペル君は話しかけました。
「いったい、ここから見えるところだけで、どのくらい人間がいるのかしら。」
「さあ。」
と言ったまま、叔父さんにも、すぐには返事が出来ませんでした。
「だって、ここから見えるところが、東京市の十分ノーとか八分ノーとか見当がつけば、東京市の人口の十分ノ一とか八分ノ一とかが、いるわけじゃない?」
「そうはいかないさ。」
叔父さんは、笑いながら答えました。
「東京の人口というものが、どこでも平均して同じなら、君のいうとおりさ。だが、実際には人口密度の濃いところもあれば、薄いところもあるからね、面積の割合で計算するわけにはいかないんだ。それに、昼と夜とだって、人間の数はたいへんちがうんだよ。」
「昼と夜? どうして、ちがうのさ。」
「そうじゃないか。僕や君は東京の外側に住んでいるね。それが、いま現に、こうして東京の真中に来ているだろう。そうして、夜になればうちに帰ってゆくじゃないか。そういう人が、ほかにもどのくらいいるか知れないんだぜ。」
「……」
「今日は日曜日だけど、これがふだんの日だと、ここから見渡せる、京橋、日本橋、神田、本郷を目がけて、毎朝、東京の外側から、たいへんな人数が押しかけて来る。そして、夕方になると、それがまた一時に引上げてゆくんだ。省線電車や市電やバスが、ラッシュアワーにどんなに混むか、君だって知ってるだろう。」
コペル君は、なるほどと思いました。叔父さんは、つけ加えていいました。
「まあ、いって見れば、何十万、いや、ひょっとすると百万を越すくらいな人間が、海の潮のように、満ちたり干たりしているわけさ。」
霧のような雨は、話をしている二人の上に、やはり静かに降りそそいでいました。叔父さんも、コペル君も、しばらく黙って、眼の下の東京市を見つめました。チラチラとふるえながらおりて来る雨のむこうに、暗い市街がどこまでもつづいているばかり、そこには、人っ子ひとり、人間の姿は見えませんでした。
しかし、この下には、疑いもなく何十万、何百万の人間が、思い思いの考えで、思い思いのことをして生きているのでした。そして、その人間が、毎朝、毎夕、潮のようにさしたり引いたりしているというのです。
コペル君は、何か大きな渦の中に、ただよっているような気持でした。
「ねえ、叔父さん。」
「なんだい。」
「人間て……」
と言いかけて、コペル君は、ちょっと赤くなりました。でも、思い切って言いました。
「人間て、まあ、水の分子みたいなものだねえ。」
「そう。世の中を海や河にたとえれば、一人一人の人間は、たしかに、その分子だろうね。」「叔父さんも、そうなんだねえ。」
「そうさ。君だってそうだよ。ずいぶん、ちびの分子さ。」
「馬鹿にしてらあ。分子ってものは小さいにきまってるじゃないか。叔父さんなんか、分子にしちゃあ、ひょろ長すぎら。」
そう言いながら、コペル君は、すぐ真下の銀座通りを見おろしました。自動車、自動車、自動車……。そういえば、あの甲虫のような自動車の一つ一つに、やっぱり人間がいるのでした。
ふと、コペル君は、自動車の流れの中に、一台の自転車の走っているのを見つけました。作っているのは、たしかに、まだ年のいかない少年にちがいありません。だぶだぶの雨合羽が濡れて光っています。少年は横を見たり、後を見たり、自分を追いぬいてゆく自動車に気を配りながら、一生懸命にペダルを踏んでいます。コペル君が、こんな高いところから見おろしていることなんか夢にも知らず、雨に濡れてツルツルしたアスファルトの道路を、右に左に自動車を避けながら走って来るのです。と、一台の灰色の自動車が、前の自動車を二、三台追いぬいて、スーツと出て来ました。
「危い! 」
と、屋上のコペル君は心の中で叫びました。今にも自転車がはねとばされるかと思ったのです。しかし、眼の下の少年は、すばやく身をかわして、その自動車をやり過ごしました。そして、その瞬間、ちょっとよろけた自転車を危く立て直すと、また、一生懸命にペダルを踏んでゆくのでした、どんなに一生懸命か、それはペダルを踏む一足一足に、全身を動かしてゆく様子でわかりました。
どこの小僧さんで、何の用事で走ってゆくのか、──無論、コペル君にはわかりませんでした。その見ず知らずの少年を、自分がこうして遠くから眺めている。そして、眺められている当人の少年は、少しもそれに気づかない。このことは、コペル君には、何だか奇妙な感じでした。少年の走っている所は、さっき、コペル君と叔父さんとが銀座に来たとき、自動車で通ったところです。
「叔父さん、僕たちがあすこを通っていた時にさ──」
と、コペル君は、下を指さしながら言いました。
「誰かが、この屋上から見てたかも知れないねえ。」
「そう、そりゃあ、なんとも知れないな。──いや、今だって、ひょっとすると、どこかの窓から、僕たちを眺めてる人があるかも知れないよ。」
コペル君は近くのビルディングを見廻しました。どのビルディングにも、どのビルディングにも、なんでたくさん窓があることでしょう。叔父さんに、そういわれて見ると、その窓が、みんなコペル君の方に向かっているように思われます。しかし、窓はどれもこれも、外のぼんやりとした明るさを反射して、雲母のように光っていました。中に人がいて、こちらを見ているかどうか、それはわかりませんでした。
しかし、コペル君は、どこか自分の知らないところで、じっと自分を見ている眼があるような気がしてなりませんでした。その眼に映っている自分の姿まで想像されました。──遠く鼠色に煙っている七階建のビルディング、その屋上に立っている小さな、小さな姿!
コペル君は妙な気持でした。見ている自分、見られている自分、それに気がついでいる自分自分で自分を遠く眺めている自分、いろいろな自分が、コペル君の心の中で重なりあって、コペル君は、ふうっと目まいに似たものを感じました。コペル君の胸の中で、波のようなものが揺れて来ました。いや、コペル君自身が、何かに揺られているような気持でした。
コペル君の前に茫々とひろがっている都会には、そのとき、眼に見えない潮が、たっぷりと満ちていました。コペル君は、いつのまにか、その潮の中の一つの水玉となり切っていたのでした──
ぼんやりと瞳を投げたまま、コペル君は、だいぶ長い問、黙りこんでいました。
「どうしたのさ。」
叔父さんが、しばらくして、声をかけました。
コペル君は、夢からさめた人のような顔をしました。そして、叔父さんの顔を見ると、きまりが悪そうに笑いました。
それから数時問の後、コペル君と叔父さんとは自動車に乗って、郊外の道をいかに向かって走っていました。デパートメントストアを出てからニュース映画をのぞき、夕方、自動車をつかまえて帰って来たのですが、もうこの時には、とっぷりと日が暮れていました。雨はまだ降りつづけています。へッドライトに照らし出された明るみの中に、チラチラと霧雨のふるえているのが見えます。
「さっき何を考えていたの。」
と、叔父さんがたずねました。
「さっきって?」
「デパートメントの屋上でさ。何だか考えこんでいたじゃないか。」
「……」
コペル君は、何と答えていいかわかりませんでした。で、黙っていました。叔父さんも、それ以上はたずねませんでした。自動車は真暗な道をぐんぐんと走ってゆきます。
しばらくして、コペル君が言いました。
「僕、とてもへんな気がしたんだよ。」
「なぜ?」
「だって、叔父さんが、人間の上げ潮とか、人間の引き潮とかいうんだもの。」
「……」
叔父さんは、わからない、というような顔をしました。すると、コペル君は、急にはっきりした声で言いました。
「人間て、叔父さん、ほんとに分子だね。僕、今日、ほんとうにそう思っちゃった。」叔父さんは、自動車の薄暗い明りの下で、びっくりしたように、眼を見はりました。コペル君の顔が、いつになく、いきいきと緊張しているではありませんか。
「そうか──」
と、叔父さんは言って、しばらく考えていましたが、やがて、しんみりと言いました。
「そのことは、ようく覚えておきたまえ。たいへん、だいじなことなんだよ。」
(吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」岩波文庫 p11-21)
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穴のなかの人について
深い穴のなかでくらしている人を想像してください。前後左右、見えるのは穴の壁だけです。上を仰げば穴の形をした空が見え、時たまそこを星や月や太陽や雲が横切るのが見えますが、空全体を視野におさめることはできません。穴のなかにとどまっているかぎり、自分をとりまく世界の姿と、そのなかでの自分の位置について、その人が正しい認識をもつことは不可能です。
いまの社会のなかでの私たちの日常生活は、この穴のなかでの生活に似たところがあるように思えます。私たちが働き生活している場所は、今日の社会のごく一部分です。それは、全社会的な諸関係──政治的・経済的・文化的諸関係──の複雑な網の目のなかにくみこまれているのですが、その全体は私たちの日常生活の視野に直接入ってはこないのです。
もちろん、時折穴の形をした空を星や月や太陽や雲が横切るように、新聞の第一面を賑わすような諸事件がいやでも私たちの目をとらえ、その背後にあるものを考えさせる、ということはあるのですが、それだけではその正体をつかむことは困難です。目に見えた当座はそれなりに真剣に考えるけれど、しばらくたってそれが視野から消えると──つまり新聞その他がとりあげなくなると──考えることをやめてしまう、というのがふつうです。
私たちは穴を出て、まわりを見わたさなければなりません。学習とは、自分のせまい直接的経験の穴を出て、広い世界を見わたし、自分がおかれている位置、立場を知ることです。
念のためつけ加えておきますが、「穴」とか「穴を出る」とかここでいっているのは、もちろん比喩的な意味です。世界をとびまわる商社マンになろう、という話ではありません。
自分は外国に行く必要を感じないから、外国に行ったことはないし、行きたいとも思わない、と住井すゑさんが書いていらっしゃいました。そして──
「私がこんな考え方を持つようになったのは一つきっかけがある。二十歳の頃に読み縦ったミレエの伝記で、それにはミレエ自身の言葉として次のように記されていた。
〈空は、われわれの視野の及ばぬところにまでひろがっている。
野は、大気に浴している。
たとえ狭い小さな土地であっても、眺望は無限の広さを暗示する。
地平線の小さな一角。それはそれでも地球の一角。
絵は、これらが感得できるようにえがかれるべきだ。〉
私はここに、芸術家ミレエの哲学≠見た気がした。まこと、地平線の小さな一角も、それは地球の一角──。そのように、ここ牛久沼畔の一点も、また地球の一角──いや、地球そのものなのだ。」(牛久沼のほとり、暮らしの手帖社)
ミレエの哲学、住井すゑさんの哲学をおたがいの哲学ともしたい、と思います。
ぼくの いま いる ところ
ここで「かこ・さとし かがくの本」の一冊『ぼくの いま いる ところ』をいっしょに読んでみましょう。
「読んで」といいましたが、紙芝居を見るようなつもりになってください。北田卓夫さんの絵を紹介できないのが残念ですが、おおいに想像をはたらかせてください。1、2、3……といった番号は、便宜上、私がつけたものですが、番号がかわるごとにページがめくられる、と思ってください。
1、ぼくの いま いる ところは どこでしょう?
とそれは、はじまります。
2、あなたの いま いる ところは どこでしょう?
ぼくや きみや あなたの いま いる ところを しって いますか?
3、ぼくが いま いるのは、ここです。
4、ここ──ここって どこでしょう。
5、それは、ぼくの うちの にわです。
にわで あそんで いる ところです。
6、にわの つづきに、ぼくのうちが あります。
7、ぼくの うちは まちの なかに あります。
8、その まちは、たかい たわーの ある、おおきな まちの となりに あります。
9、その おおきな まちは、ふじさんが みえる ところに あります。
10、ふじさんは、にっぽんの くにで、いちばん たかい やまです。
11、にっぽんの くには、たいへいようにある しまぐにです。
たいへいようは ちきゅうで いちばん ひろい うみです。
12、ちきゅうは、おおきな おおきな まるい ぼーるの かたちを して います。
13、その ちきゅうの まわりを、つきが ぐるぐる まわって います。
14、ちきゅうは、たいようの まわりを ぐるぐる まわって います。
ちきゅうの ほかに、かせい、すいせい、もくせい、きんせい、どせいなどの ほしたちも、
たいようの まわりを まわって います。
たいようの まわりを まわって いる ほしたちの ことを、たいようけいの ほしと いいます。
15、その たいようけいの ほしは、なんまん なんおくと ある ほかの ほしと いっしょに、ぎんがけいうちゅうを つくって います。
16、だいうちゅうには、ぎんがけいうちゅうの ほかに、なんまん なんおくと いう、いろいろな うちゅうがあります。
17、いろいろの うちゅうが あつまって、どこまでも はての ない だいうちゅうを つくって います。
いま、ぼくや きみたちは、この はてのない だいうちゅうの なかに すんで いるのです。
18、だいうちゅうの なかの、ぎんがけいうちゅうの なかの、たいようけいの なかの、
ちきゅうの うえの、にっぽんの くにの、ふじさんの みえる、
19、たかい たわーのある おおきな まちの となりの、ちいさな まちの なかの、
ぼくの うちの、その にわに、ぼくは いま いるのです。
ここが ぼくの いま いる ところです。
さあ、きみの いま いる ところは どこですか?
「さあ、きみの いま いる ところは どこですか?」と、あなたが、いま、問われたとすれば、あなたはいま、どのように答えるでしょうか?
(高田求著「哲学再入門」学習の友社 p14-19)
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◎「穴を出て、まわりを見わたさなければなりません。学習とは、自分のせまい直接的経験の穴を出て、広い世界を見わたし、自分がおかれている位置、立場を知ること」と。