学習通信070123
◎社会のしくみは人間の力で変えられる……
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潮流
「団塊の世代が注目されていますが、同じように漢字2文字で答えると、あなたたちは○○の世代ですか?」−。「新成人が考える『時』の意識アンケート」(セイコー調べ)の問いです
▼答えの一位は、「いつの間にか差がつきはじめている『格差の世代』」でした。ほぼ四人に一人、24・8%を占めます。男女とも24・8%です。もっとも、女性は「程よい距離を保ちながらつながっている『連鎖の世代』」の方が多い(26・7%)
▼「連鎖の世代」と考える人は、全体で23・8%の二位でした。「格差」とか「連鎖」は、調べる側が選んでください≠ニ用意した言葉ですが、新成人が自画像を描くときの、手がかりになります
▼「格差の世代」を選んだある男性は、「実力主義が浸透し始めてると思うから」といいます。ある女性は、こう説明します。「勝ち組・負け組・セレブ(有名人)という言葉が流行し、人々の価値観の一部となっているから」
▼ただ、いま広がる格差は、いわゆる「実力」の差だけで生まれているのではありません。政治や経済の支配者が、わざと格差をつくりだしています。収入が生活保護の水準にもみたない「ワーキングプア」とよばれる人の増加も、安あがりの労働者を大量にふやす「規制緩和」のせい。教育も、小学校から格差づけです
▼つくられる格差なら、直せるはずです。生きる力をたくわえながら、若者がともに格差社会に立ち向かう。そのとき、「格差」「連鎖」が「連帯の世代」へと変わります。
(「赤旗」20070108)
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社会は変わる
こういう世の中のしくみを変えようと思っても、なかなか変わるものではない。しかし、世の中のしくみは絶対に変わらないのかといえば、けっしてそんなことはない。
さきに生産と生殖とは人類の永遠の営みだと書いたが、生産と生殖がおこなわれている人間関係(生産関係と家族形態)は時代とともに変わるのである。
昔はこんな世の中ではなかったのだが、その「昔」というのは、何百年も何千年も昔のことではなく、せいぜい百年ぐらい前のことだし、日本で労働者が国民の過半数を占めるようになったのは、つい三〇年ぐらい前のことにすぎない。
世の中は変わるのである。戦前のことを知っているお年寄りなら、この数十年のあいだに日本の社会がどんなに変わったかを、身にしみて知っているにちがいない。
戦後だけをとってみても、一九六〇年代のいわゆる高度経済成長の時代の前と後とでは、日本の社会はずいぶん変わっている。一九五五年にはまだ労働者よりは農民その他の自営業者の方が多かったのである。
では、まるで「運命」のように私たちをつつんでいて、変えようとしてもなかなか変えられないこの世の中のしくみが、どうして変わるのだろうか。
社会というものは、たしかに個人の力ではどうにもならない「運命」のようなものだけれども、しかし社会はやはり人間がつくっているものである。そこに自然と社会とのちがいがある。
自然は人間がいなくても存在するが、社会は人間がいなければ存在しない。自然の働きは人間の力でとめることはできないが、社会のしくみは人間の力で変えられるのである。
たとえば台風と戦争をくらべてみよう。台風は人間がおこすものではないし、これを人間の力でとめることはできない。
もっとも、もっと科学技術が発達すれば、人工的に台風の向きを変えたり、低気圧をつぶして台風そのものをなくしてしまうこともできるかもしれないが、現在のところでは人間はじっと台風が通りすぎるのを持つ以外に方法はなく、せいぜい台風の進路を予想して警戒をつよめるぐらいのことしかできない。
これとくらべてみると、戦争をはじめるのもやめるのも人間であって、戦争をやりたくないと皆が考えれば戦争ははじまらないのである。台風のように、戦争が終わるのをじっと持っているという必要はないのであって、皆でやめようと思えば、戦争はいつでもやめられるはずである。
ところが戦争という社会現象の場合でも、だれか一人で、あるいは少数の人たちだけで、「戦争反対」といっても、「戦争中止」と叫んでみても、戦争をとめることはできない。
太平洋戦争に反対していた人はかなりたくさんいたはずであるが、この戦争をとめることはできなかった。この戦争に反対して監獄にぶちこまれた人は、やはり台風におそわれたときと同じように、戦争が終わるのを「じっと持つ」という心境だっただろう。
つまり、社会現象の場合でも、一人では勝手にこれを変えることはできないのであって、「皆が考えれば」とか「皆がその気になれば」ということがこれを変えるうえで不可欠の条件なのである。
ではどういうときに「皆の考え」が変わるのだろうか。一五年戦争がはじまったときのことを考えてみると、日本の国民がある日とつぜん、「戦争をはじめよう」と申し合わせをしたわけではない。だんだんに、なんとなく、そういう気持に追いこまれていったのである。
たぶん、国民をしだいにそういう気持に追いこんでいった仕掛人がいたにちがいない。そして宣伝や世論操作などによって戦争へとみちびいていったにちがいない。しかし、どんな仕掛人がいたにせよ、世の中の動きをまったく無視して空想的なホラをふいていても、大勢の人をそこへひきつけることはできない。仕掛人の仕掛けが効果を発揮するのには、やはりそれなりの条件となる何かが必要である。この「何か」とはいったい何なのか。
この「何か」があきらかになれば、変わらないようにみえている世の中のしくみの変わり方もわかるし、すすんで積極的にこれを変えることもできるはずだ。「社会を科学する」ということは、この「何か」をみつけることである。
社会というものが、もし誰でも勝手に変えることができるものなら、これは科学の対象にはならない。科学というのは法則を発見することを目的とするものだから、気まぐれや偶然で変わるものは科学の対象にはならないのであって、たとえばサイコロをふってどういう目がでるかを「科学する」ことはできない。
あるいは、人間の力ではどうすることもできない神とか運命とかというようなものがもしあるとすれば、これも科学の対象にはならない。神にたいしてはただ祈るだけである。つまり、「社会を科学する」ことができるのは、社会は気まぐれや偶然で変わるものではないが、しかし人間の力でコントロールすることのできるものだ、という性質のものだからなのである。
社会にも法則がある
「科学」とか「法則」とかいうと、それは自然科学だけのことだ、と思っている人が多い。社会については科学も法則もありえないというのである。しかし、社会についてはほんとうに「科学」も「法則」もないのだろうか。自然科学や自然法則とくらべながら、もっと詳しく考えてみよう。
まず、自然と社会との違いをはっきりとさせておこう。いちばん大きな違いは、すでにのべたように、自然は人間がつくったものではないが、社会は人間がつくったものだ、ということである。人間という生物がもし絶滅してしまっても、自然はなくなることはないが、もし人類が絶滅してしまえば社会というものもなくなるのは当然である。社会というのは人と人との関係なのだから、最低限二人の人がいなければ社会はなりたたないのである。
そこで、自然には人間の力ではどうすることもできない客観的な法則があるということは、すぐ理解できる。人間は自然法則にさからうことはできないのであって、「オレは自然法則なんかみとめない」といってビルの屋上からとびだしてみても、かならず落下して死んでしまうにちがいない。どんなに「死にたくない」といっていても、人間はかならずいつかは死ぬのであって、これは自然の法則なのだ。
しかし人間はこういう自然の法則にただ身をまかせていたのではなく、自然の法則をひとつひとつ解明し、逆にこれを利用して自然を征服してきたのである。たとえば、高いところからとびだせばかならず地上へ落下するということも、地球の引力によるものだということがあきらかになった。
そういうことがわかってくれば、引力のおよばないところまでとびだしてしまえば、地上へ落下しないということもわかり、いまでは字宙遊泳も可能になっている。土に種子をまけば作物ができるということは経験的にわかっていたが、作物が成長するしくみがもっと詳しくわかってくると肥料をやったり温室栽培をしたりして、作物の成長を早めたり、収穫物の量をふやしたりすることもできるようになる。
こうして人間はしだいしだいに自然法則を上手に利用するようになっていったのである。
それでは社会についてもこういうことがいえるのだろうか。社会というものは自然とはちがって人間がつくっているものだから、人間の気持しだいでどうにでもなると考えられやすい。
少人数のあつまりならたしかにそのとおりで、数人の人があつまってサークルをつくろうとか、イヤになったから解散しようとかということなら、みんなの気持しだいでどうにでもなる。しかし、もっと大きな集団になるとそう簡単にはゆかない。さきには戦争の例をあげたけれども、別の例をあげると、このごろ学者のなかで徳川時代というのは大へんよい時代だったといいだしている人がいる。
しかし、かりにそれがほんとうだとしても、いまさら徳川時代にもどって東海道五三次をテクテク歩くわけにはゆかないのである。つまり社会の変化には一定の方向性があるのであって、これにさからうことはできないのだ。
しかし、こういう社会の変化は予測できるのだろうか。自然法則のばあいには、Aという原因があればかならずBという結果がでるから、こういう法則性を利用してロケットをとばしたり、病気を治したり、いろいろなことができるし、将来についての予測も可能である。同じようなことが社会についても可能なのだろうか。たとえば第三次世界大戦はおこるのか、もしおこるとすればいつおこるのか、ということは予測できるだろうか。
たしかにこういう予測はむずかしい。第三次世界大戦どころか、来年の景気はどうなるのかということさえ、正確にはなかなかわからないのである。しかし、だからといって社会法則などというものはないといいきってしまうことはできない。
自然法則のばあいでも、日食や月食のように条件が単純なばあいには、何年後の何月何日何時何分にそれがおこるという正確な予測が可能だけれども、条件が複雑になってくると予測はだんだんむずかしくなる。
自然法則が正確にとらえられ、利用できるのは、人工的に一定の条件をつくることができるからなのであって、条件を同じにしておけば同じ原因にたいして同じ結果をくりかえすことができるのだが、人工的に一定の条件をつくることができないばあいは(たとえば地震)、予測はたいへんむずかしい。
自然法則にも単純なくりかえしの法則と、生物進化の法則のようにくりかえしのきかない一回かぎりの法則とがあって、地球ができ生物が発生したあとをたどることはできても、これから地球がどうなってゆくか、生物がいつまで生存しつづけることができるかは正確にはわからないのである。
社会法則も同じことであって、社会では人工的に一定の条件をつくることはできないが、しかし条件が比較的似ているときには、同じ原因から同じ結果が生まれる。たとえば紙幣を乱発すればインフレになるという経済法則は、くりかえしの法則であり、こういう法則を利用して景気を操作することは可能である。
しかし、原始共産制がくずれて私有制が発生するというのは、生物進化の法則のようなもので一回かぎりしかおこらないから、くりかえしはできない。こういう一回かぎりのものを歴史法則というが、このように社会法則には一定の条件のもとでだけくりかえし通用するものと、すべての社会をつらぬいている一回かぎりの歴史法則とがあるのであって、その点でも自然法則と基本的には同じなのである。
(浜林正夫著「社会を科学する」学習の友社 p30-34)
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◎「つくられる格差なら、直せるはず……生きる力をたくわえながら、若者がともに格差社会に立ち向かう。そのとき、「格差」「連鎖」が「連帯の世代」へ」と。