学習通信070119
◎スピリチュアル・ブーム……
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とはいえ、「あの人、三度も生き返ったんだって」「私の前世って武士だったらしいよ」と学生たちが当然のことのように語り合うキャンパスでは、やはりこれまでと違う何らかの変化が起きている、と言わざるをえない。それが本当に憂慮すべき「大変なこと」なのかどうか、の答えは保留にしておくとして、このような変化が最近のスピリチュアル・ブームを支えていることは間違いない。
霊との交信は何のため?
では、あらためて考えるに、スピリチュアルとは何だろう。
スピリチュアル・ブームというと、占いやパワーストーン、気功、ヨガ、各種ヒーリングやセラピーなど、霊には直接関係ないが、現在の自然科学では説明しきれないものを広く指すことがある。だが、もともとスピリチュアリズムという語は日本語では「心霊主義思想」などと訳される。簡単にいえば、「死後の生」や「霊魂」などこの世を超えた目に見えない世界やそこでの現象を信じること、またその世界からのメッセージを受け取れること、と考えてよいだろう。本書のテーマである「スピリチュアル」も、もっぱら「霊的なもの」を念頭においている。
だから、「スピリチュアルOO」というのは「霊的な考え方やそこからのメッセージを取り入れた○○」ということになる。現在のスピリチュアル・ブームの立役者とも言える江原啓之氏の肩書きである「スピリチュアル・カウンセラー」は、これは霊的な考え方や霊の声を取り入れて相談を行うカウンセラー〃となるだろう。
「死後の生」とか「霊魂」といえば、「なんだ、オカルトか」と言う人もいるかもしれない。「オカルト」と「スピリチュアル」はどう違うのか。まっとうな説明をするならば、「オカルト」は「神秘的、超自然的な現象、あるいはそれを信じること」と定義されており、そこで扱う現象の中には、UFOや宇宙人、超能力、錬金術など、霊魂や死後の世界とは直接、関係ないものも含まれている。つまり、「スピリチュアル」は「オカルト」の一分野、と言ってもよいだろう。
しかし、いまのスピリチュアルに夢中になっている人たちと、UFO好きや超能力信者には明らかな違いがある。
UFO好きや超能力信者など、従来のオカルト愛好家は、いわゆるおたく的な趣味のひとつとしてオカルトを選んでいる。UFOの写真を集めたり目撃体験を自慢し合ったりするなど、そのコレクションや知識の集積に嬉々としていることが多い。オカルト好きとかつてのアマチュア無線愛好家とは、マニア性、おたく性という点において、互いにあい通じるものがある。
一方、スピリチュアルなテレビ番組や本に涙している人たちは、決して写真を集めたり体験を自慢し合ったりすることはない。自分にはスピリチュアルな能力がある、と言っている人も、霊との交信記録カードを作ってその数を競ったり、どんな珍しい霊と交信したかを競い合うようなことはしない。スピリチュアル好きやスピリチュアリストは、無線愛好家とは決定的に違うのだ。
では、スピリチュアル好きの人たちはその世界に傾倒することで、いったい何を求めているのだろう。それは、スピリチュアリストのことばに従って人生の選択を決定する人に象徴されるように、「守護霊」や「前世」の力を借りていまの自分がどうよく生きるか、悩みからいかに救われるか、ということであるようだ。
霊界と交信できるスピリチュアリストたちが大々的に登場したのは、十九世紀のイギリスだと言われているが、その意味について江原啓之氏は自身のホームページでこう述べている。
それから、私たちがなぜ生まれて生きるのか、本当の幸せとは何かという真理を探究するようになったのです。
これは人類にとっての偉大な福音となりました。
これらの霊交による思想をスピリチュアリズムと呼ぶようになり、私のようにその思想に従い、生きる者をスピリチュアリストと呼ぶようになったのです。
ここで明らかなのは、霊と交信することじたいが、スピリチュアリズムの目的ではないということだ。あくまで、それを用いて、いまの自分について考える。しかも、自分が「なぜ生まれたのか」「生きている意味とは何か」「本当の幸福を得るためにはどうすればいいのか」といったことについて考える。それが、スピリチュアルの目的だ。
つまりそこにあるのは、一見、哲学的な思想のようだが、実は圧倒的な自分中心主義であり、しかも「現世」中心主義なのだ。
(香山リカ著「スピリチュアルにハマる人、ハマらない人」幻冬舎新書 p36-40)
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私は誰? あなたは誰?
一人の若者が、すうっと影のように交番に入ってきて、ぼんやり机にむかっていた巡査にいきなり尋ねたということです──「私は誰でしょう?」
こいつ、人をからかいに来たのか。憤然として頭をあげた巡査の目に映った若者の顔は、真剣そのもので、ほんとに困感しきっている様子でした。あっけにとられた巡査が、ようやく「あんたは誰?」とききかえすと、「それがわからないから困っているんです。」
これは『記憶のメカニズム』と題する本(高木貞敬、一九七六年、岩波新書)の冒頭に紹介されている話で、それをこの本の冒頭に拝借しているわけですが、交通事故などで脳を強打したり、一酸化炭素中毒などで脳をおかされたりしたために記憶喪失におちいり、近親者の顔の見わけもできず、自分が誰だかわからなくなる場合があることは、すでにひろく知られているところですし、老人性の脳障害のため同様の症状がおきる場合があることも、有吉佐和子さんの『恍惚の人』(一九七二)に描かれてよく知られているところです。その一節−
「お父さん、私が誰だか分からないの。本当に分からないんですか。私はねえ、あなたの娘ですよ」「はあ、はあ、そうですか」
「そうですかじゃないでしょう。私は、あなたの娘よ、分かる?」
「おかしな人ですねえ、あなたは。……私の娘は、あなたのような年寄りじゃありませんよ」
「まあ」
自分が何ものだかわからない、というのには、ウェブスターの名作『あしながおじさん』の主人公ジュディーのような場合もありえます。ジュディーというのは愛称で、正式にはジルーシャ・アボットというのですが、この姓名は孤児院の院長さんが適当に拾ってきてつけたもので、どこから拾ってきたかといえば、姓のアボットは電話番号帳の最初のべージから、名のジルーシャはそこらへんの墓石から拾ってきたのだそうで、彼女はそれをひどく嫌っています。ということからわかるように、彼女は孤児院育ちの棄て児なのです。
あしながおじさんにあてた彼女の手紙の一節−
「自分が何者なのかわからないっていうのは、ほんとにひどくへんなものです──スリルがあって、ロマンチックで。いろんな可能性が考えられるんですものね。もしかしたら、私、アメリカ人じゃないかもしれない。そういう人、いくらもいるでしょ。けっこう、古代ローマ人の直系の子孫だったりして。ひょっとしたら北欧海賊の娘かもしれないし、それともロシアの亡命者の子で、本籍がシベリアの刑務所、というのかもしれないわ。それともジプシーかしら。──ああ、きっとそうだわ。私、ひどく放浪にあこがれるところがあるんですもの。それを実地にうつすチャンスにはこれまであんまり恵まれなかったけれど。」(主として坪井郁美訳、福音館書店、による)
私は記憶喪失症でもないし棄て児でもないからそんな問題は関係ない──とは、たぶん、あなたはいわないだろうと思います。
旧「社会主義」諸国の人びとも、資本主義世界の人びとも、いわゆる「第三世界」の人びとも、それぞれの形で「私はいったい何者か」という問を改めてかみしめている──かみしめざるをえなくなっている──それが、二十世紀のこの最後の十年のいちじるしい特徴であるように私には思えます。
読者の皆さんといっしょにこの問題を考える手がかりをさぐりたい、というのが、はじめにあたっての私の願いです。ここでその答まで出せるとは思っていません。哲学だけで答を出せる問題ではありませんし。しかし、答が簡単にはえられないとしても、それは、それだけ可能性がいっぱいあるということでもありうるわけで、それだけ夢あり、胸ときめくことでもあるんだ、というふうに問題をとらえかえすところまでは行きたいし、行ける──そこに哲学の役割もあるのだ、と思っています。
昔、デルポイの神殿には「汝みずからを知れ」という格言がかかげられていたそうです。これはもともと「汝の身のほどをわきまえよ」(奴隷は奴隷らしく、職人は職人らしく)というくらいの意味だったらしいのですが、ソクラテスはこれを読みかえて、彼の哲学活動のスローガンとした、ということです。私たちはこれをさらに読みかえて、私たちの学習活動のスローガン(第一のスローガン)とすることができるでしょう。
(高田求著「哲学再入門」学習の友社 p10-13)
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どんな労働者でもより高い、安定した生活をもとめている。これは人間としての本能である。資本主義の社会では、より高い生活をもとめる労働者の努力の成果はすべて資本家に奪いとられて、労働者はいつまでも最低の生活をしいられ、失業や病気などの不安にさらされている。これは、どんな職場に働く労働者でも同じことである。
だから、どんな労働者でも自分の欲求と現実のあいだに矛盾を感じており、賃金、労働条件や生活にたいする不満を持っている。これらの不満は、資本主義社会のしくみの中での労働者の位置から生まれるものであるから、つきつめてみれぱ、共通の原因から生まれたものであることがわかる。したがって、この不満を積極的に解決するための要求も共通な内容を持ち、共通な相手にむけられる性質を持っていることは当然である。
(春日正一著「労働運動入門」新日本出版社 p36)
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◎「つまりそこにあるのは、一見、哲学的な思想のようだが、実は圧倒的な自分中心主義であり、しかも「現世」中心主義なのだ」と。
◎「私たちはこれをさらに読みかえて、私たちの学習活動のスローガン(第一のスローガン)とすることができる」と。