学習通信070110
◎ひ‐こくみん【非国民】……

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同じ穴の狢

 暮れに教育基本法が改正された。国の介入を排除した前法の崇高な理念は葬られた。仏に入魂を怠った末の今日である。

新法は訝しい。「愛国」が強調された。

意味不明瞭かつ多弁な安倍首相は「内面には入らないが伝統や文化を学習する態度は評価する」と言明した。学習指導要領の六年生に既定だが点数をどうつけるのか。先生方に同情する。

ただし死語の「非国民」を復活させてはならない。

 「相次ぐ立法化を止められずに開戦を許した」。舞鶴で戦争を語り継ぐ神原崙氏の回顧は苦い。国旗・国歌法制定の際「強制しない」という政府の約束は間もなく破られた。東京都教委が君が代斉唱時に不起立の教職員多数を処分した。係争中だが国は都を諌めていない。すでに「態度」を咎め「内面に入った」新春も気が重い。

「亡国のアリア」──三流映画の題名並み無策愚策あれこれ。年間自殺三万人超で自己破産十八万件。姑息な労働分配で格差はますます広がる。法人減税で定率減税廃止なら個人消費は凍る。要リハビリ患者にまで退院を強いる。障害者への負担増でも自立支援? 悪い冗談か。公僕犯罪が続発するのに住基ネットの個人情報は削除出来ない。かくて防衛省は九日旗揚げへ。

 人は君子以外も豹変する。永田町なら日常だろうが先の復党茶番劇は滅多にお目にかかれまい。「郵政民営化に一度も反対していない」と釈明した御仁もいた。情? 選挙目当て? 何にしろこの変節は卑しい。受け入れ側も同じ穴の狢である。幹部連の人相が時として悪代官に映ってしまう。したり顔で道を説くな。若者たちはしっかりと見ている。(高橋寛)
(「京都新聞」夕刊」20070105)

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昭和十四(一九三九)年
69連勝の双葉山が負けた

 押しつまった十二月二十六日。
 クリスマスの翌日に朝鮮総督府は「創氏改名」、名前を日本式にすることを命じた。

 強制的な連行もむちゃだが、名前を変えさせるにいたっては……。
 横暴を通り越している。
 「歴史を正視しない日本人」と教科書に書かれてしまうのも無理はない。

 在日芸能人の日本名にまつわるつらいエピソードのもともここにある。
 日本名は芸名と割りきることにしたという歌手もいるし、この国で生きる以上、この国の名前のほうが生きやすいと合理的に決着した野球の選手もいた。

 僕も名前に関しては複雑な思いを背負ってきた。
 永田さんや、永山さんから「実は私も本名は永です」という挨拶をされることがある。
 奄美大島には「永」の姓が多いのだが、他でこの名前に会うことはない。
 中国だと上海周辺には「永」(イヨン)という姓が多い。
 この一字名で「シナポコペン」「チャンコロ」といじめられた。

 時に浅草新堀小学校一年生。
 胸に名前を書いたハンケチをつけるだけで、その一字名前を珍しがられ、次にいじめの対象になった。
 今では「創氏改名」を知らない日本の若者が多いだろうが、韓国の教科書にはきちんと書かれている。

 日本の戦後世代が、同じように気にしなかったものに伊藤博文の旧千円札がある。
 お隣の国は彼を暗殺した安重根が英雄なのである。
 だから千円が夏目漱石になってホッとしたという人が多い。
 「自分の財布に韓日併合の伊藤博文が入っているなんて許せなかった」
 在日の友人の言葉が忘れられない。

 さて僕は一年生。
 学校までは歩いて五分。
 少し地図で説明を──。
 江戸古地図で見ると菊屋橋際の本願寺別院を中心に寺町の一帯があり、その中の永住町に最尊寺がある。
 父で十六世、兄が十七世。
 徳川初期からの計算になる。
 通りひとつへだてて阿部川稲荷、ご近所で育った池波正太郎作品などでおなじみの名前である。

 わが家の前を右に直進すると、「どぜう・駒形」の脇に出てその先を隅田川が流れている。
 左へ直進すると白鴎高校(旧・府立第一高女)の前を通ってアメヨコを突っ切り、上野鈴本(寄席)に突きあたる。
 浅草寺の鐘と、寛永寺の鐘がステレオで聞こえてくるという除夜の鐘。
 近所には葛飾北斎だの幡随院長兵衛の墓があったり、姿三四郎にも登場する柔道発祥の永昌寺があったり……。

 そして小芝居のかかった銀線座も歩いて三分という環境だった。
 近所に点在する長屋には職人衆、芸人衆が暮らし、ちょっとした横町には「××寓」という仕舞屋(しもたや)があり、旦那を待つ姐さんの三味線の音が聞こえたりした。

 背中の彫り物が半分までできて、それっきりというよう頭が早い時間に銭湯帰りで飲み屋に寄ったり、夫婦喧嘩の仲裁に飛んでいくような町が学校の往復の風景である。

 近所の学校の子供たちとも、お互いの学校をボロ学校とはやしたてては、ガキ大将の命令一下、戦争ゴッコになったりしていた。

 その戦争ゴッコに登場するのが「スパイ」「非国民」「売国奴」「第五列」という言葉で、これがもっとも屈辱的だった。
 この中の「第五列」という意味は最近になって知った。
 この年のスペインでフランコ軍がマドリードを占領した時の話。
 フランコ麾下のモラ将軍は四軍を指揮して、あと一軍がマドリード市内にいると公言。つまり内報者を指し、これが第五列。
 そこから「第五列」という言葉を子供たちまでが使うようになる。
「第五列の恐怖」というスパイ映画は僕にも覚えがある。

 浅草の子だから、同世代では映画をよく見ている。
 子供の遊びで「第五列」が出てくるぐらいだから、日本中が裏切り者は密告するという風潮。
 軍人に牛耳られた内閣が続き、中国では関東軍が勝手な行勤を正当化しては暴れ始めていた。

 そしてノモンハン事件。
 ここでソ連軍に叩きのめされて日露戦争の日本海海戦とは勝手が違ったことを思い知らされる。
 しかし反省しなかった。
 「国民精神総勤員」「生めよ殖やせよ国のため」のかけ声がかかる。
 十人以上の出産は総理大臣から賞状が届けられるという時代である。
 子供たちもみんな軍人になるのが当然で、この時代にピアニストになりたいといった中村八大は教師にどなりつけられたという。

 その八大さんとの共通体験にラジオがある。
 それは初場所で六十九連勝の双葉山を安芸ノ海が破った時だろう。
 取組中の静まりかえった町。
 それぞれが自宅のラジオで実況を聴き、双葉山が負けた瞬問に外に出た。
 通りは「負けた負けた」と確認する人々で、ごったがえしたのである。
 今から考えると不思議な共通体験だが、昭和一桁なら大部分の人がこの日のことを覚えている。

 この日と六年後の敗戦を同じようにラジオで受けとめたのだと思う。
 自分の耳が信じられなくて、みんなで確認しあったのである。
 ラジオの音質がまた、そういうザラザラした雑音の多い放送だったっけ。
(永六輔著「昭和」知恵の森文庫 p52-57)

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国民はどんな気持ちで戦争にいったのか

 祖父は、墓参りに出かけた時、戦没者(戦争で亡くなった人)の墓に出合うと、かならずその前で一礼し、合掌する。また、「一五年戦争(日中戦争)は、日本の侵略戦争だった」と人にいわれると、「とんでもない!
 日本とアジアの人びとのために戦争をしたのだ」と声を大きくして怒る。祖父は軍人であった。同級生全員が兵隊にとられ、生き残ったのはわずかだった。祖父は、「あの戦争がもし侵略戦争であったならば、自分の青春はいったい何だったのか、友人たちは何のために命を落としたのか」という考えにおそわれ、感情的になるのだ──と、ある中学生が作文に書いている。戦争当時、国民はどんな気持ちで戦争に参加したのだろうか。

●「王道楽土(おうどうらくど)を建設するために」

 秋山良照一等兵は、山梨県生まれ。画家を志して上京し、美術学校で学んでいたが、兵隊にとられ、中国で八路軍(中国共産党軍)と戦って捕虜になった。次の文は、捕虜となった秋山一等兵と、中国兵とのやりとりである。

秋山=おれは暗号兵だ。だからお前らは、日本軍の秘密をさ ぐろうとして、おれを殺さないのだろう。日本帝国軍人をみそこなうな!

中国兵=私たちにも、日本人の友人がたくさんいる。戦争さ えなかったら、私たちは殺し合いをしないですんだのだ。

秋山=中国は、「日本反対」といって日本に戦争をしかけてきた。日本は、万世一系の天皇をいただいた優れた民族だ。その日本が、中国を助けて王道楽土を建設するために戦っているのだ。命は、初めから天皇陛下にささげている。

中国兵=それはちがう。戦争を計画したのは日本だ。日本は、中国から満州を奪ったではないか。日本は、東洋平和のための戦争だというが、中国にとっては不正義の戦争だ。私たちは、国土を守るために戦っているのだ。もし、日本が四国でも九州でも奪い取られたら、君は泣き寝入りするか。

秋山=弱い者が負ける。強い者が勝つ。それが戦争だ。

中国兵=日本でも、大きな利益をあげている企業家や大地主は少数ではないか。その人たちが、よその民族までおさえて、さらに利益をあげようとして戦争を計画したのだ。そんな理由では戦争ができないから、「東洋平和のためだ」「天皇陛下の命今だ」といっているのだ。(栗栖良夫『戦争と人間のいのち』新日本出版社刊をもとに作成)

 戦争とは、人間が生死をかけるものである。感情的なものだけでなく、国民の心を戦争に強く引きつけた論理は何だったのだろうか。秋山一等兵の会話の中で、気にかかるのが、

 「日本が、中国を助けて王道楽土を建設するために戦っていという部分だ。この言い分は、作文に出てくる「祖父の感情」とも似ている。これは、当時の多くの国民に共通する気持ちではなかったろうか。

●「お国のため」と信じて

 『ガラスのうさぎ』などの作品を通して、平和を訴えている作家の高木敏子は、当時(一九四三年)一一歳だった。彼女は、志願兵となって入隊する兄にすがり、狂ったように泣いて止める母に対して、かわいそうというより、怒りを覚えた、と書いている。彼女も、りっぱな軍国少女≠ノされていたのである。国民は、「お国のため」に心を奪われ、日本の侵略行為に対する世界の批判の声に、耳を傾けることができなくされていた。

 「北川、江下、作江の三人は、破壊筒をかかえながら敵陣に突進しました。作江が倒れました。『作江、よくやったな。いい残すことはないか』『何もありません。成功しましたか』『大隊は、おまえたちの破ったところから突撃して行っているぞ』『天皇陛下万歳』。作江は静かに目をつぶりました」

 これは、初等科国語教科書にのった、上海事変の英雄とされた「三勇士」の話である。国民は、学校、家庭、社会を通して、天皇のために命を落とすことが、もっとも美しい生き方であり、それにそむくことは「非国民」だと教えられてきた。戦争は、兵器だけではできない。その兵器を使用する人間を育てることから、すでに戦争は始まっていたのだ。
(「AJB朝日ジュニアブック 日本の歴史」朝日新聞社 p224-225)

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ひ‐こくみん【非国民】

国民としての義務・本分に違反する者。国民としての観念がうすい人。
(国語大辞典)小学館

国民としての義務を忘れた者。特に、第二次世界大戦前・戦中において、軍や国の政策に批判的・非協力的な者をおとしめていった語。
(大辞林)三省堂

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◎「国民は、「お国のため」に心を奪われ、日本の侵略行為に対する世界の批判の声に、耳を傾けることができなくされていた」と。