学習通信070105
◎新しい波がひたひたと……
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おけら詣り
今年もまた、なむなむと一年がすんで、ついこの間若水を汲んだと思うているのに、はや大つもごり(つごもり)。なんでこないに歳月が短いのんやろう。母がよう、こどもの時分は一年が長かったなァと、なつかしそうにいうていたけれど、わたしもまた、そのころの母とおんなじ年齢(とし)になってみると、母の気持ちがようわかる。ほんまになァ。なんにもせんうちに一年がすんだ。そして、一年のしめくくりは、おけら詣りである。
わたしは毎年、最後に表の庭のぞうきんがけをする。そのために、ぼろのぞうきんはみんな残しておいて、庭のたたきをふいてからほかす(捨てる)。そして、それがすんだらおふろにはいってはだ着の洗濯をし、それでなにもかもがおしまいになる。やれやれ、一年の用事も滞りのうすんだ。迎える年は、もっとええことがありますようにと願いつつ、ゆっくりお湯につかる。
遠くに聞こえる鐘の音は、あれは知恩院さんやろうか。風の具合でかすかに響いてくる。その数は、人間の煩悩といっしょの百八つ。お寺さんに、よう数間違えはらしまへんなァ、というたら、なにいうてんね、塩豆を用意しといて、一つ撞くごとに一粒ほうばるにゃ、と。大笑いになった。五色豆やと甘いさかいになァ。近ごろは、観光客が撞かしてほしいと、山寺へも行かれるそうな。
わたしは一時半になるのを待って、家を出る。テレビでは、もう新年のあいさつを聞いたけれど、わたしはまだ新年とは思えず、去年とやいわん、今年とやいわんと迷うている。それでも、寅の刻まではまだ冬年で、おけら詣りは、わたしにとっては暮れのけじめになっている。
京都では、お雑煮は男のひとが炊くことになっていたので、わたしの家でも、おけら詣りには父が出かけた。そして、おけら火を受けて帰って、それを火種にしてお雑煮を炊いていた。けれど、父が亡うなってからは、それはわたしの役になって、毎年きっちりと出かける。目ざす祓園さん(八坂神社)は、東山のすそ、四条通のどん突きにあって、そんな時間でも、お詣りの人でごった返している。なんと、若い男女の多いこと。お詣りということで、だれからも文句をいわれないのが、うれしいのんやろう。
ぞろぞろと人の後について、楼門をくぐると、火縄を売る店が並んでいる。境内はあかあかとして、まるで宵のロ。ほんまに真夜中かしらんと、一瞬戸惑う。
「吉兆縄どうです、五百円」
と声がかかるけれど、本殿の前では人でもみくちゃになるので、お詣りがすむまでは求められない。
やっとのことで押されもって拝んで、一年のお礼もそこそこに、人の波から脱出する。ほんまに、脱出というのがぴったりで、ほっとする。そして、立売りの人に縄を買う。わたしは長年、おんなじ場所に立ってはるおばあさんに決めていた。もうお互いに顔見知りになっていて、ごきげんさん、また来年、というて別れる。
お元気で……というて別れたのに、ある年、おばあさんが見つからなんだ。ほかの人に聞いてみたら、もう早帰りしやはった、ということで、それならけっこうやと思うた。もしや病気でも……と案じたからである。そして、その翌年からは、もう姿を見せはらなんだ。わたしも別のおばさんに買うことになったけれど、そのおばさんとは近くらしいので、おばあさんの消息を聞いては安心していた。これが縁というもんやろうか。どこのだれとも、名前さえ知らないのに、火縄のご縁である。今度のおばさんもまた、わたしの出かけるのが十分遅れたら、顔を見るなり、今年はもう来やはらんのかと思うた、というてくれはった。うれしいことばである。それだけ気にかけてくれはった。
境内には三か所におけら灯篭が設けてあって、そこでおけら木を焚き、燃えているおけら火を、火縄に受けて帰る。おけらというのは薬草で、子いものような根を乾かしてから、粉にし、それをふりかけて、おけら木を焚かれるのやと。そやから、その浄火は厄除けになって、それを火種にしてお雑煮を炊くと、無病息災のおかげをこうむるといわれている。こういうことは、疑わずに、わたしは行事をたのしんでいる。
火を受けながら、わたしはいつも、自分のおけら木がもう焚かれたかどうかが気になる。どの灯篭にあることやら。月初めに婦人会のほうからおけら木は持ってこられる。それで希望者は何本でも好きなだけ受けて、それに名前と年齢と性別とを書いて、納める。ちょうどごま木とおんなじような白い木で、願い事を書いておくと、かなえられるという。けれど、六十も半ばになると、もうだんだんと欲がのうなって、願うこともないし、ただ達者でいられることに、感謝をするだけである。
「いっぺん、恋人が現れますように、頼もかしらん」
「そらちょっと厚顔しいわ、だれがおばあさんのお守りするねん」
「そうやろか、わたしは若い人が好きやけどなア」
「あかん、あかん」
それでけりがついてしまう。なにをっ、いまにびっくりさしたげる。
こんな他愛もないことをいうて年が越せるのは、ありがたい。わたしたちの年代には、冗談もいえないときがあったのやから。願いは一つ、四海波静まりて、ということやろう。先年、女学校のクラス会で、会の名前を一輪(いちわ)会と決めた。昭和十年の卒業やから、一〇が一輪となっただけやけれど、戦争未亡人の多い世代で、みんなの心のうちには、もう一つ、一輪にかける願いがあったはずである。
火縄の先に受けた火は、消さんようにくるくると回しもって、帰ってくる。そして、やっぱり火縄を手にした中年のご夫婦に会うたりすると、向うさんもこれでお雑煮をお炊きやすのやな、と、ほほえましい。こういうしきたりがだんだんとすたれていくなかで、一軒でも二軒でも、守ってはるおうちがあるというのは、うれしい。わたしも、しきたりというよりは、暮らしに節目をつけることが好きやから、おけら詣りにもほいほいと出かける。
また、この小さい種火は、旧年と新年という一くぎりずつの歳月を結んで、時の流れの中で、ささやかな自分の暮らしが、実は大きい歴史の中にあることを教えてくれる。わたしは、その暮らしをだいじにせんならん。火縄は、昔は井戸につるしていたけれど、いまは、火の用心もあって、走りに下げておく。家に帰り着くのは三時過ぎで、この夜、わたしは水の恩を送って夜を徹するので、お雑煮の仕度にかかる五時までは、まだ間がある。
その二時間ほどを、わたしは頭をからっぽにして過ごす。禅宗のお師家さんは、よう墨蹟に円相をお書きになって、これは、雑念を払うて一切空≠ニいうことやそうな。凡人のわたしは、そう偉うもなりとうはないし、お金にも執着はない。きずつくほどの名ものうて、こうして欲を離れたときに、人間はいちばん強うなるのやないかしらん。それは、新しい年を迎えるための、わたしの姿勢でもある。
(木村しげ著「京都 人と水と」冬樹社 p194-200)
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新年の食卓
元日に
家族そろって顔を合わせ
おめでとう、と挨拶したら。
そこであなたは
どこからおいでになりましたか、と尋ねあうのも良いことです。
ほんとうのことはだれも知らない
不思議なえにし
たとえ親と子の間柄でも
いのちの来歴は語りきれない。
そして取り囲む新年の食卓
これは島
手にした二本の箸の幅ほどに
暮しの道はのびるだろう
きょうから明日へと細く続くだろう。
このちいさな島に鉄道はない
飛行機も飛ばない
人間が食べる≠ニいう歩調は
昔から変らない。
わずかに平らなテーブルの上に
ことしの花を咲かせるために
喜びの羽音を聞くために
杯を上げよう。
では向き合って
もう一度おめでとう!
互の背後には
新しい波がひたひたと寄せて来ている。
(「石垣りん詩集」ハルキ文庫 p158-159)
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1月1日
天皇の「人間宣言」
一九四六年一目一日、天皇は詔書を発して、天皇を「現御神」(この世に人の姿となって現われた神)とする考えが、「架空なる観念」であることを宣言した。いわゆる天皇の「人間宣言」である。明治以来、あらゆる機会に国民の心にたたきこまれてきた天皇を現御神とする考えは、太平洋戦争が敗北におわっても、容易に消え去らなか。た。当時一方では、天皇制の廃止か存続かの意見がたたかわされていたがその中でこの宣言が発せられたのである。連合国軍最高司令官マッカーサーは、この詔書に満足の意思を表わした。
「象徴天皇制」の日本国憲法が公布されたのはこの年一一月三日である。
(永原慶二著「カレンダー日本史」岩波ジュニア新書 p2)
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「人間宣言」への道
マッカーサーとの会見で天皇裕仁個人の地位の保障を得たことで、天皇制最大の危機はひとまず回避された。しかしなお予断を許さなかった。マッカーサーが与えた身分保障はあくまでマッカーサー個人の判断によるもので、いわば本国政府の政策をこえた独走であった。
確かにアメリカ政府も軍隊の解体に天皇の権威を利用し、さらに天皇を含む既存の政治機構を利用して占領政策を実行することではマッカーサーの方針と一致していた。しかしアメリカ政府はこれをあくまで当面の措置と考えていた。
なぜならばこの時点ではまだアメリカ政府には根強い天皇制廃止論が存在し、そのために天皇制の扱いに関して明確な方針を政府として決定できながったからである。
そこでアメリカ政府は、とりあえず天皇制の扱いをGHQに一任するとともに、もしも効率的な占領を遂行していく上で天皇制が必要でないと判断されるか、または日本の民衆の多数が天皇制廃止に賛成する、といういずれかの状況とならない限りは、なんらかの形で天皇制を存続させようとしていたのである。
しかしこのことがイコール天皇裕仁個人の戦争責任を不問とすることを意味しなかった。その証拠に一〇月八日、トルーマン米大統領は記者会見で、「日本人民が自由な選挙で天皇の運命を決定する機会を与えられるのはいいことだと思う」とのべ、GHQ法務局長カーペンターは二一日、「もし確証がある場合は、天皇を戦争犯罪人として審問することに不都合はない」と語った。そしてアメリカ政府はマッカーサーに対し、一〇月末天皇の戦争責任の有無の調査を指令したのであった。
さらに政治犯釈放で出獄した徳田球一らは直ちに共産党を再建し、一二月一日の第四回党大会で「天皇制打倒、人民共和政府樹立」をうたった「日本共産党行動綱領」を発表して公然たる活動を開始した。すでに治安維持法・治安警察法は廃止され、天皇制論議はもはや一切の法的規制を離れて自由だった。少数ながらも国民の間から天皇制批判の声が新聞等に現われ始めていた。
そして支配層に再び天皇戦犯の危惧を実感させたのが、一二月二日の梨本宮守正王、六日の木戸・近衛の逮捕命令であった。戦犯追及の手が皇族と天皇側近にまで及んだのをみて、支配層は天皇免責のため新たな措置を講ずる必要に追られた。そこで出されたのが一九四六年(昭和二一年)一月一日の「新日本建設に関する詔書」、いわゆる天皇の「人間宣言」であった。GHQの示唆に基づき幣原がまず英文で起草しマッカーサーの承認を経て発表されたこの宣言は、
「朕となんじら国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有するとの架空なる観念に基くものにも非ず」
とのべて天皇の神格性を否定するとともに、「信頼と敬愛」を掲げて後の「象徴天皇制」のイデオロギーを先取りしていた。
マッカーサーはこの宣言に対して、「天皇は、その詔書に声明したところにより、日本国民の民主化に指導的役割を果そうとしている」と強調した。このように、宣言はGHQと日本政府の合作による連合国及び日本国民むけの天皇免責宣言であった。
ここに天皇制は戦後天皇制への新たな第一歩を踏み出した。旧支配体制は解体され、絶対主義天皇制の社会的・経済的基盤は除去され、制度としての天皇制は全く新たな形に変身して存続することになった。
それは当初支配層が考えていた姿からは予想もつかない、いわば妥協に妥協を重ねたものだった。だがともかくも最悪の事態だけは回避して「敗戦にもちこたえることができ」たのであった。また天皇裕仁もマッカーサーの庇護の下、戦争責任を免責され、その地位を保障されたのである。
(藤原・吉田・伊藤・功刀著「天皇の昭和史」新日本新書 p114-116)
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◎「この小さい種火は、旧年と新年という一くぎりずつの歳月を結んで、時の流れの中で、ささやかな自分の暮らしが、実は大きい歴史の中にあることを教えてくれる」と。